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満月への供花2

作者: 和久井志絆

 孤兎市の口調がどんどん自信なさげになっていく。同時に「晃さんと僕たち」という言い方もなにか引っかかった。

「もうすぐで着く。もうなにも言えない」

 スカリーは降下を始めた。


「プウさん、僕は意味もなく戦うのは嫌いだ。昔からね。まずは理由を聞こう」

「ここまで辿り着いたってことは灼瑛や氷綱は破ったんだろ? 俺たちはもう風前の灯だ。もともと未来なんてない組織だよ。要するに力試しがしたかっただけだ。最初から。俺はな」

 万月は抜刀した。納得はしてないが、理解はできてる。ずっと前から。とっくに。

「俺はガキの頃から喧嘩が好きだった。特にタイマンは最高だ。修行して戦って修行して戦って、それを繰り返してるうちに強くなり過ぎちまった。相手がいなくなるくらいにな」

「悪い趣味だとは思わないけど、何事もやり過ぎはよくないね」

 万月は一歩退いたが、それは逃げではなくむしろ一撃を入れやすい距離を取ったということ。つまり臨戦態勢。

「なにもかもどうでもよくなっちまったんだよ。見渡す限り雑魚だらけの世界だぜ。俺からしたら気が狂いそうだったよ。そんな時だった。あいつに、晃に出会ったのは」

「戦うことだけが全てじゃないって、その前に教えてあげたかったね、あなたに」

「こいつは人間じゃねぇ。そう思うくらいの強さだった。魂が震えたよ。やっとどうでもよくねぇやつに出会えたってな」

「同感だよ。その力、正の方向に活かしてほしかった」

「なによりありがたかったのは、あいつに負けても不思議とプライドは傷つかなかったことさ。あいつを超えること。あいつは俺にたった一つの生き甲斐をくれた」

「たぶん十人中九人がくだらないって思うだろうね。僕は思わないけど」

 血風刃はほとんど万月の言葉を聞いていない。ただ自分の話を聞いてほしかっただけだ。

 誰ともわかり合えない痛みを持った五人が一人の強者の下にただ導かれるように集結した。それが六煉桜という組織の正体。

「なにが極悪暗殺組織だ! 俺たちからしたらこの世界全てが俗悪だ! ぶっ壊してやればいいんだよ! 裏から見ればこっちが表だ!」

「半分は同感だよ。ただ壊してしまう前に、自分たちの犯した罪の後始末はすべきだ。それで許されるのかどうかは、神様が決めることだ」

「俺たちが神だ」

「ふざけるな。みんな人間だよ。良いところもあれば悪いところもある、ちっぽけな生き物だよ」

 お喋りはここまでだった。先手を取ったのは血風刃のほうだ。

「まずは小手調べだ!」

 蹴撃。武闘剣士の戦術は両手両足と刀のほとんど五刀流。一撃で止まる攻撃などない。全ては連撃。波状攻撃。

「あいにくこちらはブランクがあってね。体力が尽きる前に終わらせてもらうよ」

 ブン!

 ブン!

 ブン!

 ブン!

 ブン!

「小賢しい!」

 血風刃の連撃を万月は全て紙一重でかわす。かわしながら狙ってる。血風刃の急所。長引かせるつもりも苦しめるつもりもない。

「(そこ!)」

 ブシュー!

「ガッ!」

 下から払い上げる剣閃。血風刃の左胸から右肩口を抉ったが、浅い。

「面白ぇ! とことん楽しませてもらうぜ!」

 拳打。今度は小手調べじゃない。万月のみぞおちに三発叩き込んだ。

「グブッ!」

 万月の視界が揺れた。重い。ダメだ。考えるな。

「まだまだ行くぞ!」

「笑うなよ。真剣勝負だろ!」

 熱くなってきていた。これは武術の試合じゃない。楽しんでちゃいけないはずなのに。

 バッ!

 万月は後方に五メートルほど跳んだ。一旦、退避。

「一ラウンドで終わらせるつもりだったのに。やっぱり強いよ。プウさんは」

「強くなることだけが俺の全てだ。恐慌が終わってからも、俺は来る日も来る日も修行を続けた。雨の日も風の日も」

「晃に勝つために?」

「いや、それは諦めた」

 いつの間にか外が騒がしくなっていた。それなのに龍獄怨最上階はその一言で一瞬にして静まった。

「諦めた?」

「あいつは、強過ぎる。異常だ。この世のものじゃねぇ」

 血風刃は続けた。「そんなことよりもよ」と。

「外の様子が変だと思わねぇか? 妖怪たちが騒ぎ出してる」

「君たちの仲間がまた一人、死ぬ。影援魔導師だろう。だから、なんて言ったかな」

「孤兎市のことか? あいつの力も……」

「というより、任務を忘れてるようだよ。明後日の方向に行ってるもん」

「屍村のほうだな、あのガキ」

 血風刃は半分以上、血の混ざった唾を吐いた。

「ねぇ、プウさん。一旦、落ち着こうよ。刀をしまって。僕らも行こう。影浪って人のところへ。まだ、間に合うよ」

「この恐慌を収束させて影浪の野心を打ち砕いたところで、その先になにがある。平和なんて所詮、砂上の楼閣。また新しい争いが生まれる。その度に人は絶望し、神とやらはまた気休め程度の希望を与え、見せかけだけの解決を取りあえずは手に入れる。それを永遠に繰り返すだけさ。人間てのは。いや、ひょっとしたら他の動植物たちも、人間の常識では測れねぇ次元で、もっと醜い争いをしてるのかもしれないぜ」

