第42節 犠牲の秤
奥の院から発せられる強い魔力が、谷底全体を照らすように何度も発光する。
カノンは目を瞑ったままのカグヤの傍で、その行く末をじっと見守っていた。
治癒が終わり、魔力が底をついて気を失った状態のシュエはカイの背中におぶられる。
「―――その子、魔神の力を得たのが本当だとしても、体がそれに耐えられるとは思えないの」
目線をカイとメイユイに向き直したカノンは、立ち去ろうとする彼らに告げた。
「暫くは安静にさせて。あんまりその子の力に頼らず、できれば、力の制御を学ばせた方がいいよ」
カイは軽く会釈した後、静かに尋ねる。
「……こいつが最初にあんたらを襲ったってのに、なんでこんな事までしてくれるんだ?」
カノンは鋭い目のままのメイユイを、優しく見つめ返す。
すると気まずそうに彼女は目線を逸らした。
「元々は、私たちが始めたことだからね。その子にはなんの罪もないよ……」
私たちが魔神をどうこうしなくても、いずれあの村は魔神の復活により滅んでいたことだろう。
だが結果的に私たちの野望に巻き込まれたために、あの村は退廃を余儀なくされてしまった。
彼女のような人間に恨まれてしまっても、それは仕方のないことだった。
カノンは続けて言う。
「もうじきこの場所は生き埋めになる。早く、脱出して」
カイとメイユイはしっかりと頷き、その後姿をカノンたちに見送らせた。
気配が消えた後、目をあけたカノンは呟く。
「ねぇ、あの子、何か悪いものでも憑いてた?」
カノンは溜め息をつきながら姉に告げる。
「心配なら直接確かめればよかったのに……」
「私にははっきりとしたことは分かんないわよ! ただの直感で、とどめは刺さなかったけど……」
姉は偶に己の直感を信じていない時があった。
余程重要な時でもないと私の推測をあてにしたりはしない。
「はぁ……いつもそのくらい慎重に動いてくれれば……」
「それじゃあ遅いのよ! 全く、剣を握るってのはね―――」
「あーもう分かってるよ! お姉ちゃん、もうその話、五万回は聞いたよ」
「ぜったいそんなに言ってないわよ! ……それはそうと、あの子はどうだったの」
姉は横たわったままとは思えないほど騒ぎ立てる。
魔力がない代わりに活力にでも浸されているのだろうか。
カノンは彼らの去った方向を遠い眼差しで見つめる。魔神の気配は遥か遠くに行ってしまった。
「……うん、邪悪なものは感じなかった。操られてるんじゃない、純粋なあの子の力だよ」
カグヤは眉をぴくりとも動かさずに、戦いの手ごたえを思い出すかのように応える。
「……そう。なら、目覚めたのね。死の淵を歩いたからこそ、人は強くなれる」
「……それは持論?」
「もちろん、経験談よ」
「あの子、また私たちに接触してくるかも……」
「してくるでしょーね。相当恨まれてるんだもの、私」
満足そうに語る姉を尻目に、カノンは思った。
魔神の力を得た少女、彼女はもう普通には生きられない。
彼女は知ってしまった。世界が抱える深遠なる闇の一端に。
その証拠に、私たちの旅路に干渉してきた。
これは奴も予想していなかったに違いない。
カノンは虹彩の色を密かに強める。
―――計算外だ、判断を仰いだ方がいいだろう。
影で暗くなったカノンの表情。
彼女の背後、神殿で一際大きな光が瞬いた。
■■◇■■
右目の傷口が開きそこから出血が止まらない。
同時に治療を施すが、焼け石に水だろう。
魔力の総量と出力量は比例しない。これは、魔法使いの常識だ。
どんな大量の魔力を与えられたとしても、その人間の扱える範囲というのは決まっている。
光の柱から溢れ出した魔力が、繋がった私の内部へひたすらに流れ込む。
