第4節 瓶の中の雷鳴2
「すごいな………」
目をしばたたかせたルリは呟く。
眼前には横たえる巨大な川。
下流へ向かって真っすぐに伸びた堤防が、
視界の先でぐねりと歪んで曲線を描く。
整備された幅の広い河川。多くの停泊する船。
伝うように発展した大きな街が見えてきた。
「蒸気船なんて久しぶり」
カノンが腕で伸びしながら告げる。
ルリは好奇心に目を光らせ尋ねた。
「こっちではこれが普通なのか?」
運河の反対側、向こう岸にも街並みが見える。
乗ってきた船よりも大きな蒸気船もあった。
アコマー湾に繋がる人工の河川。
ハイド運河は大陸における重要な交易路だ。
東西に広く流れる川を改築し、
幾分か昔に交通機関として船渡しが始まった。
川は人や物の運搬にとても役に立つ。
海のない内陸部でも船の技術が培われるのはその為だ。
長い時間をかけて主要な交易路となった運河は、
この地域一帯を結ぶ架け橋となっていた。
「ハイド運河は特別なんですよ。
川幅が広いので大きな船が通ることができます。
蒸気船が活躍するのはこの川と海だけですね」
カノンの言葉にルリは頷いて見せる。
アルディアにはこのような運河はまだないだろう。
霊峰を隔てた先は大きく文化が異なると聞いていたが、
まさかこんな発展を遂げているとは思わなかった。
僕は運河沿いに立てられた看板が目に入る。
そういえばと思い出したように気兼ねなく尋ねた。
「彼は本当にエルフィンに来たの?」
カノンが僕の問いかけを、向いた視線から察する。
エルフィンとはエルフたちが住んでいた都のことだ。
一瞬躊躇ったかのように言葉を飲み込むカノン。
長い紫髪を振り回すようにカグヤが割って入る。
「来たわよ……、よーく覚えてるわ」
うんざりしながら告げる彼女の様子は、
明らかにたっぷりと含みをもたせた物言いだった。
ゆっくりと岸に船体をつけ停止する。
上流から下ってきた僕らは下船して陸に足をつけた。
この運河につけられた名前の由来、
それはその建設に最も寄与した人物からとられたものだ。
ハイド運河は長く広く様々な地域を横断する。
一介の街や国が一朝一夕で完成させることはできない。
地域に根差した支店を持ち、信頼の厚い機関。
そして資本力や実現力を待ち得る存在。
それらの条件を独占し恣にしているのは、
今も昔も冒険者ギルドだけだろう。
中でもいち早くこの運河建設を提案したのが、
"ハイドラ"と呼ばれた冒険家だった。
今日、世界各地で活躍している冒険者の頂点、
ギルド初の一等級冒険者。記録にはそう残されている。
彼は大陸のありとあらゆる場所を巡っており、
大陸の大まかな地図も彼の著書を参考に作られていた。
彼の冒険への好奇心は計り知れず、
その対象はエルフィンも例外ではなかった。
「ただの好色男よ。みんな彼を毛嫌いしていたわ。
エルフはヒト族に比べて美形が多い、だとかなんとか………。
………ヒト族はあの男の話、みんな好きね」
目を細めた彼女はじっと僕の顔を見る。
彼女たちにとっては百年くらい前の出来事だ。
懐かしい思い出でもいいはずだが。
あのハイドラが好色………。
カグヤが言うのだ、嘘ではないだろう。
僕の思い描いていた人物像と少し違う。
しかしそれも仕方のないことだと思う。
冒険者ハイドラは誰もが知る歴史の偉人。
ヒト族に出会えばこの話は避けて通れない。
彼と同じ時代に生きていること自体が
人間からからすれば信じられないことなのだから。
バドがその会話に水を差した。
「歓談中悪いんだが、早速お出ましのようだ」
彼の翼が大きく左右に展開していく。
羽ばたくと同時に強い風が地面に吹き付けた。
運河に停泊中の船は岸に繋がれたまま動かない。
僕らが乗ってきた船以外に、航行する船はなかった。
石畳が整備され建物も立派で頑丈そうだ。
相当な裕福な暮らしぶりが連想される運河沿いの街。
そんな大きな街に、今は人の気配が全くしない。
殺気を帯びた息遣いが至るところから僕らを見る。
ギルドから受けた依頼は三等級の魔物の討伐。
三等級というのは、小国の軍事力に匹敵する脅威だ。
僕らの真っ直ぐ先に、一人の女性が横たえる。
服が引き裂かれ、痣まみれ。
暴行を受けた婦女子。
その隣には、緑色の肌に筋骨隆々な体、
人間よりも数倍大きな魔物が鎖を握って立っている。
人を家畜のように繋ぎ、首に巻き付いた鎖を引いて、
女性を無理やり引きずって見せた。
醜悪な顔、毛髪のない頭部、部族のような装束。
総称をゴブリンと呼ばれた魔物。
