第29節 すれ違う水しぶき
船が帆を張った。出港を告げる灰色の煙。漂う水面に浮かぶ、くすんだ色の雲。僕らを乗せた大型帆船は港を飛び出し東へと進んでいく。
鬼が出没したと思われる目撃箇所は、アコマーの沿岸沿いの地域だった。そこはカノンの持つ笛と同じ方向を示していた。気配を消すことに長けた動きの素早い魔物ではないかというのがギルドの見解だが、彼らもはっきりとした情報を得ているわけではない。なんせ通常の魔物の脅威レベルも上がりつつある中で、調査に回せる人員も不足していたのだ。
僕は揺れる船の上で考え事をしていた。
「気になるな」
甲板の縁に手を置いたルリがそう告げる。水飛沫が細かい粒となって彼女の肩にかかった。視線を逸らさず、彼女もまた、遠い思索に耽っているようだ。
バイオルはこう言った。
『鬼は、トレカの仇討ちだ』
異郷の地に思いを馳せ、船の見習い航海士として旅立ったバイオルの娘トレカは、東の島国で起きた魔力災害に巻き込まれたという。教王国で見た魔力災害の発生源、あれはアトレアと信仰心、そして教皇のスキルによって生まれた偶然の産物でしかない。教皇はそれを偶発ではなく故意に引き出せるよう祖龍の瞳を利用しようとしたが、誰にでも真似できるようなものではない。魔力災害とは、誰の意志も介在しないところで起こる、そういうもののはずだった。
『北の魔王領で聞いた、昔の話だわい。酒に酔った夫婦が、こんなことを言い出した』
一呼吸置いたバイオル。くゆらせた葉巻の煙。
『魔王が滅びた後、人間の軍勢を退けたのは突然現れた魔神たちだった……魔王国にとっちゃあ、守護神だとも言える……だが、問題はその後だ……』
湿っぽい風が僕とルリの間を通り過ぎた。荒波に惹かれるようにして、遠くで黒い雲が見えた。
『魔族たちはどうして魔神が現れたのか疑問を持った。いくら魔王の力の欠片といっても、それはただの希望的な憶測に過ぎねぇからな。大きな力は民衆に怖がられる。魔神が何なのかを調べる必要があったんだわい。そして魔神の痕跡を辿り、ついに見つけちまったらしい……それは、魔力災害の跡だった』
バイオルは魔族の夫婦から話半分にそれを聞いていたのだろう。当時の彼はそれどころではなかった。行方不明となったトレカのことで、ようやく彼は思い出した。
『魔神は魔力災害から生まれてきた魔物だ。てめぇらが東から魔神が来たってんなら、その鬼は魔力災害で生まれたに違いないわい』
僕は淋しげな視線に気付く。青いルリの瞳にがこっちを向いていた。
魔力災害が強力な魔物を生み出す。それが本当だとしたら。
「どうしてカグヤたちは私たちにそれを伝えなかったのか……」
揺れる船体。僕は甲板の縁を掴む。風でたなびく彼女の髪の毛が、あまりに無防備に見えた。自分のものじゃない誰かの鉢植えが、目の前で横に倒されたような、小さな後ろめたさ。
「彼女たちなら、知っていてもおかしくないはずだ。だが敢えて黙っていた。それは何故だ」
今日はことさら彼女の言葉が冷たく感じた。ロベリア教団のことだってそうだ。魔王領へこれから踏み込むって時に、そんな危険な組織をわざわざ内緒にしておくなんて。
『教えてくれる? 魔道士のこと。私が語ったように、あなたにも旅を始めた理由があるはずよ』
カグヤの言葉が胸で鳴った。彼女が語ってくれたことはすべて真実なのだろうか。魔力災害で故郷を失った彼女が、魔神の誕生を知らないわけがない。彼女はその目で見たはずだ。それなのに。
「魔道士君、私たちは本当に、自分たちの意思で魔王復活を阻止しているのだろうか」
尋ねられている言葉の意味が分からず、僕は何も言えなかった。彼女は、とつとつと話を進める。
「ずっと考えていたんだ。この力の根源はどこにあるのか、誰がこの力を人に与えたのか。教団やカグヤたちが私たちに隠し事をしていたのは、それなりの理由があるからに違いない。そこには……」
「"何者かの意思"が介在しているかもしれない、ですか」
声に振り返ると、そこにカノンが立っていた。竜骨の笛を手持ち無沙汰に片手で触れながら、ゆっくりと歩み寄る。
聞きたいことが僕には山ほどあった。口の中に砂が混じったような嫌な感じがしている。
「森で魔神を倒したあと、村の少女が魔神の力を得ていたな……何故、流罪地区で彼女を殺さなかった」
揺蕩う波の音が痛いくらい耳に入る。
カノンはじっとこちらを見たまま、表情を変えなかった。
「力を持った彼女が、村の守り神として生き続けなければならないと思ったから……そういう解釈では、納得いかない……かな……」
「仮にそうだったとして、流罪地区まで来てアトレアを殺そうとした彼女を、殺さず逃がした理由にはならない」
険しい顔のルリはカノンを見つめ返す。
「魔神とは一体何なんだ……何故魔力災害から生まれてくるんだ……カノン、私たちは本当のことが知りたいだけだ」
ずっと無表情だったカノンは、気付けば少し辛そうな顔にも見えた。だげど、ふっと息を吐き出し肩の力を抜いて表情を引き締めた。
「ごめんね、私にも分からないことがあるの。お姉ちゃんなら、知ってると思う」
いつもと違う雰囲気に、僕らは嘘を見抜けないでいた。恐らくそれは、ルリも同じだろう。
「……カグヤは今どこに」
僕は尋ねたが、彼女は困ったように笑った。
「お姉ちゃん今、船酔いで……」




