第27節 王の器
月夜に紛れるようにしてやってきた男は、細い窓から伸びた月の光をその身に受ける。進む足音はしなやかで、奥行きのある廊下に沈み込むかのように反響しなかった。
ふと何者かの気配がして、足を止める。
「趣味が悪いですよ、セレネ様」
フェルゴールはいつの間にか後ろに立っていた人物へ向けてため息を吐く。
幾千の戦いを経てきた自分が誰かに背後を取られるなど、何年ぶりだろう。
セレネと呼ばれた女は言う。
「御託はいいわ。フェルゴール、他の御言葉は見つかったの」
黒い甲冑に身を包み、剣を背負うセレネは、藤色の瞳をフェルゴールにさし向ける。影が落ちた彼女の瞳は、それでもなお輝いていた。
鼻で軽く息をしたフェルゴールは、肩を竦めてみせる。
「うまく領内へ潜り込もうとする輩は駆除していますが、それらしい者はいませんねぇ」
明かりの灯らない廊下を振り返ると、ゆるみのないセレネの顔が禍々しい気を放つ。
「レべリオンの指導者……知らないわけないわよね?」
ジョルムとの国境付近で魔王国の砦が一つ制圧された。人間の傭兵団が主力となって蜂起したとされているが、砦の兵士から受けた報告には、魔族の反逆も確認されているという。魔王復活に伴う反対派は確かに存在する。
仮初の平和を取り結んでいる現在、大きな戦争の引き金になりかねない魔王の復活は、魔族の間でもしばしば論争を巻き起こす火薬庫となっていた。
魔王の復活に好意的な国民が多い一方で、偏向報道だのプロパガンダだの陰謀だのと、復活に否定的な声も少なからずある。
そんな彼らと手を組んだ傭兵団は、自らを"レべリオン"と名乗り、ローザイに武装蜂起を起こした。鎮圧に向けて国が軍を編成していた最中、教団で最も地位の高い存在である男、剣聖フェルゴールは、彼らの鎮圧に名乗りを上げる。
「さすがはセレネ様、耳が早いですねぇ。もちろん、存じ上げていますとも」
フェルゴールはニヒルな笑みを浮かべ、壁に沿って歩き置かれた調度品に優しく触れた。つやのある表面に、残忍な顔が映る。
レべリオンは狡猾だ。領内のどこかに隠れ潜み、教団の支部を次々と破壊している。そこまで支障をきたすほどの工作活動ではなかったが、それに影響を受けた魔族たちが教団に対して懐疑的な姿勢を見せ始めていた。
正しいはずの行為が徒に穢されていくのを黙って見ているわけにはいかない。ロベリア教団は血眼になって彼らの本拠地を探し始めている。
しかし、レべリオンの指導者が光の魔法使いだということ以外は、今のところ戦果に乏しい状態だった。
「必ず見つけ出して、三英雄様のもとに召し出させますよ」
しんと冷え切った空気。その身へと取り込むように冷たさを返す。飾り気がないこの区画は、どれも質素な花瓶くらいしかおかれていなかった。
フェルゴールは無機質な彼女の瞳をじっと見つめる。セレネは変わった。長い付き合いであるはずのフェルゴールにも、最近の彼女が何を考えているよく分からなかった。
「私がこの手で処刑をするわ。絶対に生かして捕らえなさい」
淡い紫色の髪が青みがからせる夜の影。魔王国三英雄が一人、魔王セレネ。滅亡したエルフ族の生き残りで、先代魔王の遠い血縁者とも言われている。そんな彼女は永らく空席だった魔王の座に突如として襲名を遂げる。
長命種としてはかなり若く、見た目の特異性もあって、何故彼女が魔王として選ばれたのか、フェルゴールには疑問だった。
かつての魔王直轄軍であり、三英雄の一人であり勇者を最も多く討ち取ったコーレン騎士長や、闇祖龍の力を持つアウス伯爵など、他にもローザイには魔王にふさわしい実力者はいくらでもいた。血縁者というだけでその地位に担ぎ上げられたセレネは、数多くの者から妬まれているはずだ。
当時、魔王直轄軍の指南役だったフェルゴールは、幼い彼女の擁立を傀儡政権の幕開けだと揶揄した。魔王のいない中、新たな指導者を担ぎ上げるべく魔王城には御言葉たちの攻撃から生き延びた者たちが集っていた。
魔王の死亡はすぐに人間の国へと波及するだろう。そうなれば彼らの総攻撃が始まる。魔族に対する殺戮と隷従化が、国民の中に離れがたい恐怖として渦巻いていた。
今更ながら反戦論を唱えだす者もいれば、どうして人間たちと争い始めたのかを振り返り始める者もいる始末だ。権力者になれば戦争責任は免れない。それどころか人間相手に"魔族は劣った存在である"と認めさせられるようなものなのだ。こんな屈辱的な行為をしたがる者など、この魔王国にいるはずがない。
どこに進めばいいのか、どうすれば最善の解が得られるのか、大勇者によって引き裂かれた家臣たちに、これらをまとめられる術はなかった。一人、また一人と、有能な者から魔王城を去っていった。フェルゴールは指南役として、崩れゆく主君の城を見ていられなかった。とうに王はいなくなったのだ。潔く魔王城ごと焼き払ってしまおう、そう考えていた時だった。
「フェルゴール、余計なことは考えなくていい。ウニべ様の復活だけを考えなさい」
名前を呼ばれた彼ははっと顔を上げる。セレネの言葉に応じようとした彼だったが、その言葉を発することはなかった。
暗い廊下にただ一人佇む。セレネはやはり、魔王たる器を持っている。彼女が三英雄の一人と呼ばれたのは、玉座についてすぐのことだった。