魔物の中でも一際知能が高く、
道具を使い、独自の言語を操る。
人間との差異は、その狂暴性にあった。
種族を違えば見境なく襲い、命を、食糧を、尊厳を奪う。
「助け……て……」
女性が手を伸ばし助けを請う。
さっきまでの空気が一変して凍りつく。
真っ先に飛び出したのはカグヤだ。
剣を既に抜刀し、高速でゴブリンに近付いた。
ニヤリと笑った緑色の顔は、瞳孔が小さく薄気味悪い。
手にした鎖を離し、背負っていた鉄の板を持ち出す。
両腕に嵌め込むと前腕を押し出す。
ぶつかり合った鉄板がカグヤの剣の動きを留める。
「……っ!」
鉄の壁となったゴブリンの盾。
剣を握り直したカグヤは後ろに飛び退いた。
「みんな気を付けて! こいつら、おかしい!!」
叫んだカグヤの表情が青白く変色する。
離れた僕らとカグヤの間に結界が張られた。
メアムが素早い動きで短刀の切っ先を結界に突き立てる。
しかし、跳ね返る衝撃に彼女は腕を震わせた。
白兵戦に特化したカグヤと分断されたてしまう。
僕は周囲の建物に魔力探知を張り巡らせる。
民家から溢れだした小さなゴブリンたち。
甲高い声と一緒に軽い足音が渦巻く。
屋根の上から弓を携えたゴブリン。
矢筒を腰に回し、つがえた弓を引く。
羽根が風を切り、鏃を先頭に軸を揺らせながら進む。
僕らを囲むように数十本の矢が向かう。
「氷壁!」
射られた矢が突き立った氷に阻まれる。
地を這う氷の道筋、その中心には手をついたルリ。
青い瞳が前髪の下で切れ長に光る。
舞い散った氷の粒が降り注ぐ。
彼女は言い放った。
「魔道士君、活路を開いてくれ、援護する。
カノン、結界魔法の解析と解除を頼んだ!」
頷きあうと、お互いに魔法を唱えた。
軽装な鎧を身につけたゴブリンの大群が押し寄せる。
捕虜にした人間を囮に使い戦士職を誘い出す。
人の仲間意識を利用した狡猾な奴らの罠。
切り上げた斬撃をものともしない大柄なゴブリン。
カグヤと互角に渡り合う魔物なんて、想像できなかった。
気色の悪い違和感が街から滲み出る。
眼前の強力な結界も魔法の気配が非常に薄い。
今までとは、明らかに何かが違う。
近付く小さなゴブリンたちを蹴散らし、
魔力の流れを逆算して魔法を使う魔物の元へと走り出す。
カノンが結界を解除するよりも早く、
結界を張っている本体を叩かなければ。
白い氷が左右から近付いてきたゴブリンを凍らせる。
喉のつぶれたようなしゃがれた叫び声。
僕は民家の壁をぶち破り、魔力の根元を見つけ出す。
そこにいたのは魔方陣の上で祈りを捧げる一匹のゴブリン。
焦ったような表情を一瞬見せた後、
そいつは広角を引き吊り上げて笑い始める。
影に入ったゴブリンの顔が黒く染まった。
………こいつも、ブラフだ!
いうが早いか、僕は背後から何者かに覆い被せられ、
地面に押し付けられた。
魔方陣を描いていたゴブリンが、
僕を嘲笑いながら逃げ出す。
必死に引き剥がそうと、体を押し退け腕を掴む。
そして気付いた。
死体だ。
人間の死体。
冷たく重い人体が、僕にのしかかる。
振り返ると、死体を放り投げたゴブリンが
人間を盾に弓を構えていた。
焦点のあわない力の抜けた男性がゴブリンに抱えられる。
生きているかどうかも判断つかない。
忙しなく巡る頭の中が、増えた選択肢に翻弄される。
動きを止めてはいけない。躊躇してはいけない。
焦り戸惑う心に言い聞かせながら、
僕は全身に魔力を巡らせた。
光を放てば防御は薄くなり、
ともすれば矢に頭蓋を射抜かれてしまう。
矢ごと消すような威力は、
あの人質の男性さえも消しかねない。
判断に迷った一瞬で、先に矢が飛ぶ。
容赦のない攻撃が、僕の眉間にぶち当たった。
剥がれ落ちる魔法障壁。
………何なんだ、こいつら。
崩れた屋根の上にマントをなびかせたルリの姿。
粒になった冷気がゴブリンを包み込む。
「―――だめだ!!」
ルリには人質が死角になって見えていない。
瞬時に氷の中に囚われた弓ゴブリン。
巻き添えに体の半分が凍らされた男性。
人間たちの死体と人質に気が付いたルリだったが、
飛び交う他の矢に注意を割かれる。
氷の壁を四方に立ち上げ、彼女は白い息を吐く。
結晶の形が歪に曲がりくねる。
追い付いてきた雑兵ゴブリンたちの叫びが響いた。
魔力の気配がどこかで再び花開く。
薄ら笑う彼らの声に判断がさらに鈍る。
ルリの瞳。狼狽がありありと映し出されていた。
ゴブリンによって封鎖された運河沿いの街。
ひりつくような太い雄叫びが上がった。