第28節 奇跡の光
「みんな! 大変だ! 御言葉様がきたぞ!」
扉を勢いよく開け放ち出ていった少年は、大きな叫び声を上げた。
「待ちな! イーファン!」
教区長の声も聞かずに去った彼は、もうその姿が見えないところまで行ってしまった。
肺いっぱいの溜め息を吐き出した彼女は、掠れるような声で告げる。
「すまないねぇ、わんぱく坊主で」
僕はドンユに自身が御言葉であることを告げた。そして少年はそれを鵜呑みにしてしまったのだ。
今までそのことをひた隠しにしてきたのは、目立つことが嫌いなのもそうだったが、本当は違う。
ドンユは頬杖を突きながら訪ねてくる。
「……それで、その話は本当なのかい?」
年を取った人間の瞳というのは、どうしてこんなにも生気を感じさせないのだろうか。まるで自分じゃない何かを見ているような。無自覚な恐ろしさが漂う。
僕は咳ばらいをしつつ返事をする。
「本当です。そうじゃなければこんなところまで、僕のような年の子どもが来たりするはずありません」
しかし、信じられるはずもないだろう。御言葉が存在したのはもう何十年も前のことだ。魔王復活の兆しありと言われていても、どこか日常に逃げたがるのが世の常である。
しかも年端のいかない子どもと魔族の二人組。誰がそんな話に信頼を寄せるものか。
「確認のしようがないわよね。私たちだって、実力が分からなければ信用できなかった」
カグヤも同調するかのように言う。
尖った耳に今更ながらドンユが気付いた。
「あんたら、"エルフの耳"かえ?」
驚きつつも表情を崩さない彼女は、平然とカグヤたちの素性を納得してしまった。
「この子らが御言葉だって、あんたらはどうしてそう思ったんだい」
アルディア地方ではあまり活動していないと言っていたが、なるほどこちらではある程度名は通っているらしい。
小さな背筋をうんと伸ばし、胸を張ったカグヤは堂々と告げた。
「そんなの決まってるじゃない、私の勘よ!」
再び心配そうな顔になるカノン。姉だけでも大変なのに、ルリも増えるとなると気の毒だ。
カグヤは説得力を持つ鋭い感性を持っているが、それを他人と共有しようとする気はないらしい。
単に説明が面倒だと思っているのかもしれないが、そこを省かれるとただの酩酊の戯言と一緒だ。
だがそんな言葉にもドンユは笑って返してしまう。
「エルフの勘かね! そりゃあまた大見栄を切ったねぇ! アトレアとフリートがここに通すわけさね」
どうやら彼女が信頼を置いているのは谷の底の二人らしい。聖騎士章はアトレアなりの計らいだったのかもしれない。
僕はふと窓からの視線を感じた。
イーファンの呼び声に誘われたのだろう。教会周辺にいくつもの息遣いが聞こえてくる。貧窟教区に住まう民が、物見遊山に群がってきていた。
噂の真偽を確かめるために、己の眼を大きく広げる。彼らは希求しているのだろうか、御言葉の再来を。
ドンユは舌なめずりするように息を吸うと、先ほどの剣幕を取り戻しながら言い放った。
「ここを出て魔王領に進むなら御言葉を示しな! じゃないとすぐに不法入国者の烙印を押し付けちまうよ!」
暗く、濁った瞳の奥で僕の姿がぼんやりと映し出される。老齢の気迫が全身を包み込んで締め上げられてるみたいだ。
どうせ、ドンユを力づくで押さえ付けたところで、この国にはいられなくなるのだろう。他のみんなだって、それを望んでいるはずがなかった。
ローブの下の拳に力を込める。
選択肢は二つに一つしかないのだ。横暴を振りかざさなかっただけでもマシだと思おう。
黙ったまま僕が教会の外に出るのを、他の三人は見守る。御言葉だという証明が難しいと言ったのは本心だ。
だけどどうしても示さなければいけない時には、僕はこのとくいな魔法を見せびらかさなければならない。
呪文を唱えると、身体中の魔力が寄せ集まった。一粒一粒が色を変え眩く浮かぶ。光り輝く魔法の残滓が散りばめられ、宝石箱の中みたいに無数の煌めきが教区を飲み込んだ。
サンクチュールと違ってここには救いがない。だったら、僕が代わりにそれになるしかないじゃないか。
御言葉がこの国を明るく照らせるのなら証明してみせよう。
