第32節 仮面の雫
人々が寝静まった深夜。月明かりが煌々と教王国の夜を彩る。
毛布を深く被った少年は、両親の寝室の向かいの部屋で眠っていた。
風が強く吹き付けて窓を叩く。夢見心地な彼の耳元に風の音が響いた。
しっかりとした毛皮の隙間を縫い、忍び寄る虫の知らせ。
寒風が入ってきたかのような悪寒が走った。
寝ぼけたままの頭で瞼をゆっくりと開ける。寒さで冷えた体をさすり、もう一度目を瞑った。
真っ白な世界に黒い墨で殴り書きしたみたいな絵。頭の中でそれがずっと消えては浮かんでくる。具合が悪いわけではないのに、奇妙なイメージが瞼の裏でぐるぐると回り続けた。雨粒が目の上で踊るように、閉じた瞳を無理やりこじ開けようと何かが居座る。
眠りたいはずだった本能は、いつしか覚醒を促され体に緊張を走らせた。
寒さからくる震えとは言い難い浮遊感。なにか強い力で体を揺り動かされている感覚。
やけに変な夢だと思った。部屋中からキシキシと音が鳴り始める。
床が振動し部屋全体が笑い始めた。
何が起こっているのか分からず上体を起こす。
すると、自分の部屋の襖が勢いよく開けられ、廊下には血相を変えた父親の姿があった。
暖かい布団から連れ出され、震える部屋の外へ手を引かれていく。
おかしくなっているのは自分の部屋だけじゃない。家中が唸りを上げて動き出しているようだった。
これは夢……? 父さん、怖いよ……。
父親に自分の体を押し付けるように密着する。手を握る大きな手のひらが冷たく感じた。
軋んだ柱がひび割れ、支えを失った天井が落ちてくる。再び視界は暗闇に包まれ、続いて全身に痛みが走った。
痛い、痛い……父さん、母さん……。
安心を築き上げた家屋が崩れ去り、屋根の下敷きになった自分の名を叫ぶ声が聞こえた。
声に応じたいのに喉からは何も出なかった。泣き叫ぶことすらできないまま真っ暗な闇が覆う。
再び夢の中へ潜っていく僕は静かに重い瞼を閉じた。これは夢なんだ、醒めればきっと元通りに……。
教王国を襲った大地震は多くの被害を出した。
人びとが寝静まった深夜にそれは起こり、月明かりの下で大地を揺さぶった。
夜間であったことも起因し、建物の倒壊で少なくとも数百人の死者が出ていた。これから調査を進めればその数はもっと増えるだろう。
日が登り始めた頃、ズールィは独りごちる。
「もう時間はあまりないということか……」
救護活動に勤しむ教会は慌ただしく動き回り、怪我人と避難民でごったがえしていた。
急な災害に怯える人々を救済する方法は多岐にわたるが、早急に果たすべき役目がズールィにはあった。
これは魔力災害の前触れに過ぎない。本当の恐怖はこの後にやってくる。
大司教ズールィが歩き始めたその後ろに、数十人の黄金の騎士たちが続いていた。
■■◇■■
宿の崩壊で叩き起こされた僕らは、魔法を使って生き埋めにされた人々を助け起こしていた。
黒髪に染めていた変装を何もかも解いて、忙しなく家々を巡り瓦礫を吹き飛ばしていくカグヤ。
怪我人を治療しギルド員に指示を飛ばすカノン。
二人が二等級であることを僕は改めて実感した。
さすがは各地を百年単位で旅してきた実力者だ。こんな時でも躊躇うことなく人助けを優先できる。
「魔道士君、南側を頼めるか?」
ルリも同様に涼しい表情を浮かべていた。
冷静で混乱する様子のない彼女も、相当だと思う。
頷いて駆け出した僕はこの辺りを彼女たちに任せ、建物の脆そうな貧窟教区へと向かった。
助けが最も必要なのは恐らくあそこだろう。教会が優先的に支援するとも思えなかった。
煌めく魔法を被り、風のように駆け抜ける。整備された街並みでさえ被害は著しいものであった。
