第43節 深まる藍
冷えた氷の山が魔物たちを結晶化させる。
けたたましい鳴き声を上げた彼らの仲間は飛び去った。
こちらを振り返ったルリが微笑し告げる。
「歩きながら話そう、長居はできない」
残留する彼女の魔法を辿って、いつヘルメルの部隊が追ってくるか分からなかった。
足早に僕らは次の場所へ移動しなければならない。
結晶杖を消した彼女は横並びの僕へ語りかけた。
「魔道士君、君は確か孤児院出身だったな」
彼女の問いかけに僕は頷く。
両親に捨てられた僕は教会で育った。ルリは続ける。
「君はそこでどんな子どもだった?」
どんな子ども……。
意図が読めず彼女を見つめ返す。
彼女の鼻梁を眺めながら、頭の中で記憶を遡る。
「……普通の子どもでしたよ、少し魔法が扱えるだけで。それで難儀したこともありましたが……」
僕はついこの間のことを懐かしむように言った。
なんだか遠い過去の話みたいだ。
魔法使いはそこまで珍しい存在ではなかったが、彼らが危惧したのはその殺傷力にある。
それが光魔法であるということに、今でも彼らは信じていないのだろう。
「孤児院の中で親しい人間はいたのか?」
岩山の起伏に足をかけたルリは、僕に手を差し伸べると告げた。
彼女のすらっとした体躯は旅に備えていたのか、それほどか弱いと思ったことはない。
都市に住んでいるにもかかわらずどこでも寝られ、選り好みをしないさっぱりとした性格だった。
「僕がこの力に気が付いたのはうんと小さな時です。その時から、僕の使命は決まっていました」
ルリに握られた手が強く引かれ、僕は小さな崖を短い手足でよじ登る。
彼女は僕の言葉に耳を傾け、じっと両目で僕のことを見ていた。
そして僕は続けて言う。
「みんなだって風変わりな僕と付き合いたいなんて、思わなかったと思いますよ。それぐらい僕は異端でした」
ルリは言葉を刺す。
「つまり親しい人間はいなかったと」
僕は彼女の方を見ずに頷いた。
別にそんな、大したことではないのに。
「……そうか、それは寂しいな」
彼女らしからぬ物言いに僕は横を向いた。
星が満天に広がる夜空を思い浮かべる。あの広大な世界の中に、僕は一人だけだった。
教会でも町でも、支える人も支えるべき人もいない。生きる術を教えてくれたのはすべて育ての親一人だけ。
僕にはそれ以外何もなかったんだ。
寂しいとか、悲しいとか、虚しいとか、苦しいとか。そんな感情あるはずがなかった。
人は何でも失ってからその素晴らしさを知るという。僕はまだ、得てすらいないわけで。
「いえ……そんな風に考えたことはないです。みなさん良くしてくれましたし……」
風で彼女の水色の髪が揺れる。
僕は彼女に見つめられるのが少し苦手だった。心の底まで見透かされるような慧眼が、浅い僕の人生を品定めするかのようだったから。
「……ルリは、どう過ごしてきたんですか?」
返す刀で彼女に質問をした僕。
いたたまれなくなった心の瀬戸際。
無表情のまま目線を戻した彼女は、長い睫毛のついた瞼を二度閉じた。
彼女が味わったであろう境遇は、僕にはとても想像ができないものだった。
背の高い山々の頂上に日光が遮られる。暗くなった僕らの影を包み込んでいく。
「私には幼い頃、祖父とユーリィがいた。それなりに、不自由ない生活だったと思う」
瞬きの後、彼女は告げる。
彼女もまた、両親の顔を見たことがない。
「生まれは商家だったから、小さい時から色んなことを学ばされたよ」
僕は黙ってルリの言葉を聞いた。
「一人で生きていくための方法を。あの歳で理解できるとは到底思えないような内容だな」
彼女はクスリと笑う。
見下ろす景色の先に新たな森林地帯が広がっていた。
「今思えば、祖父は自分の死期を悟っていたのかもしれない。私が一人で生きていけるように、急いでいたのかも……」
所々に朱色と黄色を落とした森林は、遥か遠くまで続いている。
"欺きの森"だと、ルリは呼んだ。そこを通るのはヘルメルでさえ躊躇するだろう、と。
「魔道士君」
突然呼びかけられ僕は体を緊張させる。
彼女の声は氷のようだった。
「私は大事な人を失ったからこそ分かった。……分かることができたんだ」
山向こうに沈んでいく日の光はもう姿を見せない。
冷えた空気が僕らの間を通り抜けた。
ルリの瞳が僕を捉える。その色が、別の人物と重なった。
「君にももう、分かるはずだ。得るものの増えた、君になら」
僕はぎゅっと拳を握りしめた。
分かりたくもない、そんな感情。
歩き始めたからにはもう止まることなんてできやしない。
僕がなんと思おうとこの世界の悲惨さに影響はない。
鋼の意思や熱い想いが人を動かしているのなら、彼女が語る寂しさとはなんなのか。
緋色の光がわずかに突き抜けていった。その稜線は輪郭を光に溶かし込む。
岩肌にかすかな低木が目立ち始める。終わりなき逃亡に変調をきたす森の入口。
人の弱さ、移ろいの気持ちが足を引っ張るなら、僕は誰にも深く関わろうとは思わない。
それがこれまで僕が培ってきた全部であり、積み上げてきた僕自身でもあった。
ルリ、君のような強い人間には分からない。そうあろうとするために押し殺さなくてはいけないもの。
僕は十分苦しんできたんだ。だから、分かりたくもなかった。
横目で僕を見たルリは一瞬息を吐く。
それは軽々しさを装った深い落胆なのかもしれない。
僕は一人でも自分を制御できる。
ルリと違って一人でも魔王に立ち向かえるんだ。
彼女から見た一方的な立場で、それを弱さだと決めつけられたくなかった。
ルリは前を向いたままで告げる。
「私は一度壊れてしまったよ。……ユーリィを目の前で失ってしまったばかりに」
底知れない感情の波にさらわれていく彼女を、僕は呆然と眺めることしかできなかった。
やけに冷たくなっていく空気が、僕らの体温をゆっくりと蝕んでいく。
震える瞳を抑えることができなくて、堪らなくなった僕は尋ねた。
「……ねぇ、ルリは……寂しいの……?」
彼女は飄々とした態度の中に、どこか純粋で稚い部分を隠し持っていた。
明晰な頭脳だけが彼女の代名詞ではない。
もっと根本的なところが彼女の真性なのだ。
上辺だけではルリの本当の気持ちは分からない。
尋ねられた彼女は、眉一つ動かさずに答えた。
「―――君とおんなじだよ」
胸の底にザラザラと土砂が流れているみたいに、心が落ち着かなくなった。
彼女の中に潜んでいた純粋さが、僕の中にもあるというのだろうか。
藍色の闇。
僕はいつしか、感じたことのない恐怖が見えるようになっていた。