第31節 引き寄せられる因果
魔物の腕が弾け飛んで、水飛沫が散った。手のひらを向けると、螺旋状に水が連なる。
片膝をついた魔物が、露わになった筋繊維を片腕で抱えた。赤黒い血が流れ、傷口から勢いよく飛び出る。
「汽水刃……!」
魔力の波形は水の粒を勢いよく弾く。三日月の形を描く細かな刃が魔物に向かった。
水とは思えない、打撃のような音が鳴り響き、どさどさっと崩れ落ちる肉片が見えた。
筋肉質な体で大きな岩を持ち上げた剛力の魔物。それが今や見るも無惨な姿になっている。
「二人とも、無事?!」
シュエは背中の水の輪を保ったまま、目線を合わせず声をかけた。
岩場の影に隠れていたカイとメイユイは、持っていた木の棒や石の礫を投げ出す。
「し、信じらんねぇ……」
「シュエ……あんた……」
二人が出来損ないのうわ言を上げている間に、魔法の輪を解除してシュエは近寄った。
口を開けたままの二人を見つけて、いつもの調子を取り戻してはにかんだ。
「えへへ……びっくりさせちゃったね」
拍子抜けしたシュエの言葉にカイはずっこける。
乾いた笑いもでない引き攣った顔のまま、カイは言う。
「びっくりってか、今のどうやったんだよ……」
腕を広げて眉間に皺を寄せるカイ。彼はシュエを真似て手探りに魔力を感じようと息巻く。
しかしどこか滑稽に映った彼の背中を、メイユイが軽く小突いて背筋を伸ばして告げる。
「シュエ、一朝一夕で使える魔法じゃないわよコレ」
彼女はシュエの両手をとってまじまじと見つめる。
畑仕事に慣れたその手は、硬く黒ずんでいた。
「んー……必死だったから、よくわかんないや」
「分かんないって……ソレそんな簡単に出せんのか?」
カイの最もらしい問いかけに、シュエは曖昧に笑うだけだった。
笑顔の彼女に、これ以上の追求は意味を成さない。そもそもシュエが問に対する答えをもっているかも不明だ。
あの魔法は魔神が使っていたものに似ている。どうしてシュエが扱えるのか、その理由も分からない。しかしそんなことを理解したところで、自分たちの何かが変わるわけでもない。
魔物に遭遇した自分たちはあまりにも無力で、この地域がこれほどまでに魔物で溢れているとは思わなかった。
目前に聳える巨大な嶺を持つ山々。そこから連なる山脈からおおよその位置を割り出す。立ち寄った村で見た周辺の地図を脳内で重ね合わせ、星を頼りに方角を定めた。
向かう先は教王国の谷底にあると言われる、流罪地区と呼ばれた禁域の不浄なる土地。あらゆる悪意が棄てられ忘れ去られた場所。
そこに住む、祀られた忌むべき聖女。
シュエたちの脳裏には魔神の姿が浮かんでいた。先祖代々に呪いをかけた恐るべき力。
信仰とは神との契約なのだと、救いを求めると同時に、業を背負う行為でもある。
踏みしめる大地の深さを、鳥の声が届かないほどの大空の広さを、あの村の中では知ることができなかった。
ある意味で、信仰はそれらを奪っていたのだ。
険しい崖が多くなってきた足場に注意を払いつつ、一歩また一歩と下っていく。
「気をつけろ。道がないってことはだな、人が通れる確証はないってことだ」
カイが先頭に立ち、後ろを振り返りながら告げる。
次に続くメイユイがそれに応える。
「なに当たり前のこといってんのよ。前だけ見て警戒してなさい」
森だった時の木々は姿を変え、枯れ枝が目立つ細い樹木が増えてきた。
枝葉からはくすんだ色の葉っぱが完全に散っていた。
閑散とした景色の奥に、立ち塞がる絶壁が見える。
当初の目的であるジョルム地方とは方角を違えたが、大国の祖龍教国であれば冒険家業も泊がつくはずだ。
「なに、あの草……」
メイユイの嫌そうな言葉尻に目を向けると、そこには派手な色の植物が根差していた。
ふわふわと胞子を漂わせた怪しい花弁。触れると危険だと言わんばかりの風体をしている。
よく見るとそこかしこにそれらは自生しており、木枯らしに吹かれ頭を大げさに揺らしていた。
緊張した面持ちのカイはメイユイの手を握り、彼女は何も言わずその手を握り返す。
不穏な獣の鳴き声が木霊し、夜でもないのに暗がりが辺りに満ち始める。
日の光が崖と重なり、一帯が日陰になった。
足元は湿り気を帯び柔らかい土が感触を返す。
この先の場所に本当に人なんて住んでいるのだろうか。住んでいるとして、どうやって生活しているのか。
広がる汚臭の沼地に顔をしかめた三人は、歩みを遅らせつつもその奥へと進んでいった。
■■◇■■
教王国のギルド内でため息を吐く。僕らはようやく腰を落ち着かせることができた。
「外は御言葉を探す人々で溢れかえっているな。顔を隠しながら歩くのは逆に目立つだろう」
ルリが長い睫毛を伏せながら告げる。彼女の髪色は水色から黒に変化していた。
「情報を集めるのにも苦労しそうね。……やっぱり権力者に直接会った方が早いんじゃない?」
漆黒の髪色に染まったカグヤも、目の前に盛られた食事にありつきながら言う。
香辛料が強めのその料理は、匂いからしてとても辛そうに思う。
「お姉ちゃん、この国の政治腐敗は知ってるでしょう? だから今までギルドの依頼以外は断ってきたんじゃない」
木製のコップに口をつけた後、カノンは姉に告げる。
彼女たちの長い耳は頭を覆う布で隠されていた。