僕は手の平を握りしめる。
あれは……本当のことなのだろうか。
昨日、大司教ズールィは僕らに依頼を差し向けた。彼の立場上、私的なものでないことは僕にでもわかる。
教王国からの直接の依頼。勅旨、僕らはそう捉えた。しかしその内容は、諾々と承知できるものではなかった。
流罪地区のアトレア、及びフリートと背信者たちの処刑。
ズールィは次のように述べた。
『彼女らが流罪地区に留まっておるのは自身の罪を償う為ではないのです。その祈りとは、教王国そのものの滅亡なのでございます』
アトレアが復讐を企てていると彼は話す。
『アトレアは流罪地区に降りた後、なんらかの術を使い魔力災害を引き起こそうとしておるのです。どうか、どうか御言葉様方、力を貸していただけませぬか?』
彼ははっきりと魔力災害が起きると断言した。その根拠を信じろと言われても僕らには無理があった。
僕はもちろん、カグヤたちもその依頼を拒否した。アトレアがそれを望んでいるとも思えなかったから。
――――しかしズールィは予言した。近く必ず大きな地震が引き起こされると。
そしてこれを放置すれば、いずれ国を破滅させるほどの災禍が振り撒かれる。
言うに事欠いた彼を僕は信用しきれなかった。
この地震を起こした主犯はアトレア、貴方なのか……?
「主人と……主人と子どもが中に!!」
瓦礫の前で座り込んだ女性の叫び声が聞こえた。
僕は地面を裂くようにして減速しそちらを向く。
「誰かぁ! 誰か手を貸して!」
泣き叫ぶ女性の元へ駆けつけた僕は、瓦礫を持ち上げ魔力を探知する。
二つの魔力。下敷きになった彼らを救助するため、屋根を引き剥がし梁を取り除いた。
埋もれる男性と子どもを拾い上げ、女性の隣へと横たわらせる。
「ありがとう、ありがとうございます! あぁ……祖龍神様よ……! どうか主人と息子をお救い下さい!」
僕は目を背けて歯を食いしばる。
ふつふつと沸き上がるこの感情はなんだ。
燻る胸の中、その真意が見出せない。自分の気持ちであっても、手の届かない時がある。
祈る彼女の傍らに置いてきたのは、息を引き取った二つの亡骸だった。もう目を覚まさない彼らに縋り付く無辜の人々の有り様。
こんな光景がさらに拡大していくというのか。
苛立ちを抑え地面を蹴る。向かう先は被害の多い教区。倒壊した建物の近くで怪我をした人々が横たえる。
僕はさらに多くの命を救うべく、疾く足を動かして先を急いだ。
教区同士を繋ぐ関門に辿り着いた僕は、固く閉ざされた扉とそこに立つ聖職者の姿を見る。元々貧窟教区の人間は信用されていない。
頑丈な扉の理由は暴徒から他の教区を守るためだ。
そこに繋がっていた転送陣だって、罪人が使用した際の防波堤の役割を果たすのだろう。
見捨てられた土地はサンクチュールだけではない。この国は不要なものなら国民だろうが平気で捨て去る。
話をすると、御言葉である僕はあっさりと通してもらえた。
恭しく一礼をする門番は、僕の後ろの門を再度固く閉ざす。
後戻りはもうできない。
この場所を助けた後、僕は直接確かめにいく。
聖女アトレアが本当に復讐を望んでいるのか。
走り出した僕は周囲を見回しながら、被害の規模を知るために教区長ドンユの教会へと急いだ。
簡素なテントは軒並み倒れている。持ち家がないのが功を奏したか、予想していたより被害が少ないようだった。
生き埋めにされた人はいない……。
なんだか街も閑散としているように感じた。
その時、道端で蹲る人影が目に入った。
「大丈夫ですか?」
僕が声をかけたその人物は、顔をこちらに向けるとすっと手を伸ばした。