 万月は目を伏せた。顔も下を向き床を見つめる。それどころか、頭をどんどん下げていく。ほとんど最敬礼に近い状態になった。驚いたのは血風刃のほうだった。

「お願いだから、そんな怖い顔をしないで」

 万月はついに両手をついた。そして、大粒の涙をこぼした。

「僕が、悪いことしたなら謝るから、怒らないで、笑って、みんな仲良くしようよ」

「ど、どうした? お前……」

 万月の中でなにかが音もなく切れた。血風刃は万月の言葉通り一旦、落ち着いた。だが、それは万月の意には反することだった。

「どういう心境なのか皆目見当もつかねぇが……試合は続けようぜ。俺は、もう今度こそ、全部どうでもいいんだよ。冥土の土産は伝説の剣士・万月からの勝ち星だ」

 頬を伝う涙を、万月は拭う必要はなかった。あっという間に乾いていたから。そして、果てしなく諦観仕切った眼差しで血風刃を睨む。

「もういい。もういいよ。それほどまで、戦うためだけに生まれて、勝つためだけに生きる人間には僕も容赦しない。勝ち星の代わりに引導と、安息を呉れてやる。死という安息を」

 第二ラウンドだ、と血風刃は心の中で呟いた。

 最終ラウンドだ、と万月は思っていた。


   8


灼瑛は立ち上がった。ほとんど意識はなかった。なぜだかもうわからなかった。ただ、このまま死にたくはなかった。

 自分はなんのために生まれてきたのか。

 父親を自らの手で殺めてから、灼瑛はただひたすらハイエナのように生きた。生きるために生きる。

 必要なものは食べ物と睡眠だけ。生きがいは、ない。

「腐った肉でもよく洗って焼けば食えるのか?」

「誰だ、オメエは。ここらじゃあ俺に話しかけるのは自殺志願者だけだぜ」

 その日も死肉を食らっていた灼瑛だったが精いっぱい強がった。これはライオンの肉だと説明した。

 小さな森の中で自分なりに修行した。野生の動物たちと戦うならまず必要なのは火。ただそれだけで灼瑛はあまりにも無知だった。

「火遁の術!」とかっこつけて言ったが、あっさり避けられて一撃で倒されたことは後になっても黒歴史として二人だけの秘密だった。

「大した男じゃなさそうだな。つまらん」

「てめえ、何者だ」

「ふん、いい目をしている。憎しみに満ちている」

「なにが言いてえんだ」

 ついて来いよ、俺が面白いことを教えてやる。そう言った男に、言われた通りについて行かなければ灼瑛の人生はそこで終わっていた。すでに近寄ってきた動物たちに食べられていたことは確実だからだ。

 晃との出会いだった。

 もうどうとでもなれと思っていた命。六煉桜という組織での課業は、本当に楽しかった。

それだけは本当だった。

 上を目指していると思っていたのに、自分はどうやら下に降りていて、自分の聖地である龍獄怨からも抜け出していて、それこそ本当に夢遊病者のようにいつまでもいつまでも徘徊し続けた。

 炎を司る孤狼、赤の桜・灼瑛がその後、どうなったのかは誰も知らない。


 誰もが言葉を失っていた。舞雪の目に大粒の涙が浮かんでいたのは悲しみや絶望からではないだろう。ただ、肉体的な痛みからだ。それで心の痛みは一時でも忘れられる。人間って不思議な生き物だ。

「いつまでも消えない傷と憎しみを抱えて生きていくくらいなら、もう楽になりな」

「晃様、それがあなたの望みですか?」

 それはドラマのワンシーンのように悲しくも美しい光景だった。それこそ、舞雪が人気女優だったころに見たような。

「最初からこうしてくれていれば、私はこんなに醜い女にならなくてすんだ」

「すまなかった」

 晃はそっと舞雪の涙を拭った。そして極悪組織の首領とはとても思えない穏やかな表情で最期の口づけを交わした。

「ずっと、戻りたかった。女優になんてなる前、仲良しの友達と、大好きな恋人が一人いれば、それだけで幸せだったころに」

 瀕死の重傷を負っている警察官たちでさえ、悲痛に顔を歪めた。これほどの悲劇を誰も今までに見たことがなかった。

 ガンッ!

 相楽が自分の眉間を殴った音だった。血が滴る。それでも同時に涙も零れるのは止められなかった。

「お金も、地位も、名誉も、名声も、なにもいりません。もし生まれ変わるなら、今度こそ、本当に平和な世界で、本当の愛を下さい……」

「……輪廻の環を何周してでも、もう一度、俺に会いに来い。今度こそ、俺が必ず……」

 もうお互いに想いは言葉にならなかった。

 薄幸の名花、影援魔導士の舞雪の瞳は閉ざされ、もう二度と開くことはなかった。


 同じころ、凍えるような寒さの中で、でもその男にとっては天国のような冷気の中で、もう一つ微かな命の灯りが消えた。

 心優しき狙撃手、青の桜・氷綱の脳裏に最期に浮かんだ言葉はー

 これでまた大好きだった二人に会える。


 第五章 夢


   1


 乱はただひたすらに精神を集中させて傷の治癒を急いでいた。

「もう少し、まだ戦える。諦めてたまるかい」

 呼吸は落ち着いていた。出血も止まっている。

 龍獄怨の窓からはすっかり暗くなった空が見える。不気味な妖気もそこら中から感じられる。

 今、世界は終息に向かおうとしている。

「クソっ! なんとかならんのかい。いや、なんとかしてやるわ!」

 乱は立ち上がった。

 上か下か。上なら万月が確実に誰かとは戦っている。下へ行くなら自分のすべきことは影狼のもとへ向かってなんとか野望を阻止すること。

「下だな」

 乱は万月を信じて、自分は守りの力に加担することを選んだ。


「着地の瞬間がかなり揺れるから。気をつけて」

 孤兎市はスカリーの手綱を強く握りしめてつぶやく。その言葉通り、真も夏芽も用心はしていたが、結局、転げ落ちることになった。滑空タイプの翼竜はゆっくり降下するということが難しい。

