第1節 メインヒロイン!2
宿屋の店主は既に一階の受付にはいなかった。そこに置かれた椅子をお借りして、私は話し始めた。
「ルリさんって、面白い方ですね」
「……はい、ルリは少し変わっているというか、ズレているというか……」
魔道士と呼ばれた彼は恐る恐る自らの所見を口にした。身内を語る時の"申し訳なさ"を感じさせながら。私はそんな彼に共感してついクスリと笑ってしまう。
「お互い、大変ですね」
なんだか取り入ってもらおうとするような下世話な言い方、そんな風に聞こえてしまったかもしれない。しかし彼はあまり気にした風もなく、笑ってそれに応えてくれた。
到着が遅かったからか、日没はとっくに過ぎ窓のカーテンを透過して月の光が差し込んでいた。彼の魔法で足元が見えないなんてことはなかったが、昼間のような陽気な雰囲気もこの時間帯にはなかった。
「―――それで、なにか話があるんですか……?」
早速、彼は尋ねてきた。
純粋そうなその瞳を、私の方に向けて。
「ルリさんたちに着替えをさせてあげたくて……」
膝の上に置いた両手を重ね、私は告げる。
「……ああ、そういうことですね。すいません、気が付きませんでした」
そう答えた彼は私の衣服に視線を落とす。古い汚れや傷はあるものの、比較的綺麗な私の身なり。私の心配もしてくれているのだろうか。無理もない、誰だってそう思うのだから。
「私は大丈夫ですよ……ほら、魔法のせいか、あまり汚れないんです」
袖を掴んで広く衣服を持ち上げた。細かいようだが、便利な特性を持ったものだ。
彼は感心したように告げる。
「本当ですね……羨ましい限りです」
そう言いながら自身のローブの汚さに苦笑した。私はそっと魔法をかけてあげる。淡く光った衣が、ほつれた糸同士を繋ぎ合わせ、破れた箇所の穴を塞いでいく。
私は呟いた。
「高価なものですね……」
魔法で編まれた糸はかなり目が荒く、破れやすい。庶民の使う安物はそれこそ冒険者向きではなかった。衣類は装備の中で生命に直結する。環境の激変する自然界での生活は、定住者には予想もできない過酷さが常に付きまとう。
彼の纏う紺色のローブをじっと眺めた。手織りでキメ細かく、繊細な装飾が施されている。貴族が誂えたにしては丈夫過ぎるのではないだろうか。私は少しだけ疑問を覚えた。まるで紛争地帯を歩く者が特注したかのような、強力な防護の魔法がかけられている。この一着だけで屋敷が建つかもしれない。何故、こんなものが。
ふいと彼の目を見つめる。私の言葉に少年はわずかながらはにかんで返す。
「貴族の方を助けた際に頂きました。僕には勿体ないくらいの代物です……」
寒々とした空気が室内に入り込む。
戦いで消耗した彼の衣。
「……あの、ありがとうございます」
私は首を振って謝辞に応えた。
そろそろ、上も終わる頃だろうか。
■■◇■■
青い色の瞳、肩まで伸ばした髪の毛を払うと、ルリは人差し指を回し魔法を唱える。発生させた少量の水を浮かび上がらせ、髪を覆う。薄いベールに包まれた水色の毛髪が、根元からせり上がる水圧にその身を踊らせた。
「魔法は便利ねぇ」
カグヤは新調した衣服に袖を通しながら、関心したように告げる。いつもはカノンの魔法で汚れを落としていたが、さっぱりとした心地良さには水が最適なのよ、と彼女は笑顔を見せた。石鹸なんて貴重なものを、まさか旅をしながら使えるとは思ってもみなかった。泡立った体を水で流し、表面の皮膚に触れる。吸い付くような素肌に、ルリは感動を覚えた。
