第45節 双子の片割れ
体中から熱が失われていく。じきに記憶も曖昧になって溶けだすだろう。
愛憎入り交じる"彼"という存在を知覚した私。
今なら分かる。姉がどうして私を置いていったのか。
簡単な想いで、姉は私から離れたのではない。そうすることでしか、遺すことができなかったのだ。
彼は私たちと同じ、運命に選ばれた血統。平凡な人生を歩むことなんてできやしない。
だからこそ傍にいてあげたかった。人並みの愛情を与えてあげたかった。
愛すべき私たちの銀色の子ども。祖龍が与えた試練と、悲しすぎる運命の因果律。
真っ白に染まりゆく眼前。遥か彼方上空に、翼を広げた姉が私を見下ろしていた。
姉さんも、同じだったんだね……。
醜く歪んだ黒い泥が彼の体に付きまとっていた。
ウェイロンが仕組んだおぞましい烙印。
彼はその力を使って、世界を手にするつもりなのだろう。
谷底から途方もないほどの上空で、黒い染みが瞬いた。
祖龍の瞳本体に手が加わえられたのが分かる。教皇はすでに、祖龍神への信仰を失っていたのだ。
彼が目指したのは自身の神格化。人間が神になれるのか、それを私で証明してみせた。
世界を手に入れるなんて野望どうだっていい。
人の上に立ちたければ勝手にすればいい。
私にはなんの興味もない。
……けど、私の愛する人を傷つけることだけは許さない。
祖龍の瞳で露わになった烙印の中身。私にはこの烙印を抹消させるほどの力はなかった。
私が自害していれば、この子は教皇を殺さない限り、このまま亡者と成り果てていただろう。
でもあの子が私を殺してくれたから、私はあの子を"呪う"ことができる。
……まさか呪いの力を使うことになるなんてね。
彼の驚くべき光の魔法、小さな妖精は、祖龍の瞳の力さえねじ曲げていた。
あれは外部から身を守るための魔法であり、既に入った毒を吐き出させることはできなかったようだ。
なればこそ、呪いはそれを打ち消すことができる。
死に際に叶った、私の唯一の望み。それが"呪い"。
……本当は、私は彼が憎くて堪らなかった。私から姉と、何もかもを奪っていった少年。どうしてそれを受け入れることができるの。
彼さえいなければ、まだ姉は私の傍に居たかもしれない。それにもう一度、私に会いに来てくれたかもしれない。
心の深淵に潜む藍色が猛り燻った。
錆び付いて開かなくなった扉が蝶番を軋ませる。
……だけどあの子はここまで来た、来てしまった。幼い精神をひた隠し、大いなる力に負けないために。
この子が私から姉さんをつれていったんじゃない。姉さんが私から、宿命をつれていったんだ。
私にその役目が回らないよう。
彼はただ、私たちの原罪に巻き込まれただけ。
……私がこの子を助けなきゃ。
私は感覚を研ぎ澄まして祖龍の瞳を全開にする。
失った瞳で見ていたよりも、透き通る世界が広がった。
聖域に溜まっていた魔力と思念体。一介の魔法使いが動かせるものではない。
二つが合わさることで、祈りの都は魔力災害の種火となる。
私は聖域を体内に取り込み己の肉体を経由させることで、命の終わりとともに魔力災害を無力化させることにした。
だけどどうしても呼び寄せた魔力のすべては持っていけない。
残りの魔力は"エルフの彼女"に任せて、私はできるだけのことをしよう。
―――あとはウェイロン、あの男だけだ。
眩い光の中、翼で空を舞う姉が上空の黒点を指さす。
分かってるよ。姉さん、私にできる最後の悪足掻き。
笑顔の苦手だった姉そっくりな子。あの子になら、なんだってしてあげられるから。
右目が熱を帯び始め、暗い谷底を照らし出した。
光がより強く、濃い輝きを放ち黒点に向かっていく。
祖龍の瞳本体が私の力を引き出したのであれば、私から逆のことだってできるはずだ。
光は崖の下をくぐり抜け、天井を透過していく。遮るものは何もなく、私は直進し続けた。
豪華な室内で召使いとともにいたウェイロンは、突然の発作に襲われる。
「陛下! 陛下!」
召使いの呼びかけもそのままに、ウェイロンは右目を手で覆う。
痛みに堪えられず、指で抉り出した。
先ほどまで全能の力を与えていた瞳は色を失い、欠けたただの石ころになっている。
砂粒混じりの血みどろの石瞳。召使いの悲鳴。
流血の中凄んだ彼は、怒りを込めて叫ぶ。
「アトレアァッ!!」
長年伝えられてきた祖龍の瞳は、アトレアの祈りによって両目ともその力を永遠に失った。