 そして、次の瞬間にはもう不可解なことが起きた。スカリーの様子がおかしい。

「どうしたの?」

 フラフラと前身と後退を繰り返したあとで、スカリーは突然に飛び立ってしまった。

「待って!」

 孤兎市は慌てて追いかける。あとの二人もとりあえず走った。

 草木もほとんど生えていない荒れ放題の大地。それなのに視界は開けているとは言えない。

 どれくらい走っていたのか。やがて三人はゾッとするほどに禍々しい気配に気づく。そう遠くない前方、その男は切り株に腰掛けた状態で待ち構えていた。

「遅ぇよ、孤兎市。本っ当にてめぇみたいな雑魚をなんだって晃は……」

「影狼君、もうやめてよ」

 スカリーが影狼のすぐ隣に仁王立ちしている。そして、怖い目で睨んでいる。

「てめぇくらいの操術ならこの通り俺にだって使えるんだよ。いや、てめぇ以上のか。妖魔使い? 笑わせるなよ」

 自分が長い時間をかけて手懐けてきたスカリーを、あっさり操ってしまった。孤兎市は俯いて、そして自嘲の笑みを漏らすしかなかった。

「動物と仲良くなるのは、僕の誰にも負けない唯一の特技だと思ってたのにな」

 ガックリと肩を落とす孤兎市を完全に見下した目で見つめながら影狼はゆっくりと立ち上がる。

「それは間違いねぇさ。ただ、俺はこんなトカゲをデカくしただけの化物、仲良くならなくても操れる。どんな動物だって、一番美味い餌は他人の不幸ってな」

「あんたの負の感情で操ったっての?」

 先に前に進み出たのは夏芽だった。

「誰だ、てめぇ」

「夏芽。名前だけ言ったって仕方ないでしょ。あんたを止めにきた人間よ」

「めんどくせぇって判断した瞬間に殺す。口の利き方には気をつけろ」

 夏芽はあらためて真の考えが甘過ぎることを確信した。でも、戦って勝つ望みのほうが低いということも感じ取った。

 強いーとかそういう問題ではない気がする。本当に恐ろしいのはこの男、いざとなったら大げさじゃなく、この星を丸ごと爆破しかねない。

「つまらなさそうな観客だが、まぁ、いいだろう。終焉の儀式を始めようか」

 月が雲に隠れた。

「夏芽さんだけでも、逃げて。1秒でも長く生きたいなら。……いろんな意味で、ごめんね」

「真君……」

 影狼は三人に背中を向けた。そして、両手を広げると辺りから一斉に妖怪たちが飛び出してきた。身を潜める場所などなかったはずなのに。

「2時間、じゃあ無理だな。3時間もあれば全て終わる」

 影狼が微かに聞き取れる声で呟く。逆に何も言わずにどこかへ駆け出したのは孤兎市だった。

「?」

「ほっとこう。それより、聞いて。僕が出来る限りあいつを食い止めるから、夏芽さんも急いで近くの街のほうに逃げて」

「街に? というか、はっきり言う。食い止めるなんて無理だよ。3秒で殺される」

「いいから逃げて! それで葎花に伝えて! ここじゃ、スマホも使えないから! もう葎花の、月虹石の力に懸けるしかない!」

「月虹石? 真君、君は……あっ」

 夏芽は真に抱き寄せられていた。そして唇を奪われていた。不思議と、驚きは少なかった。ドキッとしたけど、この有事に何が起きたのか、冷静に分析はできていた。

「ずっと憧れてました。ずっと葎花の傍にいたから。お互いに」

 ファーストキスのシチュエーションは最悪だった。でも、もう思い出にすることすらできないかもしれないから。

「おませさん、私だって初めては15の夏だったのに」

「どうか、死なないで。約束して。絶対に希望は捨てないって」

 夏芽はニッと笑って指でOKマークを作ると駆け出した。一縷の望みを心に抱いて。

「てめぇら何をやってんだ。ひさしぶりに笑っちまったじゃねぇか。バカバカし過ぎて」

「それにしちゃあ、待っててくれたじゃん」

 風が強くなってきていた。四方は既に妖怪で囲まれている。もしかしたら夏芽ももうあっさり殺されてるかもしれない。真は嫌な想像を必死で振り払った。

 距離を開けておくのは却って危険だ。そう、目指すのは……相打ち。自分の命を懸けてでも、この男も道連れ。

「それで、あの世でバイバイだ。僕は天国に行く。あんたは地獄に堕ちな。今よりはマシかもよ」

「ガキが、図に乗るなよ」

 神様、あんたみたいなのがいるから、この世界に宗教が生まれて、いろんな歯車が狂っちまったんじゃないのかい?

