第32節 押し付けられた齟齬
氷に身を包んだルリは、先手必勝の凍土の騎士を従えさせる。
聖騎士たちとの戦いのあと、彼女は召喚魔法の研究にばかり注力していた。負けず嫌いの彼女からすれば、得意な召喚魔法で後れを取ったことに焦りを感じているのかもしれない。
人間であるズールィが光の竜を呼び出したことは歴史的な快挙だ。その一方で、彼女は己の好奇心の先にある光明を見出していた。竜を召喚できる一例を知ってしまったのだ。
ルリがそこまで竜に惹かれるとは思いもしなかったが、竜骨を必要としない竜の召喚に邁進した結果、竜こそ呼び出せないまでもより早い速度で精霊を召喚できるようにまでなっていた。
氷の海面を飛び越え、巨大な斧が小さな影に振り下ろされる。ジョルム地方で力の権化とも呼ばれる巨人たちの文明は、古代までその時を遡らせた。彼らは北の地にて栄華を極めるが、祖龍の子孫と争った後、歴史の舞台からその姿を消す。彼らが残した遺構はダンジョンという形で名を刻み、その遺物はいまも盛んに遺跡探検家が探し求めているものだ。
「バイオルさん、巻き込まれるかもしれません! 見えない位置まで退避してください!」
「あいわかったわい!」
バイオルが激を飛ばす。
それと同時に、ルリが築いた氷の道に僕とカグヤは降り立った。
「今度はルリが先走ったのね。魔道士、他に敵はいる?」
魔力の探知に反応するのは一個体のみ。
「いえ、この近くはあの魔神だけです! カグヤ、魔導具の出所は教団かもしれない! 彼らは人間を魔導具に変えている!」
速度を緩めることなく走るカグヤ。
「……あいつらなら、そんなことを平気でやってもおかしくない……それが、ロベリア教団っていう悪なの!」
剣を抜き力強く飛び上がった。
氷塵吹き荒れる中、僕らは見た。
「ルリ……!」
振り下ろされたはずの氷斧の跡はなく、弾け飛ぶはずの鬼の肉片はなかった。
それはありえない光景だった。
そんな……嘘だ……。
迫りくる破滅の音が、心臓の鼓動を締め上げる。
瓦解していく氷の巨人は、野太い雄たけびを上げながら、地面にその体を埋めていく。氷が散らばる中央には、投げ出された陶器のような肢体。
うつ伏せにルリが倒れていた。
叫び声とともにカグヤが走り出す。
わからない。何が起こったんだ……ルリが、負けたのか? そんなの、嘘に決まってる。
剣を振り切った音が、彼女の動作より遅れて聞こえる。遠のく現実感。また、人が死ぬ。
「うっ……うェ゙っ……」
衝動的に胃液を吐き出した。
吐き気が、止まらない。
だめだ……嫌だ……。
想像しただけで、頭がどうにかなりそうだ。
ルリまで失ってしまったら、僕はもう生きていけない。
みんな、僕を置いていく。
伸ばした震える指。彼女の白い顔に触れる。
「……ッ!」
息の吸えない僕は見た。
拭いきれない、藍色の呪いを。
これが鬼なのか。
紙一重で躱される自分の剣先。何度も振るうが、その刃が鬼にあたることはなかった。
スピードは勝っている。見切れない相手じゃない。だけど、こちらの動きが完全に読まれているみたいに、鬼がその一つ先をいく。聖騎士フリートとは違う異様さが背筋を凍らせる。
鬼の容姿を確認したが、魔物には見えなかった。人の形をした体に、海の果てにある東国の衣。そして一本の刀を持っている。
構えをとったまま攻撃を仕掛けてこない鬼に距離をとる。ちらりと後ろを振り返った。過呼吸を起こした魔道士が、ルリの傍で蹲っていた。
だめだ。あの子はもう、限界がきている。私と出会った時からそうだった。自分の命と他人の命を天秤にかけて、何度も心を壊してきた。
普段は元気そうに振舞っているけど、本当は旅を続けていい精神状態ではない。アトレアだって、そんなことは分かっていたはず……常人が大切な人の死に、そう何度も浸かっていいはずがない。
「早く何とかしないと……!」
じっと動かない鬼は、剣先だけは常にこちらを向けていた。まるで寸分の隙を伺っているかのように、ジリジリと圧をかけてくる。
何度頭の中で想像してみても、攻撃があてられる未来が見えてこない。こんなことは初めてだった。
剣の腕ではこちらが上、でもそれを感じさせない独特な間合いがあの鬼にはあった。接近は難しい。だけど、奥の手も使えない。
「こないのか? ならば、こちらから参ろうか!」
私の頭の中に疑問符が湧きあがった。
言葉を、しゃべった?
