第3節 尖兵
大陸の端にある極東の島国。
豊富な水資源と海域で隔てられた地形で、異国情緒溢れる独自の文化を作り上げていた。名をアシハラと呼び、滅多に他国と交流を持たなかった。
折り目のつく地図を閉じた女が、食器を手に持つ。皿にのった焼き魚の身にフォークを突き刺し、豪快にガブリと齧り付いた。……美味しい! 脂と塩加減が舌を心地よく刺激する。香草の独特な風味が鼻をくすぐり、さっぱりとした果汁が味をギュッと引き締めた。
「メアム、魚の骨が喉に詰まるぞ」
向かいの席で足を組んだ大柄な男が告げる。歯型のついたサンドイッチを片手に、長い足を持て余す。
「だってこんなに美味しいんですもの! バドも一口、ご賞味いかが?」
黒い羽をピクリと動かしたバドは、グラスに注がれた赤い色の飲料をぐいと飲む。鋭い目つきを吊り上げた彼の表情は、威圧的な風貌と評されることが多かった。
空になった容器をテーブルの上に置き、バドは顔も合わせないでメアムに告げる。
「海の生物は御免だよ。あの目玉が気色悪い」
「まあ! 生き物の好き嫌いはいけませんわよ」
窘めた彼女は眉を傾ける。額の中央で別れた前髪が、柔らかくサラりと揺れた。
バドは言い返す。
「食べ物の好き嫌いだろ」
ペロリと完食したメアムはナプキンで口を拭き、丁寧にフォークを器に片しながら告げる。
「……同じことですわ。そんなことより―――」
メアムは口いっぱいに頬張るバドを待って、縦に長い瞳孔をさらに細めた。目線の先、帆船が所狭しと並ぶ海岸の奥にうっすらと水平線が見える。両側の半島がこの海域を閉鎖的なものとし、大陸でも類を見ない大きな湾を形成していた。大陸の東部に位置するアコマー湾と呼ばれたこの入海は、海と陸地を繋ぐ港湾が古くから乱立していた。それらをひとまとまりとする国が建国され、人々はこの地を埠頭国ハーフェンと名付ける。
ミャアミャアと普段ならうるさいウミネコの合唱も、冬の時期に差し掛かったこの海には聞こえてこない。風も波も立たない穏やかな海岸線が、二人の目の前にずっと長く広がっていた。メアムは折り畳んだ地図を意識しながら、バドに向けて告げる。
「―――"鬼"がいつ来るか聞いてるかしら?」
丁寧な言葉遣いとは裏腹な抑揚のない声。バドは視線を交えて返事をする。
「さあな。だが最後の報告から二か月は経ってる。もうじき現れるのは間違いないはずだ」
「だといいんですけれど。あまり信用なりませんわね」
ふくれっ面ともとれる彼女の顔をバドは鼻で笑った。
「"剣聖"のことか? お前は嫌いだな、あいつのこと」
「当り前ですわ! 力にものを言わせてあんな横柄な態度……! バドも腹が立ちませんこと?!」
肩を竦めたバドはメアムの勢いのある言葉を曖昧に返す。
「さて、どうだろうな。それが"剣聖"と呼ばれている由縁だ」
怒りの収まらないメアムにバドは穏やかな口調で諫める。
「メアム、"剣聖"に歯向かうことだけはやめておけ……あれはお前の"ふたりきり"でも勝てない」
腕を組んだ彼女はふいと顔を逸らし、頭上の大きな猫耳を揺さぶって感情を吐き捨てた。
「そんなこと分かっていますわ!」
手についたパン屑を払うバド。
束の間の沈黙が流れた後、鳥の羽ばたきが耳に届く。
「ほう、驚いた。今回は時間通りだったな」
バドが見上げた先、特徴的な首飾りをした伝書鳩が一羽、翼を忙しなく動かしテーブルの上に着地する。ナプキンが風で煽られ形を崩すが、気にせずメアムは告げた。
「この連絡手段っていつも一方通行ですけれど、断る時はどうするんですの?」
鳥の足に結えられた手紙を取り出すと、バドは興味なさげに呟く。
「元々拒否なんて受け付けてないんだろう。逆らう者は皆殺し。教義を忘れたか?」
役目を終えた鳩が空に飛び立つ。首輪に込められた魔法は高度な仕掛けがあった。どんな機密事項なのか、早速バドは手紙に目を通す。鋭い視線のままゆっくりと向き直り、彼は告げた。
「ついにお出ましだそうだ」
顔色の変わらないバドから手紙を受け取ったメアムは、まばたきを数回挟み、その短い手紙を読む。
『御言葉来られたし。東国の魔神を駆逐せよ』
細長い彼女の指が読み終えた手紙を弾く。ヒラヒラと揺れる小さな紙片が海に向かう。すると空中で発火し、燃え上がった。立ち上がるバドに続いて、メアムも椅子を押し下げた。
「はいはい。分かっていますわよ。食べて飲んでるだけでは腕が太ってしまいますわ」
バドがそれにつっこむ。
「鈍る、だろ」
今度は反論せず、メアムは肩で風を切って歩き出した。翼を大きく広げて伸びをしたバドは肩を回す。
上空に飛んだ伝書鳩は来た道を逆に戻る。付けられた首輪には、小さな紋様と文字が刻まれていた。
『ロベリア教団』