特徴は恐らくエルフが二人と青目の少女、白髪の小さな子どもの四人組、そんなところだろう。
酒場が中に入ったギルドの支部は珍しくない。教王国内の大きな支店でもそれは同じだった。
ルールエよりも建物は広く、依頼の多さも凄まじい。訪れる冒険者の数だって比較できないほどだ。
賑わう人々の間で静かにテーブルにつき、僕らは今後の方針を固めることにした。
しかし御言葉だと分かればそれどころではなくなるため、魔法による変装を施しなんとかここまでたどり着いた。
「それにしても、便利な魔法もあるのねぇ……」
出された料理とかけられた魔法に舌鼓をうつカグヤ。長い黒髪をまじまじと見つめる。
ルリが指先を立てくるくると回すと、自身の瞳の色が七色に変化していく。
色を変える魔法はルリの苦労の証とも言える。彼女は長い間、隠れながら生活を続けてきていたのだ。
思えばルリとの旅も逃げることから始まった。隠れてやり過ごすのは、僕らの宿命なのだろうか。
大手を振って御言葉を公言できる時があるとすれば、それはいつになるのか、僕には想像できなかった。
なんとしても僕らを引き入れたいと教会連中は思ったのだろう、僧兵が僕らを探し出そうとする動きが活発になっている。
彼らは御言葉を立身出世の道具としてしかみていない、見つけ出しもてなせばいいと思っているのだ。
がめつい強欲さを隠そうともしない彼らは、普段からそれがまかり通っていることの表れだった。
酒場の給仕係が大きな皿を空いた机の上に置く。香ばしく焼き色のついた鳥の肉と蒸し焼きの野菜。さらに積み上がっていく料理の数々。
僕は目を丸くしてその食いっぷりに釘付けになる。
カグヤはその体格に見合わず大食らいだった。つくづくエルフというイメージにそぐわない人だ。
カノンだってもう満足、というふうにお腹を撫でている。
その目前には空の大皿が二つ。……あれ、こっちもなのか。
咀嚼していた口の中を空にし、カグヤは僕らに告げる。
「驚いた? 私たちってヒト族よりも沢山食べるのよ。二人も食べ盛りなんだから、もっと頼みなさい!」
指についたソースを舐めとり、言い終わるや否や、カグヤは次の皿に手を伸ばした。
ルリは刻んだサラダをフォークで刺したまま、表情も変えずに告げる。
「……見てるだけでお腹が一杯になりそうだ」
僕は同意を示すように頷く。
カグヤはそんな僕らの様子に肩を落とした。
「そんなんじゃ大きくなれないわよ、って私が言うのもなんだけどさ。………それよりも」
僕と視線を合わせたまま声のトーンを下げる。
隣のカノンが笑顔を崩さず告げた。
「私たちを監視している者がいますね。このまま気付かないふりをしましょう」
僕はこの賑やかな酒場の中から、視線を感じとった二人に驚きつつ、再び頷く。
目ざとい、司教たちだろうか。冒険者たちに紛れて後をつけてきたのか。
しかし、変装がばれてしまったとは思えなかった。この衆人環視の中、誰にも疑われてさえいないはずなのに。
行き交う人々の中から、エルフ二人を見つけ出すのだって困難な状況なのだ。
魔法使い溢れるこの場所で、魔法を使った人探しにも限界があるだろう。
「……ふむ、不思議ですな。その小さき体の、どこに食べ物が入っているのですかな」
僕はギョッとして右を向く。
いつの間にか隣には司教の服を着た老人が座っていた。
これだけ接近されて、気付かなかったのは初めてのことだった。
身動きしようとしたところで、もう既にこの老人の間合いだ。
僕は緊張で固くなった体のまま尋ねた。
「お、お爺さん、何か用ですか……?」
僕の言葉を食い気味に、直後にカグヤが告げる。
「あなた、何者?」
気取られなかった気配は他の三人も同じようだった。
ただただ口髭を蓄えたこの男を全員で見つめる。
「視線に注意をとられ過ぎましたな。せっかくの良き瞳が台無しでございます」
大層いい身分なのか、上等な服装をした老人は、見た目に似合わずハキハキと物を言う。
聖職者であることは一目で分かったが、その分厚いレンズからは恐ろしい眼光が放たれていた。
「申し遅れました。私は大司教ズールィと申します。どうですかな、教王国の名産品の品々は……」
教王国流の挨拶をゆったりと行うズールィに、カグヤは声を上げた。
「前置きはいいから、要件は何なのかしら」
手厳しいな、自分から何者かと聞いたくせに。
ズールィは臆することなくレンズの位置を整えた。
「御言葉様に取り入ろうとしているわけではありません。大方、それが面倒で変装なさっているのでしょう?」
小さな声で彼は言うと、ふぉふぉふぉと笑った。
頬杖をついたカグヤが続きを急かすように睨む。
大量の酒樽を運ぶ酒場の従業員、料理を注文する冒険者。なみなみと注がれたジョッキを掲げる姿、大きな笑い声。
冒険者とはかくあるべきと思われるような景色。旅路の休息と祝いが、そこかしこに溢れかえる。
ルリや僕にはそれが非日常であり、未だ慣れない冒険の末端でしかなかった。かつてクィーラと肩を並べたあの旅は、単なる序章だったのだ。
ここではたとえ大司教であってもその権威は霞んでしまう。ズールィは前屈みになると声を潜ませこう告げた。
「私から直接依頼したいのです。……流罪地区に住む、人ならざる者たちの処刑を」
酒場の喧騒が、僕の耳から遠ざかっていった。