第9節 クィーラと絶望
馬が嘶き鮮血で塗られていく。複数の衝撃を受けて馬車がバランスを崩し横転する。車体の中でクィーラは体のあちこちをぶつけた。
自重で横滑りし派手な音を立てて街道の脇に止まった頃、これが事故ではなく襲撃だと確信する。
クィーラが外へ飛び出した時には、護衛の兵士が賊と相対していた。
見える賊は五人、こちらは護衛の兵士が二人。
数では負けているが魔法を使えば何とかなる、クィーラは安直にもそう考えていた。
しかし、攻撃は一瞬だった。
賊が武器を持っていなかったため、クィーラの判断が一瞬遅れた。
異常なまでの速さで衛兵に接近した賊は力任せに腕を振り抜く。剣を構えた衛兵たちが為す術もなく突き飛ばされる。金属が勢いよく叩かれ、高い音が響いた。
横たわった衛兵はそこから動かなくなる。クィーラは彼らに視線を向けた。
………ただの拳の突きが鎧の装甲を歪ませている。
凹んだ甲冑が物語る力の異様さ。
何かがおかしい。
クィーラは賊の男たちを睨む。
衛兵を殴り飛ばした賊は吠えて喜びを表す。まるで獣のように理性が全く感じられない。それどころか目を血走らせ歯を鳴らし、首を水平に傾けながら辺りを見渡している。口は半開きで涎がしたたり落ちていた。
とてもじゃないが話ができる状態ではなさそうだ。
魔物のような獰猛さ。彼らを人間と認識するのは難しそうだ。
そうこうしているうちに、狂人の一人がこちらに目を向け、すかさず飛びかかってきた。
十分な距離を取っていたのにも関わらず、一瞬で間合いを詰める素早い動き。驚異的な跳躍力をみせた狂人はそのまま空中で体を反らし渾身の拳を放とうとする。
クィーラは構えた錫杖でそれに応戦し、狂人が飛ぶ直前に鋭い棘の魔力を集約させた。
錫杖の音が空に木霊し、魔法が放たれる。
動きは速いが、行動は直線的で読みやすい。
狂人の瞳が棘へ焦点を合わせた頃には、眉間と体は串刺しになっていた。
血しぶきが飛び散り哀れな体が地面に倒れ込む。
入れ替わりに、次は二体同時に飛び込んできた。
クィーラは魔力を練り上げると、錫杖で壁の魔法を唱える。正面に展開された魔法陣が空中で静止し、激突した狂人の強い衝撃を弾き返す。
クィーラは叫んだ。
「罰風!!」
そのまま魔法陣を折り畳み、横一直線に風を切る薙ぎ払いが放たれる。
弾かれた勢いで膝をつく狂人たちは、迫る風の刃を防ぐ術を持たなかった。顎から上を吹き飛ばされ地面にその体を投げ出す。
残りは二人………!
クィーラは杖を構え直し魔力を練る。
だが、賊は間合いを詰めてこない。
一人は先ほど同様焦点の合わない目を彷徨わせているが、奥の黒いローブの男は薄ら笑いでこちら見ていた。
「すごいな! ご息女! ここまでできますか!!」
ローブの男は感嘆の声を上げる。あれは話ができそうだ。
「何者ですか! 目的と雇い主は!」
「もう勝ったつもりでいるんですねぇ。素晴らしい傲慢だ!!」
高笑いしながらローブの男は手に持っていた瓶をもう一人の狂人の首元に刺し込んだ。瓶の中の液体が注射器のように体内へ入り込むと、狂人の身体に異変が起きた。
突如、ぶくりと体が膨れ上がり、着ていた衣類が散り散りになる。圧倒的に増えた質量に体が追いつかず後方へ転倒し、仰向けのままぶくぶくと狂人の膨張が続いた。
不気味な光景に息を飲むクィーラ。
変化は徐々に収まり、狂人の動きが緩慢になる。ゆっくり起き上がると落ち窪んだ目でクィーラを捕捉した。顔色は赤く変色し、息は荒い。
荷馬車くらいにまで膨らんだ狂人は大絶叫する。耳を塞いでクィーラは体を竦ませた。
何なのですか、あれは……!
奇怪な肉の塊があたかも人間になりすましたかのような、恐ろしい変身を遂げていた。
肥大化した狂人は咆哮を上げた後、大きな体でこちらに突進してくる。
地響きを鳴らしながら素早い速度で走り、地面を揺らす。
クィーラはすんでのところで召喚魔法を唱えた。
狂人の突進は空を切り、そのまま地面に倒れこむ。地面に手をつき、血走った眼で頭上を睨んだ。
召喚した鷹に掴まり空へ躱したクィーラは錫杖を振るう。棘の魔法が数本放たれ狂人に直撃した。
棘は鎖骨や肩、膝に命中したが、効いた素振りはない。皮膚の硬化、感覚の鈍化。名状し難い生命の冒涜。
考えをまとめるために飛び上がったクィーラだったが、次の瞬間、わき腹を衝撃が抉った。
「ぐぁっ!!」
黒い魔法の残滓が空に突き抜けていく。削り取られた脇腹から血が噴き出した。
激痛で空から落ちそうになるのを必死で堪える。
しまった……!
