第44節 星蝕
砕いたはずのその小さな命。
しかし凡そ初めて、アトレアは祖龍の瞳を疑った。
自身から放つ光がいつのまにか押し返されている。照り返しではない彼が放つ輝きに。
光で満たされたアトレアの視界から、声変わりのしない彼の言葉が聞こえてきた。
「僕はまだ、諦めてはいない……」
光の核に比べればそれは小さく見える。
円環と翼を付けた、古い妖精のような姿。
「この呪われた宿命から貴方を救う……」
右目に彼の姿が映らない。祖龍の瞳で認識できないものなど、あるはずがなかった。
気付けば彼の気配が近くにある。
柱を全て叩き折られ、アトレアは倒れ込む。
そして思い知ったのだ。何者をも見通す力と、その対となる存在。
光の届かない場所は二つ。
真なる暗闇か、無比なる光源のどちらか。
力を失ったアトレアの銀の髪が揺れる。少年の手のひらが頭を優しく包んだ。
「……こんな瞳があるから! この瞳の所為で貴方は……!」
少年の声、私を想う訴え、引き裂くような痛み。それらが押し殺した胸の中へ暖かな光を差し込んだ。
今まで右目に備わっていた光とは違う、春風のような陽だまりにアトレアは落とされていく。
ひび割れた仮面を捨て去り、彼は私の素顔を見つめた。
息を飲んだ表情が、失われた目に浮かぶ。
「アトレアさん、これ……」
少年は言いながら私の歩んできた道を想像する。
声が震えて、彼は言葉を失った。
アトレアは空洞の眼を開いて告げる。
「私は政争に破れ、罰として両目を失ったの」
神の瞳を騙ったその代償は大きかった。何もないはずの右目は、煌々と光り続けている。
「祖龍の瞳が選んだのは右目じゃない。私自身だった。私から……この瞳を取り除くことはできないの」
彼の震える両手を取り、アトレアは告げた。
小さな声で彼は言う。
「そんな……それじゃあ……アトレアさんは……」
「……私を殺しなさい、御言葉……それが君の使命じゃ……なかったの……」
光を放つ瞳は血の涙を流し続けていた。
覚悟を決めたアトレアの表情に、少年は唇を歪める。
「私が生きている限り、サンクチュールには思念が溜まり続ける……」
手を伸ばしたアトレアは柱の一つを天盤に突き刺した。
もうこれで、最後だ。
御言葉の少年は息を飲む。
「アトレアさん、どうして―――!」
ありったけの魔力を注ぎ込んで、共鳴する光の柱を暴走させた。
地盤を砕き、簡易的な地震を引き起こす。歪んだ地殻を叩き起こしすべてを崩落させる。
そうすれば教王国を。
私の望んだ未来を―――。
「さあ……最後の決断をして……!!」
散りゆく鮮血が光の奥に吸い込まれていった。
……これでいいんだよね、姉さん。
アトレアの作り出した高く伸びる光の柱が、天井から色褪せ形を変えていく。
僕は彼女の優しく冷たい手を払い、再び刀の柄を固く握りしめた。
光魔刀がアトレアの体を刺し貫く。
どうして、どうしてこんな時だけこの武器は。
目を閉じた僕は告げる。
「ごめん……なさい。僕には……助けられなかった……」
頭上の光が点滅し、漂う残滓が流されていく。
地鳴りはいつしか収まり、崩落も起こっていない。
彼女の心臓からは血がほとんど出ていなかった。身体中に血液なんて流れてないみたいだ。
祖龍の瞳を宿した彼女は、痛みに呻くこともせず、ゆっくりと顔を向けて小さく呟いた。
「あなた、――――よね……?」
僕はすぐに目をあけて彼女を見つめる。
聞き間違いだったか、いやそんなはずはない。
彼女は僕の名前を呼んだ。僕はいつ彼女に自分の名を名乗った……?
呆気にとられた僕の顔を見て肯定と捉えたのか、彼女は優しく笑って告げる。
「ああ、やっぱり……そうだったのね……」
表情を和らげ、穏やかな顔をした彼女。これが本来のアトレアの姿なのか。
光魔刀の光が消えても、彼女の傷口からは出血がない。
冷たい彼女の手のひらが僕の頬に触れた。
谷底でも綺麗に輝いて見える銀の髪色。束ねたそれらが、艶めく。
その時僕は、音を立てて歯車が狂っていくのを感じた。彼女の手から押し寄せる、ひんやりとした絶望。
僕は彼女の命を奪った。
体はもう限界を迎え、治癒することは絶対にできない。
―――本当に、それでよかったのだろうか。
頭が麻痺したようにピリピリする。初めて彼女と出会った時に感じた既視感。
跳ねる心臓が、痛む鎖骨が、乾いた喉の奥が、再び訪れた藍色に飲み込まれていく。
僕は、それだけはしてはいけない気がした。だけど、抑えられなかった。
彼女の素顔を、彼女の銀髪を、僕は知っている。
知っていなければ、ならなかったから。
「アトレアさん……貴方は……どうして僕の名を―――」
僕の問いかけは懺悔のように聞こえたかもしれない。
アトレアは触れた手にぎゅっと力を込める。
できすぎた自分の都合ばかりが降って沸いていく。
そうだ、そんなわけない、馬鹿みたいじゃないか。
心の中で自分をせせら笑うことで誤魔化した。
大丈夫、大丈夫。自分にそう言い聞かせて。
―――だけど彼女は微笑みながら告げた。
「……分かるわ……そんなの……だって、姉さんの子……だもん……」
瞳に映ったアトレアが遠くなっていく。
何故か僕の瞳には何も映らなくなってしまう。
見えない、血の繋がり。真っ暗だ。
