第24節 浸る船乗り3
「船長、お願い。どうしてもあなたじゃないとダメなの」
降りしきる雪に晒され、水滴のついた薄紫の髪。凍った港で、バイオルたちに力を貸したカグヤ。
「……何故だ。その辺を歩けば、冒険者よりも船乗りにぶつかる方が簡単なこの国で、どうして俺じゃなくちゃいけねぇ!」
彼は返す。舵を切ることをやめたバイオル。彼はもう、船に乗らないと決めていた。
「魔神が来ているんです」
カノンは穏やかだったが、芯のこもった声で言う。
「アコマー湾で迎え撃つためには、あなたの操船技術が要るんです……それに、魔物に向かって船を進められる勇気を持った人は、私たちにはあなたしか考えられません」
ややあって、バイオルは首を振る。
「……いや、勇気などもうないわい。分かるだろ? お前たちのおかげで帰ることのできたあの日、俺は海に出ることをやめたんだ。もう二度と、あんな後悔はしたくねぇ」
カグヤたちの護衛もあって、バイオルの船は埠頭国に帰還することができた。国を挙げての祭りが開かれ、船乗りたちは伝説的な英雄として語り継がれることになった。不可能だと思われた魔王領への渡航。結果は確かに芳しいものではなかったが、海から帰還した戦士たちを労わない法はない。それどころか、船乗りに敬意を払えない者はこの国にとって重罪だともいえる。
停泊する船すべてに飾り付けをし、横断幕が至るところに架かり、潮風を受けてその身を翻す。気苦労するような豪華な馬車に乗せられ、大勢の人に手を振られた。国中がバイオルたちの帰りを待ち望み、そして途方もない賛辞の言葉と酒を浴びせかけた。偉大なる海渡りの男、伝説の航海士。バイオルは人生でこれほど幸せだったときはなかった。
妻の死を知らされるまでは。
「……俺は海が好きだった。だが、海はそうじゃなかった……」
ヨハンは病気だった。バイオルが北へ針路をとって数か月後、息を引き取ったのだ。海を渡る彼は、陸での生活よりも海上での生活の方が長い。心配をかけさせまいと気丈に振舞うヨハンの病状を、彼が知りうるはずもなかった。紅潮していたバイオルの顔色は時化た海のように青ざめ、沈みゆく船の声が聞こえてきた。
『海はすべてを奪う。それは、船の上の者だけではない』
両足にしがみつくトレカ。頭を撫でてやれる余裕などなかった。泣き声に耳を傾けてやる余裕などなかった。航海に心を奪われ、辛い船上に足踏みし、大切な人のことなど何も知らなかった。思い出に蘇る彼女の笑顔。トレカを抱き、送り出してくれた彼女の心強さ。ああ、すまなかった、歌ならいくらでも歌ってやる。恥ずかしいなんて、躊躇った俺が馬鹿だった。だからもう一度、もう一度だけ、俺に微笑みかけてくれ。俺の帰る場所は、お前しか……。
「トレカは、どうしたの」
娘の名前を憶えている。やっぱりこの幼女は魔族だ。見た目はずっと変わらない。まるであの日からずっと止まってしまった時間の中にいるような、嫌な感覚だった。俺の時も止まったままだったが、このエルフを見ていると、あの日が永遠に続いているような気さえしてくる。
「帰れ! 俺はお前らの顔も見たくねぇ! 冒険者なんてもううんざりなんだ!」
激しい言葉が心の底から湧きだしてくる。ガキにかけられた魔法は久しぶりに酔いから目を覚まさせた。混濁とする沼に浸っていたかった俺は、さらに言葉を続ける。
「ヨハンも失った! トレカももう帰ってこねぇ! そんな俺にもう一度海に出ろだと! 舐めた口を利くんじゃねぇぞ!」
バイオルは隣に立つカグヤの襟を掴む。揺れるカウンターの上、葉巻が灰皿に落ちた。
「てめぇら御言葉なんだってな。そんな大層な奴らがそろいもそろってこの俺に船を出せってか? 冗談も大概にしやがれ、てめぇらが魔王をさっさと殺さねぇから、トレカは……トレカは……」
歯を食いしばって睨んだ彼の瞳は、カグヤの顔を映す。だが、カグヤはそんな彼の手を払いのけるでも、言い返すでもなく、そっと告げた。
「ごめんなさい、力不足、本当に、私のせいだわ……だからこそ、船長の力を借りに来たの」
息の詰まるような店内に、強い風の音が鳴った。窓から見える景色は、雪に埋もれ白みがかる。
「あなたの妻は、海が好きなあなたのために、笑顔で送り出してくれたんじゃないの。病気のことを知ったあなたが航海に出られなくなると思って、嘘までついて」
波打ち際に立ったヨハンの姿を思い浮かべる。彼女の言葉を追い求めた。
『海は男の戦場なんでしょ? 私があなたを戦士でいさせてあげるわ』
「バイオル、お願い。この国に魔神がくれば、船乗りたちの帰ってくる場所がなくなってしまう……トレカも、帰る場所を見失ってしまうわ」
「……」
黙り込むバイオルは、目深にかぶった帽子をぐっと抑え込み、震える空気を吐き出した。ぐらぐらしていた甲板の上、自分の震えを収める。
どうやら決断をする時が来たようだ。妻が先立ったことを自分の所為にし、船に乗ることをやめた俺を、娘のトレカはいつも心配していた。俺があいつの代わりに、帰るところを守らなくちゃいけねぇ。
「……ひとつ、約束をしてくれ」
ぶっきらぼうに言い放ったバイオルは、その場に居合わせた全員に視線を巡らせる。葉巻に付けられた火は冷たくなり、煙たい匂いはなくなっていた。
「魔神は絶対にぶっ殺せ……トレカのためにもな」