年老いた男性が焦点の合わない瞳を彷徨わせる。
「すまんのう、ドンユ様のところまで連れていってはもらえんか」
白濁とした瞳に、僕は返事した。
「分かりました。どうぞ手を取って下さい」
彼は僕の手を取り立ち上がると、よたよたと覚束無い足取りで歩き出す。
貧窟教区に多く住むのは脛に傷のある者や身寄りのない子どもだけではない。労働力として数えられない身体的に不自由な者、或いは心身が集団生活に適さない者など、様々だ。
一般的に社会的弱者と呼ばれる者たちは、世間から爪弾きにされここで住むことを余儀なくされる。
ここは、そんな人たちが行き着く終着点。教王国の望まれざる非国民の掃き溜め。
確かに住み分けが成された別の教区では、綺麗なものしか存在しないのかもしれない。
だけどそれは、あまりにも残酷な平和だ。選別された民たちはそれで満足なのだろうか。
虐げられた人々が幸福になることはない。それすらもなかったことにできる力を、人は望むのか。
「地鳴りが起きたようじゃな……あんたは、怪我をしなかったか?」
唐突に男は尋ねる。目の見えない彼にとって、大地の震えなど恐怖以外の何物でもないだろう。
「ええ。僕は冒険者ですから、このくらい何ともないですよ」
僕は気丈に返事をする。
ここに来たのは力あるものが、力なきものに手を貸すためだ。
「それはそれは、運の悪い時に来たのう。じゃがそれも、祖龍神様の思し召しと思いなされ」
僕は彼らの言っていることが分からなくなっていた。この惨状さえも肯定してしまうものなのか。
「信心深いんですね、この国の方々は……」
絞りだした僕の言葉は、どこ嘘っぽく聞こえる。
男はそんなことも気にせず、静かに微笑んだ。
教会への道すがら、僕は男に尋ねた。
「どうして皆さんは祈るんですか?」
即物的な物言いだけは避けてきた僕だが、どうしても気になっていた。
人の死を悼むことはあっても、仕方ないと割り切りたくはなかった。
少し間を置いた男は、静かに語り始める。
「祖龍神様は昔から、信じる者に祝福をお与えになる。それは恩寵であり、愛であり、そして罰でもあるのじゃ」
「……罰?」
聞き返す僕に男は変わらない口振りで頷く。
「そうじゃ。罰とは報い、全ての因果は廻り、巡るということじゃ」
男の言葉を飲み込めず、僕は眉を顰める。
「罰を受けるために祈りを捧げているということですか?」
ゆっくりとした足取りのまま男は告げた。
「そうではない。我らの先祖から子孫までの永劫を、祖龍神様は一つの円環にしてくださっておるのじゃ」
僕は老人が細かい皺を刻みながら喋る言葉を、頭の中で繰り返していた。
「我らがどう祈りを捧げたかはもはや関係あるまい。君を形作るのは皮膚や肉や骨だけではないじゃろう?」
半歩ずつ、だがしっかりと歩く男はさらに続ける。
「君の因子は親から引き継がれたものであり、そしてその親もさらにその親から脈々と受け継いできておる」
男は光のない瞳で、何を見ているのか。
いや、見えないからこそ、視えるものがあるというのか。
「君が生きている限り、その因子は罰として巡り巡ってくるはずじゃ。祖龍神様なくして、人は生きられぬ」
口角を上げる男は心底嬉しそうに告げた。諭すことが唯一の楽しみであるかのように。
「信じることは生命を全うすることと同じ。……とどのつまりはそういうことじゃ」
言い終えた男は満足そうに頷く。
祖竜信仰が紡いできたものは、人々の生命そのものということだろうか。或いはそうすることで信仰を続けさせてきたのか。
僕がこの力を持ち得ているのは、会ったことのない両親から受け継がれてきたから?