 でも、もう少しロマンチックな意味での「神様」は好きなんだよ。どっかのバカな恋する乙女の剣術少女の影響でね。

 どうか、願いを叶えて。


   2


 バカな恋する乙女の剣術少女は引き返していた。

 足りない頭を必死で振り絞った末の結論、上を目指したところで万月の足手まといになるだけ。それなら自分も一旦は警察たち、大人たちに頼って、知恵を借り指示を仰いだほうがいい。

 左胸に手を当てた。少し気にしてるまだAカップの貧乳は今はどうでもいい。

 月虹石ーその力が本物なら今こそ自分に降り注げ。

 氷綱にやられた傷は決して浅くない。疲労だって溜まっていた。でも、頭の中は自分のことよりも人のことでいっぱいだった。

「みんな、無事かな」

 今にも足がもつれて転びそうになるのを堪えながら、階段を駆け下りる。

 間に合う。もう限界寸前だけど、まだ間に合うはず。


 決着は、刹那の見切り。

 ばたり。

 倒れたのは血風刃のほうだった。

「殺すつもりは最初からなかった。お願いだから、平和のために力を貸してほしい」

「負けは素直に認める主義でな。いいぜ、敗因は勝ちたいって気持ちで負けたこと。晃には悪いが、手を貸す」

「晃サンも、きっとわかってくれる」

 峰打ちとはいえ、人体急所をついた。簡単には立ち上がれないと思っていたが、黒の桜はやはり只者ではなかった。5分とかからずに立ち上がった。

「ゴキブリ……」

「一度だけだが、負けたことはあるからな。おかげでもう一回りだけでも強くなれた」

 グズグズしてる時間はない。万月は血風刃の肩を取った。

「何をするつもりだ?」

「エレベーターくらい作っとけばいいのに。ヨイショっと」

 万月はギリギリ立てただけの血風刃を抱えて、窓から飛び出した!

 ズザザ、バッ、ガガガガガガッ!

 着地!

「忍者か、お前……」

「さて、次はどうするか」

 万月の目にまず映ったのは呆気に取られる警察隊と、晃だった。

「役者が揃ったのはいいが、状況はわからん。説明しろよ、血風刃」

「意見がコロコロ変わって悪いが、やっぱりどうでもよくなくなった。この世界、まだまだ捨てられねぇ」

「説明になってねぇよ」

 晃はもはや戦力のうちに入らない警察隊のほうに視線を移して、それでも語り始めた。六煉桜、創始者の身の上話。始まりの悲壮譚。

「人間の運命ってもんが、どこまで予め定められているものなのか俺にはわからねぇ。だが、これまでの人生で俺は何一つ自分の意志で選んだことはない気がする」

 誰を見ながら語っているのかと言えば、強いて言えば自分だろうとわかっている時春は無意味かもとは思いながらも首肯した。

「俺はナチュラルボーンシナー(生まれ落ちての罪人)だ。もう一般論や常識は通用しない。お前らの既成概念の枠には到底、納まらない生き物なんだよ」

「そんな人間がいるものか……」

「だから、生き物だっつってんだろ。人間じゃねぇんだよ」

 もういい、と手で合図して血風刃は万月の肩を解いた。

「時春、晃はそもそもこの星の生まれじゃないんだ」

「なっ……」

 その場にいた誰もが息を飲んだ。晃はただ視線を虚空に向けるだけだったが。

「地球から遥か遠く離れた場所から避難してきた宇宙人だ。地球人は発見してもいない祖国である星はとっくに爆発して宇宙の藻屑と化してる」

「嘘だよな?」

「本当だよ。俺も、俺たちも最初に聞いた時は驚いたし、信じられなかった。だが、同時に納得できた。何もかも全て、理解できる範疇を超えていて当然だったって」

 社会的な生き物と言われる人間にとって、一番の苦しみは「孤独」だと考える人は多い。それも味方、仲間、友達がいないとかじゃなくて、誰ともわかり合えないという意味での「孤独」だ。

「俺たちには一度も笑った顔を見せなかったし、いつも一番近くにいた舞雪にすら、涙ってもんを一度も見せられなかった」

「それくらいにしとけ、血風刃」

 晃は、まばたきを一度もしていなかった。そんな小さなことに気づける者などいない。だが、自分たちと身体の作りからして根本的に違うということに気づけるサインはずっと昔から他にもたくさん出していた。

「万月、どうやら血風刃は打ち破ったようだな。一位に大差を付けられてるとはいえ、地球上で二番目に強い男を破ったことは褒めてやるよ。で、次の一手はどう進めるつもりだ?」

「僕の行動理念は昔から変わらない。やり方は間違えてばかりだけど。でも、今はすべきことがわかりやすくていい。影狼を止めよう」

 やるべきことは全てやった。言いたいこともほとんど言えた。あとは晃が首を縦に振ってくれなければ、もう勝機は何も見えない終盤戦、負ければ今度こそ人類は終わる。

「もう忘れちまった自分の星の言語ではよく使ってた言葉がある気がするってずっとモヤモヤしてたんだけど、それが地球の言葉ではなんなのかってわかった気がする。たぶん……ありがとうだ」

「晃サン……」

「勘違いするなよ。ちょっと思い出しただけさ。すごく仲の良かったダチのこと。半端な絆じゃねぇ。死線も信念も共有した本当の仲間さ。いつかお前もそうなってくれよ、万月」