体を洗浄した後の水を操り、目の前まで持ってくる。水に浮く自分の体の汚れ、垢、体毛をまじまじと見つめて、私は顔を顰めながらそれを窓の外に投げ捨てた。
「驚いたでしょ?」
自慢げに言うカグヤへ、私はチクリと刺す。
「持ってたなら早く言ってくれ」
石鹸の香りが鼻腔をくすぐる。華やかな香りが部屋中に広がった。私たちは今までどんな状態でいたのだろうか。先ほど捨てた汚物を思い出し、背筋を凍らせる。ここまでの道中で貸してくれてもよかったのに。ヤミレスにいた時でさえあれほど体が汚れたことはない。改めて、自分の匂いを嗅いでみた。……うん、大丈夫、臭くない……はず。
「私が確認してあげるわよ?」
ひたひたと近付く彼女。その言葉に私は素早く首を振った。人に匂いを嗅がせるなんてとんでもない。エルフはそれを善行だとでも思っているのだろうか。
「冗談よ。……あれ、通じなかった?」
カグヤが朗らかに笑いながら言い放った。どこの地方にそんなセンシティブな冗談があるのだ。自分の肩を抱きかかえた私に向かって、優しく笑うカグヤは続けた。
「ルリもお年頃なのねぇ」
相手がマーシャだったら、私は小馬鹿にされたと思いきつく言い返したりしていただろう。だがこの幼い体に刻まれた長い人生の歴史からだろうか、カグヤの言動からは一切の嫌味を感じなかった。
不思議な人だ。旅をしていてそう思った。
言葉こそ刹那的、かつ独善的な部分が目立つが、相手を嘲笑したり見下すような口調はしてこない。彼女は心の底から一喜一憂し、豪快に人生を楽しんでいるように思える。正直羨ましいとさえ思う彼女の言動。私も、あれだけ純粋になれたらいいのに。自分の身勝手で高飛車な律を、この年になっても私は曲げられないでいた。柔らかい会話の道のりは、まだまだ遠い。私だって、いつまでもつっけんどんではいたくなかった。相手は何倍もの人生を歩んできた先輩だ。試してみるのも、悪くないかもしれない。
「も……」
カグヤが眉を寄せる。
「も?」
踏ん切りをつけるのに時間が必要だ。言葉とは、あまりにも己を体現し過ぎている。私はルリに顔を背けて告げた。
「もう……大人だし……」
青い無様な反抗。エルフに言っても仕方がない。彼女にとって、私たちはまだ生まれたばかりなのだから。反応を伺いちらりと私は彼女の方を見る。私という表現者の発露を、無視されてはかなわない。
―――カグヤは、目を輝かせて飛びついてきた。
「……か、かわいすぎるー!!」
勢い余ってベッドから下に落ちた私は、床に頭をぶつける。
いたい。
そして抱きついてきたカグヤに体を絡め取られた。
「や、やめ―――」
妙なところに体が触れられ、くすぐったい。腰にしがみつく彼女の腕を必死に掴む。だが彼女は頭を押し付けながら叫んだ。
「ルリ、あなたがヒロインよ! メインヒロインになりなさい!!」
鼻息荒く叫んだ彼女の言っている意味が分からず、か弱い抵抗を続けて仰向けのまま頭上を見上げた。誰かの視線だ。半開きの扉の隙間、カノンと少年がこちらを見ている。胸部に擦り寄るカグヤの締め付けを抑えながら叫ぶ。
「助け―――」
閉まる扉、私の声は遮られた。
何故。
「ごめんなさい……お邪魔しました!」
扉越しにカノンが謝る。何の邪魔だというんだ!
頭をガシガシと撫でられ視界を揺さぶられる。飼い主に溺愛される家畜とはこのような気分なのか。薄い布地から伝わるカグヤの強い締め付けが、とてもじゃないが愛情深いとは思えなかった。
「ちょ、ちょっと……っあ」
誰かこの子をどうにかしてくれ!
声にならない悲鳴を私は上げ続けた。