―――その延長線上にいる僕が、この罰を背負っている?
魂に刻まれた尊い思い。僕はまだ、自分の置かれた立場を理解することができないでいた。
光り輝く龍の瞳。
突然の衝撃に僕は動きを止めた。
……なんだ、今のは。
強烈な力で意識が引き剥がされそうになる。頭の内側から発火したような熱い感覚。瞬時に思い浮かんだもの、それは瞳だ。
「……どうしたんじゃ。何か前におるのか?」
男は不思議そうに僕の手を握りしめる。
頭を振って、滴った違和感を追い払う。焼き切れたような鋭利な神経が、敏感に沸いて出たイメージを思い起こす。
確かに今触れた。
心の奥底と祖龍の瞳が。
呼んでいるんだ、僕のことを。
でもどうして?
「すいません、何の受け売りなのかなと」
曖昧に返事をした僕は、男の意気込む言葉にさらに驚いた。
「よくぞ聞いてくれた。悲しいかな、それは祖龍神様の寵愛を受けし、聖女アトレア様の言葉じゃ」
絶句した僕の前で、男は意気揚々と続ける。
「そうじゃ。おいたわしや聖女様。今も"サンクチュール"でお勤めをされておりますのじゃ」
僕ははっとしてその男の方を見た。
歪む思考。魔神との戦いで思い起こされた悲劇。
「……どうして、祈りの都の名を知っているんですか……?」
信仰とは何だ。
巡り巡る命を罰だというのか。
あの村だって、信仰は人々を傷つけることしかしていなかった。
信仰が人間に罰を与えるというのであれば、そうだとすれば、神だと名乗るものは皆、悪ではないか。
「"祈りの都"はアトレア様の理想郷じゃよ。ほれ、もう誰もこの教区には残っておらんじゃろ?」
おかしいと思ったんだ。
街への被害は出ているのに、助けを求める声が聞こえてこない。関所の門は固く閉ざされてはいるが、そこに民衆が殺到することもなかった。
「みんな行ってしまったんじゃ……きっかけが欲しかった、"祈りの都"へ行くための」
教会の扉の前、小さな人影が見えた。
確かイーファンと呼ばれていたか、同い年くらいの少年。
「ズー爺ちゃん! 良かった、心配してたんだよ。御言葉様、ありがとう。ほら、行くよ。みんなのところへ」
彼は男の手を引くと、別の道を歩き始めた。
僕は大きな声でそれを制する。
「待って! みなさんはどこへ? 教区長は?」
イーファンは振り返り告げた。
「婆ちゃんは、もうみんなを引き連れて行ったよ。教会はもう何も救ってはくれないって、そう言ってた」
地震が発生した当初、貧窟教区の住人は挙って教会へ足を運んだ。住む場所まで追われた彼らの欲したものは、どこか安らげる自分たちの居場所だけだった。
しかし、教会はそんな彼らに何も与えず、道標を残すこともしなかった。救うことすら諦め、自らの保身に走る。それが教会が彼らに見せた信仰の返報、罰だった。
住民たちは俗世で生きることを諦め、最後の神に頼ることを決意した。
魔法陣が貧窟教区に繋がっていた理由、それは最も祖龍信仰とは遠い場所だったからだ。
アトレアは祈りの都で彼らを誘った。祖龍信仰から見放され、絶望した盲目な彼らを。
祈りの犠牲になった彼らの末路は、復讐のための生贄に過ぎない。
ただの魔法で魔力災害は引き起こせない。だが、命までも投げ打ち、その力を解き放てば或いは。
それが実現できるのはもはや彼女しか考えられなかった。祖龍の力を秘めたたった一人の人間。
灰の仮面に垂れ下がる銀の雫が、暗闇に光る。