 こんな気持ちの時に地球人はどうするのか知らない自分の頬にも涙は伝うということを、晃は初めて知った。


   3


 トンッ。

 一瞬で背後に回られ、首を一つ叩かれただけで真は倒れた。

「食い止める? 時間稼ぎもできなかったな」

 今にも美味そうな人肉を召し上がりたそうな妖怪たちには「待て」の指示をする。

「でも、お前、嫌いじゃないよ」

 影狼は両手を腰に当てて天を仰いだ。

「若葉、もうすぐで全て終わる。そしたら、お兄ちゃんもそっちに行くよ」

「若葉って誰?」

 影狼はバッと振り返った。気配には人一倍、鋭いはずだった。少しだけ油断していた。

「孤兎市か。急にいなくなったと思ったら、どこに行ってやがった」

「スカリーにこれをあげて。どうしても偏食が治らないんだ。それでいて3時間に1回は食べないと気を悪くするから世話が焼けるよ」

 孤兎市が右手で差し出したのは小さな木の実だった。別に特に名前もないだろう、普通の木の実だ。

「肉や野菜もちゃんと食べないとダメなんだけど、雑穀類しか食べないんだ。でも、この辺りは本当にこんなちっちゃな木の実もなかなか見つからなくて」

「こんなもんで足りるのか?」

「まさか。ただ、胃はともかく美味しいもの食べないと本当にすぐ拗ねちゃうんだ。そういうところも可愛いんだけど」

「本物の馬鹿か、お前は。こんな時にそんな泥だらけになってまで」

 影狼は木の実を受け取りはしなかった。自分でやればいいだろと顎でしゃくった。

 うん、と子供のように言うと、もうすっかり自分のことなど忘れてしまっているだろうスカリーに木の実を差し出す。

 数秒間、見つめ合っているように弧兎市はたしかに感じていた。食べた。「右手ごと」!

「グアーーーッ!」

 大量の血が飛び散る。弧兎市はその場に倒れ込んでしまう。

 スカリーは木の実入りの人肉を美味そうに咀嚼していた。

「やれやれ」と影狼は当てつけのように口に出した。

 ガッ!

「影、狼……」

 頭を踏まれた。弧兎市の脳裏にこれまでの人生が浮かぶ。

 これくらいの暴力には慣れてる。

「俺にも少しは人間らしい心が残ってるかと一瞬だけ思ったが、どうやら動物ってのはもっと残酷だ」

 そんなことない。スカリーはお前の悪意に毒されて。

 頭を蹴られた。人間の身体はどう連結しているのか。口からも血が出た。

「ちょうどいい死の儀式になった。この先、俺に一切の甘さはない。覚悟はいいな、人間どもめ」

 意識が遠のく。

 どうして僕はこうなんだろう。

 僕が何か悪いことをしたんだろうか。

 どうしてみんな僕をいじめるんだろう。

「…………」

「ん、なんつった?」

 孤独な兎を名に抱く黄の桜・孤兎市の最期の言葉を、影狼は本当は聞き取れていたが、無視してその場を離れた。あまりにも不憫な人間を、その亡骸を見ていたら、また面倒な感情が生まれそうだったから。