昨日今日で自身の容量が増えるはずもなく、日進月歩の速度で人間は己の魔力量を増やすのだ。
その理を断ち切るか如く、私の中に数百人を超える魔力が注がれていく。
よもやただの一介の人間である私の体が、それに耐えうるだけの器を擁しているわけもなかった。
重ねて、私の右目は祖龍の瞳を発現させ、限界間近の力を無理やり引き出そうとしていた。
魔力の出力は人並みを超えてしまったが、それは無償の対価ではないのだ。
二つの際限ない力の均衡の狭間で、私はとうに人間としての生を終え朽ち果てようとしていた。
それさえも祖龍の瞳は許さない。
痛覚を遮断し哀れな自我だけが取り残される。
「儂……私……俺たち……は、復讐する……この救いのない世界を……」
脳内に広がる錆びついた金属のような質感。
ザラザラの体液が身体をまさぐるような不快感。
吸収された魔力には無数の人々の思念が宿っていた。
一挙に押し寄せる感情の波に、私の心は封殺されていく。
誰かも分からない、知らない別人の感覚が、自分の中に入り込んで我が物顔をする。
制御できない情緒と、それを加速させる瞳。抗えない無秩序な空間で強姦されているみたいだ。
しかし、この苦痛を伴ってでも、私には果たすべき夢があった。見るべき空があった。
ひび割れて光の漏れた瞳を少年に向ける。
彼の脈拍、骨折箇所、魔力の動き、すべてが見えた。
この目に分からないことなんてない。
全ての情報が、私の脳に直接語りかけてくれる。
全知全能。
神と同格の力を持つ祖龍の瞳。
私は初めて、自分自身の何かを変えるために力を行使した。
失った星の核は三つ、軌道上にあるのは五つ。これ以上核を追加することは不可能だ。
壊された分の魔力を体の負荷軽減に置き換えている。
これがなくなれば、私は自壊し瞳だけが残るだろう。
残りの五つで彼の殲滅を行使する。それが私に残されたたった一つの勝利条件。
再び立ち上がる少年の顔が光に照らされる。
彼にもそれは分かっているはずだ。私の体がとうに後戻りできない状態だということを。
私は手を伸ばし魔力を操作する。五つの核が素早く飛んで彼を囲み始めた。
籠の中の鳥は、どれだけ早く動けても大空でないなら脅威ではない。
輝く刃筋が核とぶつかり合った。
狭まる囲いの中、私は少年の動きをすべて目で追う。
不釣合いなほど刀身を伸ばしたそれは、先ほどの二倍以上の長さに刃を変化させていた。
間合いを取りつつ光の核を捌き、腕の振りを最小にしながら攻撃を打ち払っていく。
刀の太刀筋を見るに、誰かに手ほどきを受けたのだろう。型はないが素早く、そして的確に標的へと刃を差し向ける。
アトレアの光る目が視野を広げ、複数の行動パターンから少年の動きを予測していく。
解析が完了した右眼から信号が発せられ、彼の負傷と身体強化を差し引いた弱点が頭に流れ込んだ。
アトレアは軌道上の核を操作しゆっくりと、だが確実に少年を追い込んでいった。
片腕で刀を振るうには既に疲労が勝っている。その動作は若干の遅れを伴い彼の敗北を甘噛みさせていた。
受かるはずのない守護星の強打を彼は刀でしのぎを削るようにその場に留める。
動きが止まる。体さばきで躱していた体を、今度は両足をしっかり床に付けて踏んばっていた。
慣性があったからこそ避け続けられた攻撃を、少年は動きを止めてしまった。
アトレアの思考が一時停止を食らう。
祖龍の瞳から入る情報と自意識の思考が混ざり合った。
彼は未だ、立ち止まるほどの限界な状態ではない。
嬉々として追撃するという安直な考えを、祖龍の瞳が真っ向から否定していた。
―――やられた。
アトレアは緊張で顔を強張らせる。
迂闊だったのは少年との距離だ。
守護星は距離が空けば空くほど回帰に時間を要する。
