第30節 歪みの君主
掲げられたグラスが光を反射した。
広間に長いテーブルが置かれ、一列に並んだ僕らは司教の乾杯の音頭を聞きながら目の前の光景を見つめる。
「御言葉様方、長旅ご苦労様でした。どうぞ遠慮なく召し上がってください」
中年の男性は優しげに微笑みながら腕を掲げ一礼した。彼はここの教区長をしている司教だそうだ。
僕らが貧窟教区から別の教区へ移った頃には、御言葉来国の噂は瞬く間に広まっていた。
年端もいかない見た目の僕らが、簡単に御言葉だと信じられたのには理由がある。
「まさか、エルフの耳様が御言葉だったとは、もっと早く仰っていただければ……」
教区長が下ろしたグラスを脇にどけると、柔和な声でカグヤに告げた。
祖龍教国内でのエルフの耳が持つ高名さに僕は驚く。無理もないか。二等級冒険者は世界に二桁しかいない。さらに彼女たちが珍しいエルフだということも手伝えば、名前が売れてしまうのは必然と言えよう。
「別に、御言葉を自覚してるわけじゃないわ。ルリがそういってるだけだもの」
司教の態度とは対照的にどこか冷たい様子のカグヤ。
……なにか機嫌を損ねるようなことがあっただろうか。
そういえばカグヤたちが教王国に持っている印象について具体的に話しているところを見たことがなかった。
罪人であるアトレアとの関係を鑑みるに、彼女らにも教王国に対し何か思うところがあるのかもしれない。
神殿と思しき屋内は広々としていて、流石は権威の象徴だとでも言わんばかりであった。祖龍教国が裕福であるかは知らないが、貧窟教区と比べあまりにもその格差には開きがある。
過去に見たルールエの悲惨が交易によるものだとすれば、教王国が内包する問題の原因は間違いなくこれだろう。
豪華絢爛という言葉が似合いそうなこの司教は、神に仕える身としては明らかに装飾品の数が多い。贅肉をしっかりと蓄えた容姿は顎が見えないほどだし、はち切れそうな腹回りは病的であった。
成金、という言葉が似合うかもしれない。
そんなところも、カグヤは気になるのだろうか。
「先ほども言ったが私たちを御言葉だと証明するものはない。……彼が光の魔道士ということを除けばな」
僕は目線をルリに向ける。意地の悪い言い方だった。
告げた彼女の口元が少し緩むのを見た。
光に適性を持つ魔法使いというのはそれはそれは稀有で、その魔法見たさに光魔法へ執着する人間は多い。
僕はそんな人間が多いことの煩わしさをジジ牧師に聞き、今日まで自分の魔法を隠しながら生きてきた。
なぜ光にそこまで人を惹きつける力があるのか。数ある理由の一つは、やはり魔道士の名が大きいだろう。
勇士ダルク、魔道士ルキア。彼らは天地を開闢し世界を作ったとされている。
僕らの信仰するダルク教の暦に倣えば、それは今から六百年前の出来事だった。
魔道士ルキアは天界の神々から遣わされた一柱で、雑多であった大陸の地表に調和をもたらした。それは自然であり人間であり魔法であり、ありとあらゆる存在への創造の女神だったのだ。散りばめられた魔力の欠片が大陸に降り注ぎ、僕らは魔法の力を扱うことができるようになった。
女神であるルキアは、光をモチーフに描かれることが多く、全ては光から生み出されたものだと歴史家は語る。
では僕が魔道士ルキアと同等か、光魔法は全能か。
……そうでないことはもう明らかだろう。
押し寄せるような期待の波と羨望の眼差しを向けられ、後ろめたさに胸を痛ませる。
確かに僕は光を扱う術には長けている。しかしそれがなんだというのだ。あらゆる物事には聳え立つ壁も届かない天井もある。誰でも欠いた部分を持ったまま産まれてくるものだ。
ないものねだりがそれらを埋めてくれるのであれば、僕だって羨ましいもので胸中を埋め尽くすだろう。
人それぞれ生きていくための願いは違うはずなのだから、他人のことなど放っておけばいいのに。
「ルリ、からかわないで。司教様、僕らは魔王復活を阻止するために旅をしています」
