第14節 本の虫3
治癒魔法は体組織が生きていて、自分で自分を治そうという働きが強いから、その働きを支えてあげられるんだ。元の形に戻ろうとする力がない鉱石なんかは、それらに反応を示さない。
つまり、壊れたものを直す力は、僕にはないんだ。
「……ぞぉだぁ」
「これカーリア、黙想中だ。声を出すでない」
ジジはカーリアに口頭で注意をしつつ、彼女に怪訝な視線を送る。
「あ、ジジ、彼女は……」
「そなたもだ。声を発してはならんと言うておるのに。罰として、二人とも残って聖堂を掃除しなさい」
僕は言い返したい気持ちをぐっと堪えて彼女を見た。大きな茶色い瞳が、無垢な色をして僕を覗き込んでいる。瞼を閉じた僕は、針を心臓に落としたかのような痛みに、どうすることもできなかった。
祈祷が終わってみんながいなくなった後、しばらく無言のまま、濡らした雑巾で床を磨いていた。カーリアは、気付いているのだろうか。失ったものが、どうなったかを。
僕はジジに気付かれないよう、慎重に魔力を操った。光の軌跡が、ゆっくりと彼女に近付いていく。視界の端にそれを捉えたカーリアが、驚いて僕の方を向く。床に伸びた彼女の影の中で、光が繋がって文字を作った。
『ジジからもらった石の板はどうしたの?』
それを読んだ彼女は目を伏せて首を振った。肩に重しでも乗っているかと思うような、気落ちした姿。僕は迷った挙句、懐に隠しておいた石の板を取り出してみせた。
『これ、落ちてたよ。失くさないで』
そう魔法で綴り、彼女に渡す。板はボロボロになっていたので、僕が欠けらを繋ぎ合わせて粘土で固定した。もっと高等な魔法が使えれば、石でもくっつけることができるんだろうけど、これが今の僕には限界だった。
僕はちらりと彼女を見る。
ひび割れに手を添わせた彼女。石の板は表面が固くよく磨かれていた。文字を繰り返し書くのに便利な道具。カーリアは僕の袖を掴むと、いつもみたいな躊躇うような笑顔を見せた。
『ありがとう』
彼女はそう書いて僕の方に石板を渡す。
僕はどうしていいか分からず、曖昧に頷くばかりだった。
こんなとき、どんな顔をすればいいのか分からなかったんだ。
『さがしてくれたの、わたしのために?』
続いて書いた彼女は、上目遣いに僕を見つめる。
カーリアのため……。
そういうわけ、じゃないと思う。誰が何をしようが関係なかった。僕にとって世界は他人だし、世界にとって僕は他人だ。あの薄ら笑いの鼻を明かしたかったのかもしれない。胸に溜まった不快な気持ちを、すっきりさせたかったのかもしれない。僕は……そう僕は、自分のためにあの茂みに入ったんだ。そうでなければおかしい。
カーリアから石板を受け取り返事を書こうとした時。
「おい、あいつらサボってるぞ!」
「本の虫たちが遊んでる!」
カーリアをからかっていた男子が僕らを見つけ、高い声を上げる。僕はかっと頬が熱を帯びるのを感じた。
こいつら、ぬけぬけと。
拳を握りしめる。
「おい、なんであいつあの板持ってんだよ」
二人がこちらに向かって来て、僕から板をひったくる。
「っは! 魔法が使えないから、手を出せねぇよな!」
僕は歯を食いしばった。どこまでも、陰湿な奴ら。
「おい、これくっつけてあんじゃん。もう一回壊そうぜ」
「やめとけよ。こいつがジジにチクるかもしれねえし」
そいつは興味を一旦失くそうとした瞬間、何かを閃いて楽しそうに笑った。
「……そうだ、カーリアがこんなひどい使い方してるって、逆に俺らがジジに告げ口してやろうぜ。そしたらもうこんなお荷物に高価なもの与えようとは思わねぇだろうしよ。な、おつかれ様、魔法使いさん」