僕は燦然と瞬く星空のように影を払い、飢えと病気に苦しむ彼らを照らし尽くした。
光の奇跡は、それだけで人々の心を魅了する。
■■◇■■
また一人、沈んでいく。もがく姿が見られなくなるだけいいのかもしれない。
信者たちの皮膚は朱に染まり硬くひび割れる。病気の一つだと疑っていたのはもう随分昔のことだ。
遺体の身体を清めると、体の一部が黒ずんでいた。最初は火傷の痕かと思って気にしていなかった。
しかし似たような模様に私が既視感を覚えた時、それが一種の刻印なのだと気が付いた。
一度視えてしまえば全ての線が繋がっていく。
徹底的に私の心を追い込んでいくつもりなのだろう。
「こんな……ひどいことを……」
アトレアの無機質な瞳が憂いを帯びる。
これが祖龍教国の死罪よりも重い流刑なのだ。
木材を運んでくれた、木組みを作り社を建ててくれた。深い谷底でも生きる術を教えてくれた神徒たち。
罪を背負った私をそれでも信じ続け、最後の最後までこれは聖戦なのだと戦い続けてくれた。
彼らが落ちぶれ、罪を被り、全てを失ったのは、あの日瞳と触れ合ってしまった私が原因だ。
貴族の慰みものとして一生を終えていれば、彼らは一人も苦しみを享受する必要なんてなかった。
そんな私が死にゆく者達の最期を看取らず何が聖女だ。自分勝手なみすぼらしい魂など、ここに埋めてしまえばいい。
忌々しい刻印はここに落ちた者全員に与えられている。これは、罪人を殺すための烙印だろうか。
私の身体にはこの刻印は見当たらなかった。恐らく、裁きの際に彼らは刻印されたのだろう。
薄笑いする教皇の思惑が見え隠れしているようだった。あの男が欲しいものは、もうこの世にありはしないというのに。いつまでたってもそれを理解しないまま、愚かな王だ。
人は所詮人でしかないというのに、その有り様は瞳に触れた私だからこそ理解できた。
あの男はその理解を拒んだのだ。いや、不可能という前提さえ頭にはなかったのだろう。
はっとアトレアは顔を上げた。
そばに立つ大柄な騎士がその様子を見て尋ねる。
「どうかしたのか?」
「……いえ、そんなはずは、ありません……」
狼狽したアトレアは自問自答を繰り返す。
フリートの質問さえ聞こえていないようだった。
呻き声がどこからか聞こえてくる。痛みに苦しむ咎人たちがそれに倣って声を出す。
見かねたフリートはサンクチュールに住まう人々から目を逸らす。痛ましい赤黒い皮膚と身体に刻まれた烙印。
魔法の力は万能だ。人を治すこともできれば、殺してしまうことだってできる。人の心に訴えかけることもできれば、残酷さで心を壊すこともできる。
祖龍神は何故このような力をお与えになったのだろうか。血液と同じように流れる、目に見えない魔力の存在。
魔法と同じ目に見えない信仰の形。信じることさえ、人の心を壊すとでもいうのか。
アトレアの後ろで銀の三日月を模した兜が光った。
フリートは物言わない彼女の背中を見つめる。
純真な彼女がこれ以上弱っていく様を見ていられない。二の足を踏む起死回生の期限は、日毎に迫りつつあった。
狂信に心を奪われた薄汚い者たちの栄華に、その足元に流れる清らかなる本流を蔑ろにした罪を。
降る星の如く誕生を果たした彼女こそが、祖龍神の寵愛を受けし御神体なのだ。
フリートは身長よりも長い斧槍を担ぎ上げると、神殿の中へと入っていく。
太い柱が数本打ち立てられ殺風景な広間。
ここから発せられる浄化の魔法は穢れを落とす。
長い獲物と硬質の盾を床に置き膝をつく。兜を外し素顔を曝すと、瞼を閉じて祈りを捧げる。
遥かな頂きに住まう竜の祖先に対してではなく、祖竜信仰を支える御旗なき救世の女神へ。
……待ち侘びている、古い竜の骸。
それが目を覚ます時、恩寵なき亡者は死に絶える。
祖龍の瞳を使えばいい。彼女はそれで罪を贖うことができるのだ。善良なる神の下僕たちが犠牲になることなど、彼女を足蹴にした報いでしかないのだから。
結界の力が増し、沼地の底が鮮明になる。
汚れたはずの水の底で、亡骸の山が積み重なった。
烙印の紋様が濃く塗りつぶされ、より深く、より強く、体の一部に溶け込んでいく。