「俺も、同感だよ」

 天国は人間のいない世界だといいな。


   4


「だー、もう! なんで閉まってんの! 誰かいませんかー! 開けてー!」

 なんとも言えない空気になっていた修羅場が妙に和む。

「役者、もう一人いましたね」

 もう戦線は離脱するしかないと諦めていた波町が相楽に目をやりながら微かに笑う。

「そうだな、お姫様が一人残ってた」

「開けてやれ」

「俺がかよ」

 晃にクイッと親指を向けられ、血風刃が門扉に手をかける。

「あ、ども。誰?」

「名乗る意味もねぇよ。俺もどうでもいいしな」

 葎花は久しぶりに龍獄怨の外に出れてひとまずホッとした。そしてぐるりを見回す。

 惨状、そんな言葉が浮かぶ。

「大丈夫ですか? 皆さん、すごい怪我されて……」

 息も絶え絶え、瀕死の状態で倒れている警官がゴロゴロいる。その中で、葎花は一つの亡骸にどうしても目を奪われてしまった。

「舞雪さん……」

「そうか、面識はあったんだな」

 葎花は晃にも一応、意識は向けたがすぐに戻した。状況は掴めないが、とりあえず幕間であることは察せた。

「本当に綺麗な人。死んじゃったんだ」

 舞雪の側に膝をついて、すっかり冷たくなった右手首を握る。

 安らかな死に顔だった。眠っているような。夢を見ているとしたら、きっと醒めないでほしいくらい優しい夢を見てる。

「葎花、泣くな」

「泣いてないよ」

「泣いてるよ。強がるな」

 相楽に髪をガシガシされる。もう服も髪もだいぶズタボロだった。

「ところで、僕は忘れてませんよ。時春さん、役者はもう一人います」

「あいつはそう簡単にくたばるようなやつじゃない。相楽、俺たちは先に行こう。晃、お前はどう思ー」

 時春は思わず仰け反った。晃が恐ろしく冷たい目をして愛刀の切っ先を向けてきたから。

「勘違いするなと言ったろ? そう簡単に仲間になったと思うな」

「わかったから、物騒なもんを向けるな」

 晃は苛立ちを当てつけるように刀を「キンッ」っと大きな音を立てて鞘に収めた。

「時春さん、指示をお願いします」

「波町、お前たちの役目はもう終わりだ。もう動くこともできないだろう。クソっ、舞雪のやつに一番戦力を削がれたな」

 時春、相楽、葎花、万月、晃、血風刃、それからまだ生きてるかもわからない乱。それが残された戦力だ。

「六煉桜の頭として、俺の考えを言っていいか?」

「許可を求めるなよ。たしかに絡みづらいやつだ」

 晃はポーカーフェイスを全く崩さずに淡々と語る。

「影狼とは短い付き合いじゃない。思考はある程度読める。もちろん向こうもこちらの動きは読んでくるだろうが。あいつの狙いは、日本だ」

「日本?」

「深い意味はないだろう。ただ俺が不時着した国だよ。桜の咲く国だった」

「東洋の魔都……」

「そう言われてた時期もあったな。今じゃすっかり弱り切った国だよ。陰険で窮屈ではあるが、それなりに平和な世界だ」

「ちょっと待て。だったらあいつはなんで今まで屍村なんかでチンタラしてたんだ」

「郷愁にでも浸ってたんだろ。俺があいつの立場でもそうする」

 時春は心底、複雑な気分になった。

 本当に不思議な生き物だと感じる。やっていいことといけないことの区別は法が定めているはずなのに。なぜ、善と悪はこれほどに曖昧なのかと。

「それが人間てもんさ」

「? 心まで読めるのか、お前は」

「読心じゃないさ。洞察力だよ」

 お互いに「フッ」と笑った。

「行こうぜ。影狼をぶっ殺せばいい。簡単ではねぇが、わかりやすくていい」

「最初っからそうすりゃよかったんだよ。無駄な殺し合いさせやがって」

「俺はな、悪いことをするのが好きなんだよ」

「それでも、私は舞雪さんがあなたを愛した気持ち、わかる気がします」

 晃は振り返り声の主を確かめた。ただの小娘ではないことはわかる。そうでなければこんなところにいるはずがないからだ。

「善人の面を被った小悪党なんかよりよっぽどいい。あなたがどんなに極悪人でも、私にはあなたが性格の悪い人には見えない」

 ポンっ。

 頭を軽く叩かれて、葎花は堰が切れたように更に大きく泣き出してしまった。

「せっかくみんな闘志が湧き上がってるのに、しんみりさせちゃいけないよ、葎花さん。月虹石の後継者として、あなたの優しさは足枷にしかならない」

「万月さん、私は……」

 大人たち、それももうこの場には百戦錬磨の男しかいない。この少女をこれ以上、戦陣に立たせ続けられるか。

「誰も無理強いはしない。かと言って、もうじっくり考える時間はない。今すぐ決めて下さい。ついてこれるかい?」

「行きます。後悔することになってもいい。無事に生き延びたら、あなたと同じ、人生を懸けて償います」

 小さな声でも、強い意志を込めて葎花は即答した。

「よし、ワープするぞ。全員、手を繋ぐでもなんでもいい。とにかくくっつけ」

「「「「「「は?」」」」」」

 何人分のハモリになったかわからない。一斉に晃のほうを見た。

「そういうことまでできちゃうやつなのか? お前は」

 時春は流石に笑うしかなかった。

「あいつもド派手にやるのが好きなやつだ。狙いは日本の、それも最重要都市・東京。行くぞ」


   5


 どこもかしこも、気味の悪い妖怪がうろうろしてるけど、夏芽は出来る限り見ないふりして走っていた。たびたびスマートフォンをチェックする。だが、諦めるしかなかった。

 もうこんな文明の利器は使えない。それくらい、この世界はもう悪の力に浸食されている。

「ごめんね、真君。お姉さんももう、どうしたらいいかわかんないや」

 徐々に走るスピードが落ちていき、ランニングペースがジョギングペースに、ウォーキングペースに、ついにはただの散歩ペースになってしまった。

 それすらもできなくなり、ついには膝をつき、両手をついてしまった。

「ごめんね、葎花。最後にもう一度会いたかった」

 大粒の涙が、汚れ切った地面を濡らす。それら全てを包み込むように真っ黒い影が降りてきた。バザバサと羽ばたく雄大な音と共に。

「なんや知らん、こんなところに人間の気配がすると思ったら。なにしとんや、お嬢ちゃん」

 とりあえず視界に飛び込んできたのは巨大な翼竜だが、意識が向いたのはその背中に跨がった男のほうだった。

「あんた、誰?」

 悪人ではない、と判断していいかもギリギリのラインだ。そもそも、悪人ってなんだっけ?