驚いたその一瞬に、距離が詰められる。自分の剣よりもひと回り長い刀が、鋭い突きを放つ。本能的に危険を悟ったカグヤは、剣を振り払わず後ろに飛び退いた。
なにこの違和感……全身がこいつの動きを拒否してる……!
突きを躱された鬼は大振りに太刀を振るった。二撃目も同様に受け流さず、紙一重で斬撃を避ける。
大きな隙を見せてくる鬼の余裕のある動作。無駄があるようでいて無駄がない。こんな独特な太刀筋は今まで見たことがない。多分、大陸から遠く離れた地で続いてきた、無名の型だ。
一つ縛りにした長い髪をたなびかせ、鬼の瞳がこちらを向いた。
「見事なり……! 今のを見切られたのは想定外だ。この辺の野盗は骨が折れて仕方がない……いや、実際に折れたことはないんだが……」
口数を余らせる鬼の懐に即座に入り込み、素早い斬撃を浴びせかけた。だが、空ぶった剣の切っ先を見ようともしない鬼は口を再び開く。
「無駄だ。もうその剣は見切っておる……だが妙な太刀筋だのう。野蛮さの中に秘めた高貴な流派……その方、一体何者だ? 拙者でなければ、これはいなせぬぞ」
言葉で惑わせてくる術でも身に着けたのだろうか。それから一切刀を振らなくなった鬼。
いまにも倒れ込みそうな魔道士の背中をちらりと見た。最悪の状況だ。こんなことならルリを先に行かせるんじゃなかった。
藤色に光る瞳を見た瞬間、鬼の顔つきが変わる。
「ちょっと待て、これはもっと予想外だ」
数倍の速度に跳ね上がった私の剣が、鬼の首を狙う。受け止める刀と刃がぶつかり合い、凄まじい衝撃波を生みだした。
二つの大きな力が相殺し合い、互いに体を弾き飛ばす。地面に靴底をこすらせて減速する。淡い光を帯びた己の剣を見て、私は眉間に皺を寄せた。
なんなの、これ。
防がれたことのない本気の一撃が、呆気なく相殺された。
大地に転がっていた鬼が、瞬時に顔を上げる。
信じられない。
「まさかまさかだな……俺の力にも匹敵するってのか」
過熱した頭が冷えていく。理不尽なことが起きた時、真っ先にしなければいけないことは自分が今どういう状況に置かれているか、それを見つけ出すことだ。
鬼はさっき、私たちのことを"野盗"だと言った。ルリのような若い魔法使いにも、私のような幼く見える剣士にも、おしゃべりな”この男”はなにも反応を示さなかった。私たちの容姿から、野盗であると判断する要素はないにも関わらず。
……こいつには、私の本当の姿が見えていない。
「お、お姉ちゃん!」
後ろでカノンが叫んだ。私たちが乗ってきた船に備えられた緊急時の小さな船で、無理くり漕いできたのだろう。寒いのに汗をびっしょりとかいている。カノンには船が魔物に襲われないように護衛を頼んでいたはずだった。
「どうしたのよ、船は無事なの?」
息せき切るカノンはしどろもどろに答える。
「おかしいと、思って……笛の……魔力……探知が……」
鬼は動かない。明らかに私たちの言動を警戒している。
「だから……調べたの……笛の力を使って。お姉ちゃん……その人……魔神だと……思う……?」
魔力の感じられない私は、驚く顔の鬼がどこか滑稽に思えていた。
この男……魔神じゃない……?




