第17節 埠頭国ハーフェン1
海というものを始めて見た。それは広く大きな形をしていて、どこまでも広がる空のようだった。白い波が泡立って、何度も砂浜に打ち付ける。風に乗ってくるのは潮の香りだろうか。堤防の上から身を乗り出すようにして、僕は海面に顔を近付けた。小さな僕を反射させる水の奥、小魚が泳いでいるのが目に入った。どんよりとした空模様でなければ、澄み渡る大海原を見ることができたのかもしれない。ちらちらと降る雪に体を身震いさせながら、僕は姿勢を元に戻した。
「もういいのか?」
ルリが尋ねる。大きな青い瞳が、不思議と揺れているような気がした。
「うん、大丈夫。……綺麗だね、とっても」
目を向けた僕は忖度なしに感想を告げた。波に上下する船の船団。運河を渡ってきた物よりも大きな船が遠くに帆を張っている。
頷いたルリは小さく笑い、不器用な僕の返事を受け止めた。
「なーにイチャついてんのよ二人とも」
カグヤが風に靡いた髪を抑え告げる。僕に一瞥された彼女は、腰に手をあてて自慢げに口角を上げた。ボロボロの鎧を身に着けていた彼女も、装備を新調していつもより上機嫌そうだ。
「やっぱりハーフェンはいいわね! いろんなものが揃ってて助かったわ」
ハイド運河が陸地の幹線だとすれば、海の幹線はアコマー湾であろう。大陸中の物資が船によって運び込まれ、ここハーフェンに集まってくる。品物は小売店や貿易商などに買われ、そこから商会へと取引される。貴重なものが仲介業者を通さない分安く手に入ったり、貴族に買い叩かれることもないので、ハーフェンまで足を運ぶ庶民も少なくない。
「お姉ちゃん、無駄遣いしてませんでした?」
カノンはカグヤに釘をさしつつルリに尋ねる。
ルリは単調な語気で返した。
「頼まれていたものだけだ。途中でいくつか買いたそうにしていたが、"リーダーの意向"に従うよう言っておいた」
「まぁ、それは頼もしい!」
「ふん! 別にちょっとくらい血とり草を上質のにしたっていいじゃない!」
顔を背けたカグヤが反論する。
「ごめんなさい、お姉ちゃん金銭感覚バグってるから……」
「どうやらそうみたいだな」
鼻で笑う彼女にカグヤは言い返す。
「バグってないし、ルリもちゃっかりカノンに加勢するんじゃないわよ!」
喚くカグヤを宥めつつ、僕は三人の仲裁に入った。
「まあまあ、お金はまだ余裕あるけど、ここから航路を取るのなら節約しておいても損はないんじゃない?」
元々の目的は馬車の購入であったが、ギルドの情報によると北のジョルム地方は魔物の討伐依頼が増えているという。危険度もさらに増してきている昨今、移動における速さと安全性を鑑みても、アコマー湾から船で入国するほうが良いと判断した。
「いいわ。リーダーの発案だし、私はそれに従うだけよ」
カグヤがそう言ったのを聞き、ルリも悪戯っぽい表情になる。
「だから、リーダーっていうのはちょっと……」
知らぬ間にこのパーティの頭目になった僕は、この集団の意思決定権を握らされていた。みんなで決めたわけじゃないけど、みんなはそう決めている。
「ご歓談中のところ申し訳ないのですが、そろそろ宿を取った方が良いと思いますわよ」
食料品などを買い込んだメアムが、大袋を両手に持ったまま僕らに言う。
「大きな街だが治安も悪い。安全な宿は早めに抑えておいた方がいいぞ」
翼を折りたたんだバドは、荷物持ちでもさせられたのか、大量の袋を下げる。少し顔がやつれているのか、気だるい表情だ。
依頼を終えた後、埠頭国に用事のあったメアムとバドは、そのまま僕たちに随行する形でハーフェンまで来た。長期の滞在を予定しているのか、彼女たちは日用品を多めに揃えている様子だ。
「大丈夫よ。街の治安程度で私たちビビったりはしないわ。それに、二等級はギルドの施設に無料で泊まれるの。あなたたちもくるかしら?」
頭の雪をカノンに払われながら、カグヤは言った。彼女たちと旅をともにしていると忘れがちだが、二等級というのはとんでもなく位が高い。ギルドに高く貢献しているという点から、かなりの高待遇が受けられるだろう。前回のギルドで恐喝まがいの態度を見せていたカグヤだが、ギルドが彼女たちに頭が上がらないのは事実だった。
バドは薄く笑って告げる。
「いや、遠慮させてもらうよ。ただ乗りするようで気が引ける。それに、俺たちはすでに宿をとってあるからな」
「残念ね。ゴブリン退治の時の借りを返そうと思ったんだけど」
カグヤは言う。
バドは考える素振りを見せながらもう一度彼女に向き直る。
「……そうだな。それなら、一つ頼み事をきいてくれないか?」
両翼の黒い翼膜に、白い雪が重なった。