ゆっくりと目を閉じた。
傍にいるあの子の声も温もりも遠く離れていく。
……長いようで短い月日だった。
家族を失い、姉を失い、瞳を失った私。
それでも最後に辿り着いた、本当の終点。
幸せとは言い難いけれど、この子の顔を見られただけで満足だった。
白い世界で私の意識は散り散りとなっていく。
思い残すことは、何もない。
私たちは二つに分かれた流星。
遠廻りだったけど、やっと一つになるの。
祈りの都サンクチュールは輝き、アトレアの放つ光を浴びながらその役目を終える。
■■◇■■
足を引きずりながら見るも無惨な祈りの都を行く。
崩れた足場の下には降ってきた岩石が転がっている。
ルリは神殿の方に向かいながら、倒れた亡者たちに哀れみの視線を向けた。
これを仕向けたのは彼らではない。
しかし、ただ純粋であったわけでもないのだろう。
彼らが失ったものは何一つ分からなかったが、所詮、自らが選んだのは祈ることのみだったのだ。
御言葉の到来を待ち続けていたルリには、その想いが遠回しに心を締め付けていた。
篝火の乏しくなった暗い流罪地区は、聖域のない今、ぼんやりと淡い光を灯している。
かつての大通りを抜けて階段を上り、広い踊り場で三人と合流した。
ルリは告げる。
「聖騎士たちが目を覚ます前に谷を抜けよう」
軽量だが丈夫だったはずの装備。取れかけた黒い甲冑の一部を外しながらカグヤは応えた。
「ええ。もう祖龍教国には戻れないわね。私たち、派手にやっちゃったから」
教王国の大司教と聖騎士を敵に回し、さらには教皇の計画をご破算にしたのだ。
ルリは溜め息をつきたくなる気持ちを押し込む。
追っ手の数は増えていく一方だった。
明かりの方向、もう一人のエルフに目を向ける。
ルリは瞬きしながら告げた。
「カノンの持つ笛は、竜のものか?」
同じく目線を飛ばすカグヤはそれに首肯する。
「そうよ。禁呪の力を持つ不思議な魔導具。あの子は戦うことだけは絶対にしない。……させない」
最後の言葉に妙な力を込めたエルフの戦士。
カグヤは何があってもカノンを守り抜くのだろう。ルリにはそれが固い決意の表れのように聞こえた。
光が強くなり、風が吹く。
全てが収束していく魔力の中心で、カノンは佇んでいた。
大きく割れた岩壁の奥。深い眠りについた竜の死骸。
そこへカノンは静かに呼びかける。
魔力災害の兆候はひっそりとだが、確実に姿を見せていた。
このまま魔力溜まりを放っておくことはできない。
谷の底からアトレアとともに聖域は消え去ったが、地盤の傷跡が丸ごとなくなったわけではなかった。
ズールィの召喚魔法で使用された竜の遺体に、カノンはもう一度触れ直す。
「母なる竜よ、その導きよ。御身に宿りし寵遇で大地を癒したまえ」
今度は力を与えるためでなく、奪うために力を借りる。
カノンの魔力が滞留する不穏と繋がっていった。
ルリはその光景を目の当たりにしながら呟く。
「魔力が、消えていく……」
暗く沈んだ祈りの都、その沼の底から浮遊する光が無数に飛び立つ。
竜に備わっていたもう一つの力とは、傲慢な人間の欲を制御するためのものだったのかもしれない。
溜め込まれた魔力の一端に別の気配が混じる。
それは、祈りの思念だけではなかった。
……そうか。ここは教王国から投棄された場所だ。
国全体の悪意がそこかしこから流れ着いたのかもしれない。
ルリは溢れ出す光に囲まれながらそんな風に思った。
息を大きく吸って吐き出すと、頭上を仰ぎ見る。
カノンの力によって修復された谷底は、立ち昇る光を見送りながらゆっくりと暗闇を増していく。
向き直り、紺色のローブを羽織った少年を見つめる。
彼の持つ中で最も上等で思い出深い外套だ。
しゃがみ込むルリはできるだけ優しく手を伸ばす。
重傷なのは、自分だけではない。
祖龍の瞳とともにアトレアを葬った彼は、俯いたまま声を発しなかった。
現実から切り離されたような歪みの中で、カノンの煌びやかな魔法に彼は見向きもしない。
ルリは彼の様子を見て大雑把な筋書きを頭内で推測した。
やはりアトレアは完全な悪ではなかったのだろう。
言いしれない教王国に巣食うほつれの渦中で、彼女はこの地に残らなければならなかった。
かの瞳を宿してなお、それには抗えず、また、死を以て汚名を成し遂げたのだ。
焦点の合わない少年の瞳。