胸糞悪い。いつだったか、魔法を使って町に来た魔物を倒した時、同じようなことを思った。あの時の冒険者は自分が助かりたいがために、わざわざ町まで下りてきた。どうして平気で人を傷つけるようなことができるのだろうか。どうして苦しむ人の顔をそうまでしてみたいのだろうか。憎しみと、怒りと、憐れみを少し乗せて、僕の体に魔力がみなぎった。
耳が聞こえない、口がきけない、たったそれだけのことなのに、それ以外は何一つ僕らと変わらないカーリア。
人の心が分からないのなら、こいつは魔物と変わらない。変わらないなら、別にいいよね。耳の中で響き続ける音。目頭が熱い。体に眠っていた魔法が、あの日の時のように解き放たれる。
そんな僕の体が動くより早く、隣にいたカーリアが動いた。勢いよくそいつに飛び掛かると、体ごと地面に叩きつける。
「カーリア!」
僕は叫んだが、すぐに体を引きはがされた彼女は、お腹に蹴りを食らわせられる。
「あああああぁっ!」
言葉にならない声で叫ぶ彼女は、怯むことなくもう一度体当たりする。髪を掴まれ、顔を殴られ、それでもカーリアはそいつに食らいついた。
心臓が痛い。体が固まって動けない。
助けなきゃ、助けなきゃ。
頭の中だけが延々と回り続けているのに、舌先一つ、動かすことができなかった。握りしめていた拳はいつの間にか震えている。
強い力で押され、カーリアは床に蹲る。
涙で濡れた顔。上気する頬。
「お前みたいなのがいるから、いいものも食えねぇし町にも自由に出られねぇんだよ!」
激昂する彼は彼女を見下しながら足を上げる。
僕は何も考えられなくなって、咄嗟に彼女の体に覆いかぶさった。重い踏みつけが僕の背中に食い込む。
痛い、怖い。
「おいおい、かっこいいなこいつ。ヒーロー気取りかよ」
冷たい笑いを吐きかけ、そいつは足元に転がった石板を拾い上げた。
「ぁえいてっ! ぁえいてぉ!」
僕の下でカーリアが叫ぶ。
「何言ってんのか、分かんねぇよ!」
そいつは叫ぶと同時に、手に持った石板を床に叩きつけた。飛び散る破片と、響き渡る耳鳴り。
……ああ、もういっそ、全部なくなってもいいかもしれない。この煩わしい耳鳴りが収まるなら、彼女の悲鳴も、あいつらの笑い声も、この胸の痛みも、全部。たくさんの言葉を知っているはずなのに、うまく説明できない。それを知ろうと思えば思うほど、かけ離れていく自分がもどかしくて、苛立たしい。
聖堂が光に包まれた。魔力が光り輝き、頭の中の靄が消えていく。心地よくて、暖かくて、これが、魔法なんだ。全てを葬り去る、絶対的な力。どうしてこの力を閉じ込めていなくちゃいけないのか、理解できない。
恐怖で腰が抜けたのか尻もちをつく二人組。間抜けなその面を二度と見なくていいように、僕は手のひらを彼らに向ける。
不思議な気分だった。自分の体なのに、自分の意志じゃないような。嫌なことも悪いことも、全部この力の所為にできてしまえる。さあ、ヒーロー気取りかどうか、その体で確かめてみてくれないか。
僕が一歩、彼らに踏み出した時だった。弱い力が僕を後ろから抱きしめた。
「ぁめえぇ、ぞぉだぁ……」
カーリアは、小さな体で力も弱く、大人しい。耳も聞こえないし言葉もうまく喋れない。みんなに馬鹿にされて意地悪されて、それでも、懸命に文字を覚えて、言葉を覚えて、明るく笑った。
どうして。
この二人は、君に酷いことをしたんだよ。
「何事だ!」
扉を強く押し開けて入ってきたジジ。
輝きの中に見た彼女の優しい心。僕はそれに少しでも、触れてしまった。
煩雑に埋まっていく視界。気が抜けてしまったように、体に力が入らなくなる。倒れ込んだ頭に残る、わずかな意識。気を失っちゃだめだ。二人が悪さをしたことを、僕が証明しないといけないのに。耳鳴りのしない僕の頭は、そのまままどろみに溶けていった。
だってカーリアは、優し過ぎるから。