ひゅっと背筋に過ぎった悪寒。信じたくなかった残酷な真実。
姉さんの子。
僕はどこかで遠い人間だと思いたかったのかもしれない。
僕には関係のない、異国の地で偶然出会った人だと。
同じ光の魔法を扱う、珍しい人。
旅先で知り合う人間には多種多様いる。親密になる人、ただ会話をしただけの人。依頼人、商人、防人、衛兵、役人、町人、村民。数え上げればきりがない。
それは僕には何の関係もない人たちだったから。深く結びつくことがない人間関係。
僕は孤児だし、それ以上のことは考えられなかった。あの教会で育ったみんなとは、縁あって同じ屋根の下で暮らしていただけ。
旅に出れば分かる。他人なんてものは、その出会いが早いか遅いかだけの違い。
両親に会いたいかと言われれば、そんなの答えは決まっている。
僕は親から捨てられた天涯孤独の身で、誰にも支えられず誰も支えず生きていく。孤独というものが生まれた時から付きまとっていたから、それが特別なものだとは思わなかった。
親や血を分け合った兄弟がいるというのが想像できず、数多の本を読んだがやっぱり理解できなかった。
そしてそんな人たちを見て感じる心のざわつきを、人々は羨望だというそうだ。
……僕は羨ましかったのだろうか。
暖かい抱擁や、無条件の愛が。
アトレアは、僕の母親の双子の妹。
僕の頬に熱い涙が伝った。
なんで、どこかの町で出会わなかったのだろう。
なんで、ただ会話しただけの人にならなかったのだろう。
数え上げればきりがないその内の一人になってくれさえいてくれれば。
出会うことなんてなければ。
僕は彼女を殺さずに済んだのに。
彼女はそれでも楽しげに話す。
「サラ姉さん……あなたの……母親の名前よ。ふふ……私たちに……顔がそっくりなのね……」
冷たい手のひらで僕の涙を拭った。
アトレアは僕が殺したんだ。
だめだ、思ってはいけない。僕はそれを考えちゃだめなんだ。やめろ、やめてくれ。
……でも、気付いてしまった。僕にも僕の存在を認めてくれる人がいたことを。
「ここまで、よく生きてくれたね……。ああ、もっと早く会いたかったわ」
なんでもいいから、僕は彼女に、僕という存在を見ていてほしかった。
今までどう生きてきたか、どう感じたか、これからどう歩いていくのかを。
何百、何千、何万人だっているこの世界で、どうしてこんな出会い方しかできなかったんだろう。
「ごめんなさい……僕……僕……」
しゃがれた声で僕は謝った。
遅かった、何もかもが。取り返しのつかない出来事ばかり。
アトレアの美しい銀の髪が目の端で静かに光る。
彼女は小さくなっていく魔力の波を紡ぎ、声を出す。
「いいの……謝らなくて。ずっと、ずっと会いたかったの……」
言い訳ばかりが先行して本当の声を隠していた。
でももう隠し事はできない。
溢れ出る涙がそれを伝えた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……アトレア……僕をこれ以上、独りにしないで……」
拳を握りしめて彼女に縋る。
僕は認めてしまった。
今まで張っていた虚勢が剥がれ落ちていく。
言ってしまった。言ってはいけなかったのに。
必死に大人ぶっていた薄っぺらな自分自身。
寂しくなんかないって。そんな感情知らないって。そう嘯いて生きていたかった。
でも僕はずっと、ずっと寂しかったんだ。
帰る場所や、そこで待ってくれる人。僕という存在を認めてくれる、家族という言葉の意味を教えてくれる人。
彼女は光のない瞳を閉じたまま、ゆっくりと僕の頭をさすった。
「ごめん……なさい。私も独りにはさせたくなかった……家族と離れることが……どんなに辛いか……」
滲んだ視界で、彼女の光が消えていくのが見えた。
……これが、ぼくがうばったいのちだ。
「うぅ……あぁぁぁ……」
情けない泣き声も歪んだ顔も、アトレアはしっかりと抱きしめてくれた。
僕はやっと出会えた血縁に、自分の手で決別を下したのだ。
その時、手の甲に痛みが走った。僕は呻き目を向けた。
烙印が反応している。
内側から皮がめくれ上がり、僕の皮膚が赤黒く染まっていく。
「あ……あぁぁ……」
アトレアを唯一の家族だと頼ってしまったから。彼女を、心の支えだと思ってしまったから。
皇帝の烙印が僕の体に作用し始めた。変色した部分が亡者の体となっていく。
そんな、僕はただ彼女と少しでもいいから話をしたかっただけなのに。
その想いが、情が深ければ深いほど、烙印の侵食は進んでいく。無情な力。
体の震えが強くなる。激しい嫌悪と喪失。
僕には、血の繋がりを想い嘆くこともできない。
祖龍教国の皇帝ウェイロン。彼を憎めば憎むほど、烙印の効果はさらに強まる。
流罪地区に落とされアトレアに惹かれた者は、すべてウェイロンの思うがままだ。
既に感覚の失われた腕は肩まで変色を終えていた。
もう、手遅れだった。僕はこのまま亡者となる。
この世にもういないかもしれない血の繋がり。
それをこの手で殺めた罪として。
僕の意識が途切れかかったその時、彼女が触れた。
もう力なんて残っていない真っ白なアトレアの手。
「心配……しないで……私が……つれていくから……!」
絶望にくすんだ僕の瞳とは対照的に、囁くアトレアの右目が再び輝き始めた。