「あぁ、もっと、もっといい声で鳴いてください! ご息女、もっといい声で!!」
ローブの男は興奮したような口振りで囁く。気配を隠匿しつつ、魔法の矢を飛ばしてきていた。
召喚された鷹が細かく動いて矢を躱す。空に飛び上がったのは迂闊だった。
地上には魔法の攻撃を弾く狂人が。空中へ逃げても、魔法の矢を飛ばすローブ男が。
痛みに耐えながら次の召喚魔法を唱える。鼠が一斉に現れ四方八方に逃げ出していく。
突然降ってきた小動物に驚いた狂人は、怒りを顕にしあたり構わず鼠を殴りまわす。
攪乱してその隙に森へ逃げ込もうと急いだクィーラだったが、次は右の太ももを魔法矢が刺し貫いた。
「うぐっ……! はぁ……はぁ……」
激痛が全身を巡る。魔法の気配が全くしなかった。悦に入ったローブ男の声が聞こえる。
「そういえば地下にいた見張りの二人が魔法で刺されてましたねぇ。やり返される今のお気持ちはどうですかぁ?」
逃げ込む方向を先読みされてしまった。あの男、かなり実戦慣れしている。
状況は最悪だ。クィーラは足を引き摺り森に入った。
狂人と魔法使いの二対一。
とにかく、とにかく逃げないと……!
重く大きな足音が背後から迫る。囮のネズミを散らした狂人がクィーラを追う。
姿勢を低くし猛進する突撃。
飛びつくような狂人の体当たりを、クィーラは魔法を放つ反動を利用し横に跳んで避ける。
激突した木が小枝のように幹ごとへし折れた。揺れ動き忙しない目、狂人がクィーラを見下ろす。
「あ…………あ………………」
どうしよう、どうしよう、何か、何かしないと。
腰が抜けて立ち上がれない。腕だけで這うように後ずさる。
狂人は目の前の木を引きちぎると、思い切りクィーラに叩きつけた。
抱えた錫杖をがむしゃらに振り、防護魔法を展開する。木の幹と障壁がぶつかり、太い幹がへし折れた。
咆哮とともに狂人は、何度もクィーラを殴り続ける。
防御魔法はすぐにヒビが入り、限界を迎えた。
急ぎ後方へ避難するも、足が思うように動かず、クィーラは地面を這いずる。
バリン、と障壁が割れ、突き破った丸太が背中を打つ。飛ばされた勢いで、クィーラは前方の木に身体を打ち付ける。
「はっ……はっ……!」
息が出るばかりで入ってこない。
震えながら木の根を掴んでなんとか立ち上がり、必死に森の奥へと進んだ。
細かな木々が邪魔をし、狂人の怒りの雄叫びが聞こえる。ザラザラした殺意がクィーラの心を削った。
死の恐怖で、涙が溢れ出る。
いやだ……いやだ……!
木の根に躓き倒れ、不安定な足で転がる様に逃げた。
怖い……怖いよ……!
心臓が早鐘を打ち、汗が噴き出す。深い森の中、道なき道を進み続ける。
脇腹と脚から血液を流しながら、日の届かない鬱蒼と茂る木々の隙間を縫っていく。生き物の気配がない。あるのは追ってくる非情な息遣いだけ。
クィーラは巨木の樹洞に身を寄せた。口を塞ぎ、痙攣する肩を抱きしめる。
苦しい。息ができない。怖い。怖い。怖い。
狂人の足音が前方を通過し、辺りを彷徨い始めた。
ローブ男の声が聞こえる。
「ははははは!! ご息女! 今度はかくれんぼですか、 面白いですねぇ!」
狂人が木々を引きちぎり叩き折っていく。
指先まで冷たくなった体が自分のものじゃないみたいだ。
やだ……やだ……こないで……お願い。
全身がぶるぶると震える。身体を支配する絶望に、まるで耐性がなかった。
死への恐怖に、初めて曝される。
彼女の幼い精神性は高い能力と地位に固められ、脆弱性を見せることはほとんどなかった。自信に満ちた言動や立ち振る舞いは、確固たる自尊心に裏打ちされたもの。
しかし、今のクィーラを守る後ろ盾は何もない。自負した魔法も効かず無様に逃げることしかできなかった。
それが余計に彼女の心を折る。
クィーラを覆っていた木が、中ほどで引っこ抜かれた。
「っひ!」
見下ろすようにして影になった狂人と目が合う。
男の声がどこからか響く。
「さあ、さあ、どうするんですか!」
「あ……あぁ……」
クィーラは錫杖にしがみつく。魔力を感じることさえできない。
接近した狂人に、右脚を掴まれた。
「ぐあっ………!!」
傷口を無理やり広げられ痛みが走った。
狂人はそのままクィーラを高く持ち上げ、軽く放り投げる。孤を描いた彼女の体は、地面に激突し、無様に転がっていく。
柔らかな肌に、岩や枝が突き刺さった。ローブ男と狂人は愉快そうにせせら笑う。
痛みにもがくクィーラを、狂人は玩具のように弄んだ。




