第36節 聖痕
サンクチュールのあばら家が地震によって軒並み取り壊されていた。
いつ足場が崩れ沼に落とされるか分からない。
だが自分の身を案じている場合でもなかった。
教王国に住む罪のない人々を、謂れのない断罪を受けるアトレアを、守れるだけの力は、私の中にある。
魔力の発生源を探知するため、カノンは最も教王国に近い壁側まで歩く。
魔力災害が引き起こされるのは魔力の集積によるものがほとんどだ。
ズールィの言っていることが正しければ、すでに魔力の痕跡がありありと浮かんでいるはずだった。
だが岩壁の中にあるのは淀んだ魔力だけ。集まることも離散することもない。
どうしてだろう。
何を調査していたか詳しく話を聞いておくべきだった。
カノンは沼から上がる信者であった者たちが、神殿に向かって祈る様子をそこかしこで目撃した。
惨い、惨いすぎる。彼らはとうに死んでいるはずだ。何者かによって操られ死してなお信仰を続けている。
こんなこと、アトレアがするはずもない。
だけど、他に誰がこんなことをできるのだろうか。
祖龍の瞳と呼ばれる国すら変えてしまう力を持つ彼女。
胸の中に不安が募っていく一方だった。
国を破壊することを神への贖罪として選んだのか。それとも贖罪の道を諦めてしまったのだろうか。
私は、この残酷な現実を止めなければならない。
死した人間を、これ以上見過ごすわけにはいかなかった。
岸から上がった彼らは神殿を見つめると祝詞を口にする。声にならない声で何を言っているかは分からなかった。
口々に唱える彼らの様子は、まさに祈りの都の住人とでも言うべきか。
カノンは竜骨の笛を握った。
彼らがこうなってしまったのには何か原因がある。
何故か私はアトレアの手前、それを調べることが不正義だと思ってしまっていた。
病気の類ではないと彼女は言っていたし、魔法が施された形跡もほとんど見当たらなかったからだ。
カノンは祈り続ける彼らの内の一人の傍らに立ち、竜骨の笛で結界を作ると赤黒い肌に触れた。
冷たい。やはり彼らの体は死体でしかない。祈る行為だけが残された人型の肉塊。生かされることもなければ、祈りが神に伝わることもない。伝わったとして、死んだ彼らは何を望むのか。
屍の中、一部がわずかに黒ずんでいるのを見つけた。
カノンは不思議に感じてそれを見つめる。
―――これは何……?
爛れた痕のようにも見えるが体表の一部だろうか。
他の信者たちを調べる。
どうにも不自然だった。他の遺体からも同じような痕が見つかったのだ。
魔法の感覚を押し広げ、集中して懸命に手がかりを探った。
今まさにルリや姉は戦いの真っ只中にいる。
はやる気持ちを抑えながら魔力の痕跡を辿っていく。
だが見つからない。ただの痣にしては不自然なはずなのに。
サンクチュールに集う罪を背負った者たち。神の背律を犯してしまった罰をここで贖っている。
彼らが信仰心を捨てないでいられるのは、アトレアという存在がいるからだ。
しかしそれは大いなる欺瞞で、この場所に彼女は魔力災害を引き起こさんと企てていた。
……それは、本当に欺瞞なのか?