僕の言葉にルリは肩を竦め、司教は目を輝かせる。
そして続けた。
「お招きはありがたいですが、先を急いでいますので」
目の前に盛られたご馳走を僕は一口もつけず、席を立った。僕らだけでは持て余す量の料理から、熱と匂いが伝わる。
目を開いた司教は慌てた様子で立ち上がった。
「お、お待ちください! 流罪地区から来られたのでしょう? まずは谷の穢れを落とされては――――」
司教の指にはめられた指輪がキラキラと光を反射した。前いた場所が貧窟なら、ここは欲窟と呼べるだろう。
司教の言葉を待たずして僕は身を翻す。『谷の穢れ』。彼の言葉には、行間以上の含みがあった。
扉の前に立った兵士が、緊張した顔のまま僕らを素通りさせる。
神殿から下る階段の途中、僕は僧兵や僧侶の顔を盗み見た。驚きと戸惑いの混ざり合う複雑な表情。それはこの国での僕らの立場と、仕える司教とが、秤の上で拮抗していることの現れのように感じられた。
祖龍信仰における御言葉とは、祖龍神の最大の信奉者でもあるようだ。
もちろん、僕らは信仰区分での祖龍信徒ではないが、彼らの階級制度の中では位が高く設定してあった。教皇未満、大司教以上の地位を持っている、そう古い書物には記述が残っていたと記憶している。
あの派手さばかりが目立つ格好の男がへりくだるほどだ。光魔法とエルフの耳の組み合わせは相当な利用価値があるに違いない。
道中には気を配らなくてはならないだろう。
出入り口にさしかかった時、神殿の出口の向こう側、大勢の気配を感じた。
二人の門兵が僕らの前に歩み出て、怖々とした顔で告げる。
「御言葉様方、恐れ多くも存じますが、今外に出るのはお待ちください」
小窓から顔を覗かせると、神殿の前には埋め尽くすほどの人だかりができていた。
「想像していたよりも多いですね……私たちは見世物なんかじゃありませんよ……」
カノンが僕の後ろから声を出す。
迂闊に外へ出れば魔法で人々を弾かなければならなくなる。
このような状況になるのは祖龍教国だけではない。御言葉の噂は商人や冒険者によって伝えられるだろう。
だがその反響は僕らの予想以上のものだった。
カノンのさらにまた後ろから声がする。
「御言葉様、遠慮はいりません。今日は私の神殿内でお寛ぎくださいませ」
階段を下る度に腹の肉が上下する。肥満が露呈した体は見るに堪えない。
哀れな姿の司教の声が響く玄関口で、僕は彼をじっと睨みつける。
記憶の中のジジ牧師と目の前の司教を重ね合わせた。
己の欲望にまみれた彼に、何を導けるというのだろう。
「いえ、結構です。僕らは貧していませんから、困っている人に先ほどの食事を分けてあげてください」
僕はそう告げた後、全身に魔力を蓄える。
そうは言っても無駄だろうけど。
強い光を放つ魔法の眩しさに、室内の人間は手で顔を覆い目を閉じた。
大きめの門が開かれ、今か今かと待ち構えていた民衆は御言葉の姿を一目見ようと身を乗り出す。
見張りの兵がそれを必死に抑え、怒声を上げて制していた。
しかし、門からはみ出しているのは、キョロキョロと辺りを見回す門兵の姿だ。
薄紫髪のエルフ、青い瞳の少女、光を操る少年、
誰もその姿を見た者はいなかった。
■■◇■■
「陛下、御言葉が現れたようですな」
口ひげを蓄えたズールィが窓の外を眺めながら告げる。
日光を反射した彼の眼鏡が白々しく光った。
「……なんだ、珍しくしたり顔だな」
今日何杯飲んだか分からない酒を煽り、ウェイロンはズールィへ吐き出すように言う。
沈み込んだソファに座ったまま長い足を組み、無造作に机の上へ空のグラスを置く。
「全ては数字の上の出来事ですからな。その酒の量では、あまり長生きはできますまい」
ズールィは悪びれる様子もなく窓から目を背け、自分の君主に諫言を申し出る。
「それも数字で分かるというのか? そちが不敬罪で首を落とされるのとどっちが早い?」
笑いながらウェイロンは告げた。
空いた酒瓶の列が彼の酒豪を物語っている。