彼は刀の矛先を私に向けるとそのまま刀身を放った。
光の法則を考えるのであれば、それは至極当たり前だ。
滑稽なほどに私はそのことが頭から抜け落ちていた。灯台の足元が暗いとはよくいったものだ。
光は突き進むもの。私のように留まったりはしない。だが、この光が私を貫くことはなかった。
彼の魔法が射抜いたのは私の体ではなく、魔力を吸い出していた柱の方だった。
柄から撃ち出された光の刺突は、長く上方へ続く柱の根幹を突き崩した。
魔力の源を失った私の力は寸断され、守護星たちは一斉に砕け散っていく。
私を中心とする軌道でしか移動できない核は、一度私の元を離れると再配置に時間がかかってしまう。
仕留めることに注力した私の欠いた守り手を、彼は狙い定めたかのように撃ち抜いてきた。
祖龍の瞳がわずかにぶれる。その焦点が合わなくなってきていた。
だがそんなこと、承知の上だ。
聖域からの供給が止まったからといって、私の歩みが止まるはずがない。
「貴方は……利用されているんですよ……」
少年の声が自身に向けられる。
彼の言葉尻を捉えると、私は許されたような気分になる。
私の中にある複数の自我が喋り始めた。
「そんなの、初めから分かっていたことだ。ウェイロンがつけた聖痕には薄々気が付いていたよ」
同じ声なのに全く別人のような口調に彼は戸惑った。
今喋っているのは誰なんだろうか。
魔力災害の引き金になったのは紛れもなく、祖竜信仰からアトレアに信仰を移した信者たちだった。
神への祈りは烙印との相乗効果で、文字通り命を捧げる祈りへと変化したのだ。
魔力災害の原因は大量の魔力の集積。それを引き起こしたのがこの集団自決に他ならない。
神殿に蔓延る聖域がその証拠であり、地鳴りはこの聖域の近辺にある地殻の歪を刺激した。
決して確かな証拠や論拠があるわけではなかったが、人々を信じさせるには十分に足りえる事実だった。
そしてウェイロンなら、この事実を利用しない手はない。
彼がこの烙印を生み出した理由はその先にある。
信仰対象の絶対化。彼は祖竜信仰を世界に広めるため、それを烙印という名の恐怖と掛け合わせた。
他の神を信仰したならば忽ち人々は亡者と化す。
そして運が悪ければその地に魔力災害を引き起こさせる。
神を奉るという名の恐怖による支配。祈りの都を巡る諸問題はその実験でしかなかったのだ。
「じゃあどうしてこの地を離れなかったんですか!」
無意識なのか、そんなに叫んだら体が痛むだろうに。
少年の問いかけに私は鼻を鳴らして答える。
「私はそもそもここを離れるつもりはなかったし、それにこの思惑に気付いた時には手遅れだった……」
血濡れの装束が重く感じた。傷付いているのは私も同じか。
焦点の合わなくなった祖龍の瞳に少年を映す。
「そっちも気が付いているんじゃないのか? 地鳴りが弱まっている、私が死にかけているからだ」
彼は唇を引き結ぶと怖い顔をした。
「君は御言葉として魔力災害から国を救う。そして私はウェイロンを誅殺するために地震を起こす」
聞きかじった程度の情報で、私はアルディア流の一礼を見せつける。
「世界は、君の手にかかっているというわけだ。そうだろう? 神に選ばれし者よ……」
アトレアが微笑むのと同時に光の核をもう一度生み出す。
数は全部で十六。もう隙など作らせない。
その内の三本を柱とする。
聖域の魔力を普くすべて、体の中に叩きこんだ。
負けられないの。
「あぁッ! ……ぐッ!」
強力な反動を体の中に抑え、苦痛を充満させる。
焼き切れそうな神経回路を祖龍の瞳で無理やり働かせた。
「死ネッ! 御言葉ぁっ!」
乱視のような錯雑とした彼の姿に向けて核を放つ。
ついに守護星たちが、その小さな影を食い散らかした。