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星の屑から  作者: えすてい
第4章 あの雷を追いかけて
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第24節 浸る船乗り2


 本題に入る前に、まずはこの男のことを話しておきたい。古ぼけた口の悪いこの老人は、バイオルという名の船乗りだ。何十年も前から様々な海の上を渡り続け、船の都と呼ばれたハーフェンに、いつしか流れ着いたごろつきだった。

 当時は今ほど魔物の動きも活発でなく、商船を狙った海賊たちがアコマー湾の外をうろついている時代だった。当然、船乗りたちにはそれなりの技量が求められたし、なにより度胸がなければ逃げ場のない海上に自ら進んでいくこともできなかっただろう。所属する交易商会の船や物品が奪われるどころか、命の保証があるのかどうかも分からない。船による商いで生計を立てていたこの港にとって、海賊たちが大きな悩みの種だったことは言うまでもないだろう。

 だが、バイオルは他の航海士とは違った。彼が優れていた点は、弁の立つ口先でも船員や雇い主さえどつく素行の悪さでもなく、潮の流れを感じとることのできた勘の良さと、星座の傾きから船の位置を計算できる頭の良さだった。彼はそれらを駆使しておおよその海賊船の航路を割り出すと、警戒の網をくぐるようにして正しい針路をとることができた。海渡の神とも呼ばれる、バイオルの操船技術はアコマー中に広がった。

 妻のヨハンはそんな男の唯一の拠りどころだった。気性の荒い彼が船旅から必ず帰ってこられるのは、帰らなけらばならないという使命感がそうさせたのかもしれない。口喧嘩で何度も言いくるめられるバイオルの姿は船乗りの間では有名だったし、その後のご機嫌取りも彼女にしかできない芸当だった。船員たちはバイオルを宥めることのできるヨハンに船の同行を願っていたが、それを口に出す者はいなかった。海の上は何が起こるか分からない危険な場所だ。自分の命を顧みない港の男にだって、愛する者を連れて行くようなことはしたくないだろう。ヨハンもそれを知ってか知らずか、航海につれだってほしいと言い出すことはなかった。海の上は男の戦場であり、帰ってくる場所を守るのが女の戦いなのだと彼女はよく言っていた。したたかで情の深いヨハンに支えられ、彼らの間にはトレカという愛娘も授けられた。バイオルは、この国で一番の船乗りであり、最も幸せな男だった。

 ある時、国主の元から一件の仕事がまいこんだ。魔王国領内へ向けた貿易船の先導だ。埠頭国に根を張る商会が細々と続けていた魔王国との民間貿易を、国家規模で整備し利益の拡大を図るものだった。バイオルは国家公認の交易船長として、あるいは大使船の船長として、魔王国の港に渡航を言い渡されたのだった。誰も通ったことのない航路と海流。険しく、海図もなく果てもない航海。バイオルは二つ返事で船に乗った。こんな機会は滅多に来ない。自分という存在を海の上で存分に発揮できる、そう彼は意気込んでいた。だが、その船旅が彼の運命を変えることとなった。

 分厚い雲と雪は、段々と船員たちの精神を蝕んでいく。海に潜む魔物との戦いは連日連夜行われ、一週間も経たない内に船団の半分は海の藻屑となった。家に帰りたいと泣き喚く大男たち。甲板の上で力なく項垂れ、祝詞を囁く祈祷師たち。威勢のよさだけで国に選ばれた船乗りたちは、寡婦(かふ)のような絶望した目で意気を沈み込ませていた。

 冷たい風が、胸にせり上がってくる胃液さえも凍り付かせる。諦めが先行する船の上で、バイオルだけは舵を握ったまま船首の先をじっと見据えていた。魔族でさえ渡ることのできなかった凍った海。死地を乗り越えた先に待つ、誰も見たことのない光景。胸が昂らないわけがなかった。月が満ち、欠け、もう一度その姿が雲から現れた時、バイオルはついに港を見つけたのだ。

 それから数十年、結局埠頭国から派遣された大使は魔王国に辿り着くことはなかった。魔族の港に停泊した彼らが知ったのは、一級冒険者であるハイドラの著書から推測される大陸の地図が、少しばかり小さく描かれていたということと、陸路から魔王国を目指した方が遥かに安易であるということだけだった。小さな港から得られた珍しい交易品は確かにバイオルたちの成果ではあったが、途方もない損失には代えられないちっぽけな報酬だった。

 もう一度同じ航路を引き返す。それは、やっとのことで地に足をつけた船乗りたちにとって、豊穣神の抱擁を自らの手で拒絶するようなものだった。凍港を避けるために夏を選んだ彼らだったが、魔王領内の海はそれでも凍るほどの寒波に包まれていた。このまま足踏みしていては本格的な冬が来る。わかってはいたが、耐え難い船上の日々を思い返すだけで、船に乗る足は徐々に遠のいていった。

 港についてから一年が過ぎた。そこに住む魔族たちは、海を渡ってきたバイオルたちに非常に親切な待遇を与えた。人間の寿命を超えた彼らにとっても、魔王と人間の戦争は大昔の出来事であり、謂れもない者を忌避する理由はなかったのだ。一年かけてようやく帰る決心がついたのか、船乗りの多くはもう一度船に乗ることを賛同してくれた。

 しかし、傷んだ船が簡単に海の上を進めないのと同じで、心に傷を負った船員が快く船に乗りたがるわけでもなかった。魔物に対抗するための冒険者や傭兵も、行きの航路でほとんどが命を落とした。今度こそ、帰る保証のない運頼みの航海になる。バイオルにとって決断を遅らせることは、もう一年国に帰れない、いや、それどころか先延ばしを繰り返すことでさらに機会を失い、永遠に妻子と会えないこととを明確にするのと同義だと悟った。決意を胸に秘めた船員だけを集め、命懸けの帰還を打ち明けた時、彼の前に彼女たちが現れた。

 

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