ズールィは鼻を鳴らすと、眼鏡越しに視線をウェイロンに向けた。
「私と陛下のどちらが先に命を落とすか……という質問なら、答えは同時ですかな」
ズールィの表情は、言葉遊びと深刻さを両脇に抱えているようだった。
「それはどういう意味だ……?」
訝しむウェイロンが動きを止めて老人を見る。
彼がそんな冗談を好まないことは知っていた。
あくまで酒の量を窘められただけで、博識な寿命の解説を求めたわけではない。
ズールィは目を細めて告げる。
「以前から申し上げている通り、国難の話でございます。陛下は、私の戯言に耳を傾けますかな?」
大衆然とした言い方にウェイロンは目を細めた。
「面白い。朕とそちが同時に滅ぶなど……どのような荒事が起こるのか申してみよ」
ウェイロンがコルクを開け放ち再びグラスへ注ぎ入れる。
こんな話が使用人の前でできるはずがなかった。
人払いした部屋の中でズールィは懐から羊皮紙をだし、魔法をかけてペンを走らせる。インクが紙の上を滑り地図のようなものを描く。そして地名が付け加えられ、彼は言った。
「教王国の地下で大きな魔力の変動がありました。なんらかの魔法を誰かが唱え続けている反応ですな」
印の付いた箇所をウェイロンは顎を手に当てて思案する。教王国の南、そこは流罪地区を指し示す。
「……面妖なことを。それがどうかしたのか」
ウェイロンの疑問に応えるかのように、つかつかと歩き始めたズールィの錆びた瞳が揺れる。
「……陛下、これは決まっていることかもしれませぬ」
覚悟の表れだとでもいうように、彼のレンズの奥に暗く、そして激しい光を見た。
「何が言いたいのだ」
閑散とした神殿内に木霊する鐘の音。
ざわつく胸中にへばりつく粘りの強い不快な感情。
教王国を幾度となく守ってきた宰相が、国の崩壊を察知しそれを食い止められないと嘆く。
『大きな魔力の変動』、彼は確かにそう言った。
「……魔力による災害か?」
酒を持つ手を止めたウェイロンは表情を硬くした。
老人は小さく頷くと告げる。
「左様です。魔力災害の前兆が地下で発生しております。……このままですと、近く大地震が引き起こされるでしょう」
息を呑んだウェイロンがズールィを見た。
偽りはない、否、嘘などつけようか、朕の前で。
「被害はどのくらいになる」
「魔力災害の影響は計り知れない……というのが前提で、少なくとも国土の半分は地盤に埋もれますかな」
地下で暴走した魔力がどう作用するか、そんなものが予測できるはずがない。だが過去起きた被災の痕を見れば、大方この国の末路も分かるというものだ。
「陛下……」
ズールィが俯いたウェイロンに声をかける。
ただの司教だった私をその叡眼で見定め、大司教の地位までお与えくださった教皇。
今日まで国のために奉仕できたのはこの方あってのことだ。滅びゆくまでお仕えする、そう伝えにきたはずだった。
ズールィは彼が震えていることに気付く。気落ちしているような素振りの肩に目を留める。
国が滅ぶかもしれないなどと、とんだ無礼な戯言だ。極刑になってもおかしくはない。
だがそれ以上にズールィの感情を揺さぶったのは、ウェイロンの抑えきれない笑い声だった。
堰き止めた水が出るが如く漏れる笑気。
ズールィは耳を疑った。
「ズールィよ。朕が笑うことを許してくれ。滑稽だからではない。疑いもしない。ただ、嬉しいのだよ」
鐘の音は消え、窓からの陽光が少し移動していた。
上等な酒瓶の並ぶ机、そこに肘を置くウェイロン。
これは覚悟ではない。計画の推移だ。
ズールィは兼ねてからの信頼を取り壊すことを危惧していた。
しかし、見開いた目でウェイロンを凝視し告げる。
「陛下……まさか承知の上で―――」
「―――さすがに頭が冴えておるな、ズールィ。そちも祖龍神も救えぬというのなら、朕が救って見せようぞ」
ズールィはずしりと思い石を飲み込んだような感覚に陥る。
喉が緊張し声が出ない。目の前の王が歪んで見えた。
教皇が口を開く。
「――――元凶は、地下深くにあるのであろう?」