ルリは差し伸べた手が強ばっていることに気が付く。
自分でも分かっていたはずだ。
この子がどうしてここまで追い込まれているのかを。
彼の身に纏う光魔法の残滓。それは彼自身のものだけではない。
聖騎士たちが使う魔法の一部には、光魔法に属する系統が多く見られた。教王国は古くから光魔法の普及に務めた学者が多い。宗教的或いは技術的な理由からその度合いが強かったのだろう。
だからこそ彼は貧窟教区での御言葉の証明に、自分の光魔法を選んだのだ。
司教や聖騎士たちの扱う仮初の光魔法とは違う。彼の本質に近い奥ゆかしくも華やかな魔法。
民衆たちもそれを本能で理解していたはずだ。そして、近しく漂う高貴なる魔力気配も同様に。
その足跡は、別の光魔法の使い手を意味していた。
……彼は出会ってしまったのだろう。
数少ない光の魔術師。それはもしかしたら、孤独な彼を救えるかもしれなかった唯一の存在……。
ルリの心を見透かしたように、俯いた少年は絞り出した声で告げる。
「……アトレアは、僕の叔母でした」
それは逃げかもしれないとルリは思った。
だから目を合わせることを、拒もうとしなかった。
彼女は仲間想いであり、良き理解者であり、思慮深く、無愛想だが律儀でもあった。
だがその時ほど彼女が後悔したことはなかっただろう。
彼女を襲った感情はたったひとつ。
―――恐怖だ。
ルリは彼と目が合った。彼の途方もない、藍色の絶望を見たのだ。
漆黒とした双眸がルリを闇へと引きずり込む。
……お前にこの痛みが分かるものか。
呼吸を忘れルリが全身に冷や汗をかく。感覚が鈍化し擦り切れていく自分をただ想像した。
心臓にナイフを突き立てられ指の一本さえ動かせない。血の巡りですら、彼を逆なでしてしまうと錯覚する。
意識ごと吸い込まれていく瞳の奥に、ルリは魂まで引き抜かれそうになっていた。
「光の魔道士」
カグヤが彼の前まで歩み寄り呼びかけた。
藤色の髪の毛が暗闇になびき、続ける。
「進み続けるしか、道はないのよ」
高く舞い上がった光の粒が遠く、沼地の水面が小さくそれを反射した。
少年が呻くように告げる。
「分かってます……」
傷付いた彼の表情をルリはそれ以上見ていられなかった。
過去の自分と重ね合わせ、抉れた傷跡に指を這わせる。
前を向いて歩き続けなければならない苦難に、身を投じ溺れていくことしかできない。
彼はただ、平穏に生きたかった夢や、幸せな未来を胸に秘めていたかっただけではないだろうか。
かける言葉を探し続けていたカグヤは、目線を落としながら手持ち無沙汰な腕で自らの肩を抱く。
一瞬だけ瞳を彷徨わせた後、覚悟を決めたようにポツリと話し始めた。
「……魔道士、よく聞いて。私は、あなたに伝えておきたいことがあるの」
頑なに動かない彼の方に向けて、カグヤ膝をついて目線を合わせる。
「―――数年前、ジョルム地方のもっと北。魔王国ローザイとの国境で、とある噂が流れたわ」
人間の国が存在する最北の地、ジョルム。その過酷な環境をルリたちは想像することすらできない。
少年の返事を待たず彼女は続ける。
「魔王の復活を阻止するべく、北方の傭兵集団が立ち上がったらしいの。……大勇者一行の真似事ではないにしろ、そういったケースは珍しいから記憶に残っているわ」
遠くでカノンの魔法が終わりを告げる。
浄化しきった沼地は湖のような美しさを見せた。
カグヤは長い耳でそれを感じ取りながら、なるべく分かりやすく話す。
「その傭兵団には金で動く彼らを束ねあげている頭目……まあ要するに、凄腕のリーダーがいるわけなんだけど……」
視線を少年から逸らすカグヤは、どこかぎこちない顔で告げる。
「あくまで噂だから、真実かどうかは分からない。私だってそんなことあるんだ、程度にしか、風にのってきたその話を真面目にとりあってなかったから……だけど魔道士、あなたがその考えを改めさせたわ」
話すカグヤは真剣な面持ちで少年を見た。
彼の闇に、彼女は飲まれなかったようだ。
何者かに支配されたような少年の黒い瞳。
その内側を、カグヤは確かに見据えていた。
「そのリーダーが……あなたやアトレアと同じ―――」
淡い光の中では、灰のように見えるその髪が揺れる。彼の瞳が、続きを告げるカグヤを捉えた。
「―――光の魔法使いだそうよ……」
ルリは藍の焼け焦げた闇の中で聞いた。
彼の中の軋んだ扉が、再び音を立て始めるのを。