私情と状況証拠の狭間で揺れ動き、信じたくない現実を押し問答してしまっている。
もっと、もっと理性的に物事を捉えなければ。
しかしそうすればするほど、解は複雑になった。
息を吐き出して呼吸を整え意識を集中させた。カノンは目を閉じて、これまでの旅を振り返る。
姉の感覚を頼りにここまできた。
そして姉はアトレアを最後まで信じている。
私もそれが正しいと思った。
彼女が嘘をついてまでこの地に残るはずがない。
……いや違う。合理的な発想は捨てるんだ。もっと、私の感覚を頼りに。
アトレアという人物像を思い浮かべる。
私の五感を介して心に映し出された情景。
祈ることを止めない彼女。懺悔と後悔が両輪となり、今のアトレアを動かし続けている。
そう、彼女は探しているんだ。もっと、心の奥、失った大事なものを。
―――私と同じ、失われた姉との時間を。
遠く、神殿の方向から音が鳴った。天盤が剥がれ落ちて神殿の一部を崩す。
ところどころの崩落が沼の飛沫を高く上げた。心なしか地響きが強くなってきている。
アトレアが破壊を望んでいないのであれば、誰が魔力災害を引き起こそうとしているのか。
私はずっと思っていた心の奥の本心を引っ張り出す。
可能性は低い。けれど、言い出さずにはいられなかった。
「こんなこと、誰も望んではいないのかも」
導き出した答えは単純なものだ。
魔力災害が引き起こされるのは、やはり自然の摂理。
そのきっかけが生み出されようとしている。
それだけのことだった。
大災害を招く大規模な魔術を想像していたカノンは、その根本から考え方を変えることにした。
祈りの都が聖域として保たれ続けているのには理由がある。
彼女が持つ瞳の力はもう損なわれているそうだ。ということは、聖域の管理者は彼女ではない。付き添っているフリートにもそんな気配は見えなかった。
カノンは短く息を吸って頭の中を巡らせる。
祈りの都、それ自体がこの聖域を保っているとしたら。この都に住まう人々が持ち得る狂乱的な信仰心。
それらが強く固く結ばれる。
彼らが命を投げうってまで捧げた祈りなら、教王国に匹敵するほどの聖域ができあがる可能性がある。
聖域の根源たるはそこにあった。不可解なのは、信者たちがどうして命を犠牲にすることができたのか。
アトレアは信者の死を望んではいなかった。
神殿やこの辺りの建物だって、作り上げたのはアトレアを慕う者のはずだ。彼らはともに、ここでアトレアと懺悔する日々を送りたかったのではないだろうか。そうすることで、流刑地に落とされても正気を保ちつつ自らの神を崇めることができる、信じ続けられる、そう思っていたはずだ。
それなのに、彼らはどうしてアトレアが望まない死を、わざわざ選んだりしたのだろうか。
この地に降りた者は、全員奇病のように侵され死んでいった。
原因はおそらく信者たちについている烙印だ。これがあるから彼らは祈りの都で生きていけないのだ。
ここに堕とされた者のみが有する聖痕。
魔法でないとするならば、教王国側の何者かによるスキルである可能性が高い。
ではその烙印の目的は何なのだろうか。
谷底での反体制派全員の衰弱死を狙ったもの?
流刑に処したものをこんな手の込んだやり方で殺すだろうか。待っていてもただ死んでいくだけの生命だ。手をかける必要がない。
つまり目的は命ではなくこの場所にある。
私は軽く息を吐き出した。冷静に、かつ感覚を頼りに頭を回す。
教王国の何者かが罪人に烙印を与えたとする。命を奪うようなスキル。そんなもの聞いたことがない。
スキルには必ず制約が付き纏う。大きな力を扱うには相応の条件も満たさなければならない。
では、この烙印が生命を失わせる制約とは何なのか。
祖龍教国から遠く離れたこの場所で、直接手を下さず彼らの命を奪う方法。
罪人たちは、自らの罪を償うためにこの地へ流された。流罪地区にいなければならないのは、贖罪のため。
そう考えれば烙印が果たす役割は単純明快だった。
信仰の消失。つまり、祖龍神を疑えば彼らは死ぬ。
……いや、それだけでは死への制約になり得ないだろう。
もっと、命を捨ててでも罪人たちが犯すべき法があるはず。
私は傍らの亡者たちを見つめた。
命が尽き果てながらも、彼らは祈りを忘れない。もしかすると、忘れられないのかもしれない。体に刻まれた烙印がそれを強いるのかも……。
カノンはその時、小さな糸口を見つけ出した。
頭の中で錠前が開くような音がする。
烙印の役割は、この地で祈りを続けさせること。
カノンは頭を振って自身の考えを否定した。
信仰を忘れた彼らがどうして命を落とした後、未だに祈りを捧げ続けているのか。
彼らは信仰を捨てた。そして命も同時に落としたはずだ。ならば、烙印の役割はそこで潰えるはずだ。
心を失くした彼らが死体のまま祈ること、それ自体には何の意味も持たない。
そもそも、命を落とすほどの祈りがあったからこそ、ここに聖域ができたと自分で考えたのではないか。
烙印は信仰の喪失を引き金にしているのではない。
彼らの信仰心とアトレア、その関係性を巧みに利用―――。
カノンはそこまで巡り、自分の感覚をさらに疑った。
考えすぎた頭の中が過熱されて、混乱しているみたいだ。
今まで考えてきた推論が引きちぎられるような衝撃。
何か強力な存在が、この谷底に近付いている。
「嘘……でしょ……」
しかしそれは、確かめる必要のない、既視感のある感覚だった。
……どうして?! こんなところに、この魔力は―――!
地鳴りが続く流罪地区の教会は、深い沼地の底に段々と引きずり込まれていく。