「乱っていう名前以外に何を教えればええんかわからんわ」

「もしかして、警察の人? か、なにか?」

「んー、せやな。とりあえず今は正義側やな」

 夏芽は今すべきことを一つずつするしかなかった。まずは立つこと。

「ここから先で男の子が一人で敵と戦ってるの。助けに行ってあげて下さい。あの子が死んじゃったら……」

 葎花になんて言えばいいの……。

 乱は顎に手をやって考える。ちなみにここまで飛んできた翼竜はその辺で呑気に葉っぱを食べていた比較的おとなしそうなやつだ。人間も動物もお気楽バカは調教が楽でいい。

「影狼ってやつやろ。殺気しか感じないわ。でも、どうやら戦っとるいうより移動しとるようやで」

「どこに? 真君は? 生きてるの?」

「どんな少年か知らんけど、そんなちっぽけな気はわからんわ。そこら中、妖気だらけなんやで」

「親友の! 葎花って子の弟なんです! 警察の人なら、わかるでしょう?」

 葎花の名前に乱はすぐに反応した。月虹石の後継者。

「すまんけど、その葎花って子と約束したんや。心を鬼にするって。子供一人の命より今は優先順位つけて動くで。お嬢ちゃんも正義の味方なら一緒に行こうや」

「どこに?」

 同じ質問二回目。だが、今度は本当に教えてほしい。

「知らんけど、追いかけることは簡単や。こんなバカでかい殺気、見失うわけあらへん」

「私が行ってもお役に立てないでしょう」

「ここにいても、いつ妖怪たちが襲ってくるかわからない恐怖に怯え続けるだけやで」

 結局、犬死に。

「わかりました。行きます」

「乗りなや」

 翼竜の側に立ったが、これはどうやって乗ればいいかと逡巡してしまう。はよ、せえやとでも言わんばかりに襟首を引っ掴まれた。

「きゃっ!」

「しっかり掴まっとき!」

 乱暴に座らされたのでスカートを少し整えたいと思ったが、致し方ない。誰も見てない。

「あのー」

「舌噛むで。黙っとき」

「一つだけ。真君の気は探せないって言ったのに、どうして私は?」

「見つけられたかって? 呼んどる気がしたんや。この汚れ切った世界で、ごっつう綺麗なもんが呼んどるって。スピリチュアルメッセージっちゅうんかな」

 治まったはずの涙がまた溢れ出す。いつかの記憶が甦る。

ー夏芽ちゃん! すごい! 綺麗だよ! お姫様みたい!ー

ーどこ見てんのよ。私より上手な人なんていっぱいいるわよー

ーそんなことないよ! 夏芽ちゃんが一番綺麗だよ! 夏芽ちゃん大好き!ー

ー今、好きとか関係ないでしょうが。あんたみたいなバカ素直な女と友達だと私のほうが恥ずかしいわー

 剣術をやっていてよかった。大切な宝物。

 私もあんたが大好きだよ。

 これからももっとたくさんの「大好き」に出会いたい。

 空も海も人も動物も植物たちも、もっとたくさんの「大好き」に包まれますように。

「なんや知らんけど、雲行きがマシになってきたで。なんとかなりそうな気がするわ」

「ありがとう」

「あ、礼を言うには早いで。まだ助かったなんて思ったらあかん」

「そうじゃなくて」

 最終局面が始まろうとしている。乱は小汚い頭をガシガシ掻きながら、即席で作った手綱を少し豪快に振ってみせた。


   6


「っ痛っ! あぁ、ここはどこ? 僕は誰?」

 真は目を覚ますと、どうやら自分は生きてることを知った。天国ではないと思ったからだ。自分が地獄に行くとも思わないし。

「もう僕にできることはないな。二度寝ってしたことなかったな。6時間睡眠がベストだって判断してからは一日も守らなかったことないから。あぁ、もっとバカに生まれたかった」

 孤兎市の亡骸は目に入っていたが、頭には入っていなかった。

 真はもう何も考えられなくなることを願った。

 寝る。


「これほどとは……」

 龍獄怨での死闘の間に、妖魔恐慌は空前絶後の展開を見せていた。

 痛ぇな、ガキ!邪魔なんだよ!

 どけ!俺が見つけたんだぞ!

 マジ、うざい!キモい!

 なんとかしろよ!警察!

 どうしよう!どうしよう!

「自分が生き延びることしか考えてねぇな、こいつら」

「無理もないでしょう」

「私、今は人間のほうが怖いって思ってます」

 もともと、世界では一日に十五万人以上が死んでいると言われる。今はその十倍以上のペースと思っていいだろう。

「万月、どう思う? 守りたいと思う世界か?」

「思いますよ。死が償いになるなら僕はとっくにそうしてる」

「悪人正機。そうだな、まだ間に合うよな」

 時春と万月は拳を突き合わせる。

「俺は人類が何人死のうと感傷はねぇ。影狼を殺すための機械になり切る。先に行かせてもらうぞ」

 返事を待たずに晃は、悪意の導くほうへ駆け出した。

「今さら一匹ずつ妖怪退治してたって焼け石に水だ。俺たちもーって!」

 ズバッ!

 サイズは人間と同程度。だが、ほんの数日までとは、格が違う!

「こいつ、かなり強いぞ!」

 頭部は蛙のように見える。胴体は人間と大差ない。脚は短い。で、腕が六本ある!

「おいおい、シャレになんねぇだろう!」

「いっぱいいますよ! どうします!?」

 時春と相楽は必死で応戦する。頭をフル回転させながら。

「万月! お前は影狼を探せ! こんなとこで足止め食らうわけにいかねぇぞ!」

「葎花! お前もついてけ!」

「う、うん! ていうかー」

「失礼、お嬢さん」

 葎花は気づいたらお姫様だっこ。ただ、胸がドキドキするのは恋する乙女のときめきと違うことに、なんとなく気づいていた。

 なにかに、共鳴してる。心臓の奥が……。

「プウさん」

「おう」

 強者同士の会話はそれで十分だった。二人プラス姫様は走り出し、あっという間に見えなくなった。

「マジでスーパーマンだな。あいつら」

「ワクワクしますね。なんとかしてくれそうな気がする」

 ザ・ポジティブシンキング、相楽。

「愛してるぞ、弥生。また葎花も真も連れて必ず帰るぞ!」


 足が、壊れたブリキの人形のように震えている。

 日本国現総理大臣、田中は必死で命乞いの言葉を考えていたが、思いつかない。唇がプールから上がったばかりの子供のように紫だ。

「お前、何者だ……何があればここまで……」

 人間を憎むことができる?

