第35節 東の御言葉
「すいません……僕……よく分からなくなって」
混乱していた僕に、ルリは優しく頭を撫でた。
「何も気にすることはないよ。君はどんな時だって、私を勇気付けてくれる」
彼女の笑顔を見るたびに胸が痛くなった。ドクドクと、黒い血液が身体中を巡る感覚。
ああ僕は、どうしてしまったんだろう。彼女の長くて美しい指先に触れた途端、頭の先から凍り付いてしまうような歪な感情が芽生えた。体の機能が全部鈍くなって、一つ一つの部位が腐り落ちていくみたい。死んでいくんだ、僕の内側の何かが。
カグヤは遠慮なく言い放った。
「それで、この男は何者なの?」
話が長くなるのを見越して座り込んでしまった東国の男トキウラは、カグヤに睨まれ口を挟むことを許されなかった。珍しく苛立ちを見せる彼女。僕がげえげえしてる間に何かあったのだろうか。えらくご立腹だ。バドたちに見せていた怒気とは違う、積み上げていくような怒りの買い方。カグヤに怒られるようなことだけは避けないと。
ルリは唐突に言った。
「彼は御言葉だよ」
突然の表明。呆気に取られた僕とカグヤとカノン。首を傾げるトキウラは、その意味をよく分かっていなかった。
ばったり偶然出会ったこの人が……御言葉?
「こ、こんなのが?!」
「お姉ちゃん」
指を差したカグヤの腕を引くカノン。失礼な姉を持つということは不幸なことだ。いや、カグヤだってしたくてしてる行為じゃないだろう。うん、多分。きっと。
「待ってくれ! そのミコトバってのは何なんだ? 手前らも、特殊な力を持ってるってことか? それってこっちじゃ多いのか? どんな力があるんだ?」
「ちょっと黙ってなさい」
カグヤに一蹴され閉口するトキウラ。またまた驚くべきことに、彼は御言葉を知らないらしい。彼の出身は東の果てにある島国らしいが、他の国との交流はなかったのだろうか。僕は頭の中に地図を思い浮かべる。
カノンが説明する。
「大陸の最東端、私たちも行ったことはありませんが、貴方はアシハラから来たのですか?」
トキウラが頷く。
「うむ。拙者たちの国はあまり外国との貿易をしなかったもので、志を持った者しか海の外に出ようとしなかったからのう」
「国交を結んだ国があまりないという噂を耳にしたことがあります……剣と鋼の国という別名も……もしや、狼血のマガミをご存じですか?」
カノンの言葉を聞いて、心が跳ねたように顔をほころばせるトキウラ。
「マガミ様を知ってるのか? やっぱり大陸にもその名前は轟いておるようだな。あっぱれあっぱれ!」
僕は首を捻る。マガミと言えば、大勇者とともに旅をした大戦士と同じ名前だ。
カノンが僕の様子を見て少し微笑む。
「狼血というのは、マガミが大戦士となる前の二つ名。御言葉であるということに気が付いたのは、島を出てからじゃないかな」
「マガミ様もミコトバだったってのか? おいそれじゃあ……拙者もマガミ様と同じ……こ、こりゃとんでもないことだ……」
震えるようなトキウラを尻目に、ルリは言った。
「凍土の騎士を一撃で葬り、氷を断ち切った。そしてかすり傷で私の意識を奪ったんだ。つまり彼は……」
ルリがトキウラと目を合わせる。緊張と期待が混ざる彼の瞳。ぐっと力が入るのが分かった。彼は御言葉を知らないままで、自分の力を何だと思ってここまできたのか。僕がこの力を自覚したのは、いつだったか。
「君は"絶つ"御言葉だ。驚くべきことだが、とんでもない力だよ」
御言葉は言葉の力。その言葉が絶つというのであれば、どんなものでも絶ってしまう。僕の照らす力がどんなものにも光をあてられるように、彼にも同じ力が備わっているということだ。
御言葉がどこまで制限のある力か知らないけど、彼の力ほど分かりやすく暴力的なものはない。大賢者がすべての未来を視ていたように、彼はすべてのものを絶ってしまう。これが比類なき、御言葉の能力だ。
「その実感はあるか?」
ルリがトキウラに尋ねた。首肯し彼は答える。
「その通りだ、拙者はこの刃こぼれした刀で何でも切れるようになってしもうた。物であればどんなに硬かろうがスパっと一刀両断だ。生物なら刃が触れただけで命も絶てるぜ」
トキウラはあっけらかんとして答えた。僕の背筋がぞくりと震えあがる。
なんだって? 触れただけで命まで絶てるのか?
しかし彼は小さく笑うと冗談めかすように告げた。
「ま、といっても殺せるのは魔物や動物だけだ。人は殺せねぇ。なんでだろうな……その一線だけは、無意識のうちに抑えちまってるのかもしれねぇ。命を絶つものと、気を絶つものとで」
先ほどまでとは打って変わって寂しげな瞳になった彼の表情。一つ結びにした彼の髪の毛が揺れる。
風が強く吹き、僕らを横切った。海に浮かぶ大きな帆船の姿を見つける。僕らを乗せて来たバイオルの操る船だ。
「そろそろ来る頃合いだと思った。トキウラ、君の力を借りたいんだ、ついてきてくれるか?」
ルリはさっきまで気を失っていたとは思えないほど、明瞭に現状を把握している。一刻も早く向かわなければいけない。
船に視線を送った彼は、にっと笑い清々しい表情で言った。
「任せろ、拙者はその魔神とやらを追いかけて、アシハラからやって来たのだ」
髪をかきあげた彼は、袖の幅広い腕を振り刀を腰に下げ、しゃなりと歩き出した。