 総理官邸は既に殲滅。粉々の肉片と血の海が広がっていた。

 影狼は右手を水平に、手の形はパーとチョキの中間のようだった。

「俺の生まれた村には無しかなかった」

 愛はない。夢もない。食べ物もない。寝る間もない。

「自殺に使えるようなものは全て奪われた。信じられるか? 自分の意志で息を止めて、死ぬまで耐え抜いて自殺したやつもいる」

 自分がどうやって生まれたのか疑問に思うことがある。会ったこともないが、父と母はどうやってまぐわった。それも二人目も授かった。

「死ぬことだけが希望だったが、俺にはもう一つあった。まぁ、今となっては虚しいだけだ。お前、名ばかりでもこの国の頂点だろ? 終焉の儀式だ。何か言い残せよ」

 若葉……結局、俺も変われなかった。

 重苦しい沈黙が包んだ。その時だった。

「ちょっと待ったー!」

 影狼は振り向きすらしなかった。ため息一つだけ。鬱陶しいハエは全部片付けたと思ってたのに。

「原型留めとらん死体ばっかでわからんかったけど、殺ったのはザコだけやろな。万月さんたちはまだ無事か!?」

「少しは出来そうなやつが来たな。安心しな。俺が秒で殺れるようなやつしかここにはいなかった」

 もう暑いのか寒いのかもわかっていなかったが、乱はかなり汗をかいていた。呼吸も乱れ切っている。氷綱にやられた傷は自分で考えているよりも深い、満身創痍と言っていい状態だった。

 影狼ははっきりと振り返った。乱は実は顔も知らないやつだとはわかっていたが、顔そのものなどどうでもよかった。

 禍々しいオーラが全身を包んでいた。その憎しみの炎で淀み切った目はもはや血の通った人間のそれではなかった。

「クソっ! 勝てる気がせん」

「あー! もう、やっと追いついた!」

 夏芽、到着。もう心身共に疲れ果てていた。それでもまだ諦める気はなかった。乱と二人がかりでかかっても勝機はあるとも思えない。やっぱり真の言う通りかもしれないと思う。説得がせめてもの望みだった。

「あんたが影狼……」

「死にたがりがまた一人か」

 乱は既に槍を構えていた。負けてもいいとは思っていない。どうせ死ぬなら戦って死ぬ。そういう気持ちではなかった。

「ナッちゃん」

「誰がナッちゃんよ」

「俺はあいつの片腕、右腕がいい。それだけでも潰すことに全てを懸ける。後のことは万月さんたちに託す」

「死ぬつもりなの? 自分が死んだら世界が救われたって意味がないじゃない」

「それで、これまで犯してきた罪の償いになるなら」

 夏芽は意外なものを見た。乱の微笑。

 影狼は右手人差し指で空間にクルクルと輪を描く。邪気を溜めている。

 ふと、夏芽は澄んだ気を感じた。白と黒が混ざり合った強い気配。

 ガッシャーン!

「ぐはぁっ!」

 なんだか物凄いことが起きたことだけは感じ取って夏芽は目を閉じて耳を塞いでしまった。

「奇襲成功」

「血風刃!」

 ド派手に窓を破壊しながら影狼の後頭部にドロップキックを食らわしたのは血風刃。背後からは万月も姿を現した。

「乱君! 続けて!」

「お、おう!」

 ガン!

 正義の味方がここまで非情になれるものだろうか。乱は唖然としている影狼の脳天に容赦なく槍を撃つ!

「ここで決めるぞ!」

 夏芽は直視できなかった。万月、血風刃、乱の三人がかりで倒れ伏す影狼に執拗な攻撃を続ける。血風刃と乱はあくまでも打撃だが満月は刀、それも切っ先を立ててザクザクと刺している。

 死んじゃう……てか、もう死んでるよ……

 ドーン!


   7


「あれま」

 お嬢さんは外で待っていて、僕らが敵わなかった時のための最後の戦力として。

 万月にそう言われて総理官邸の入り口で待っていた葎花。

 巨大なガス爆発でも起きたかのようなー。全面衝突になったことは間違いない。

 ドサッドサッドサッ!

「ぐっつぁ」

「ゲボッ」

「つっくしょお」

 空から降ってきたのは三種の人体。

「万月さん……たち」

「たち扱いかよ」

 三人ともボロボロの血まみれだった。もう、とても戦える状態じゃない。

「何があったんですか?」

「影狼の人体爆破だ」

 説明したのは血風刃だ。息も絶え絶えで。

「今ごろあいつは?」

「乱君、まだ死んじゃあいない。それよりもまだ力は残ってるかい?」

「死んだほうがマシなくらいや。正直、しんどい」

「それなら……ごめん!」

 万月は乱の肩に手を置くと、一気に生気を吸い取った。

「なっ」

 風来の槍使い・乱はその流れ行く雲のような生涯を自分でもわけのわからぬままに閉じた。

「万月さん、いったい何を?」

「気をわけてもらった。これでまだ戦える。二人とも無駄死によりマシだ」

「そんな……」

「お嬢さん、僕とプウさんはもう一度、上に行くよ。できれば今度は君も」

「その必要はねぇさ」

 どんなタイミングか、とっくに先陣を切っていたはずの男。

「二つの意味でな」

 現れたのは晃、そして不気味なほどに一切の足音一つ立てずに影狼は地上に降りてきた。

「散々こき使ってくれたな、お山の大将」

「いつかはこうなると思ってたぜ、裏切り者」

 来たるべき時が来たと葎花は感じた。晃と影狼の一騎打ち。そう、一騎打ち……

 ボン!

「プウさん!」

 悪魔、影狼は悪魔だった。

「死闘の最中だぜ。ただの一瞬でも隙を見せるなよ」

 左胸が、破れた。血風刃はその赤黒い心臓がバクバクと鼓動するのをダイレクトに感じた。

 意外にも、駆け寄ったのは晃だった。

「クソっ! 痛え!」

「大丈夫……じゃなさそうだな」

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