レイトショー
仕事終わりの夕食を食べながらやおらスマホをスクロールしていて、今日からあるアニメ映画が公開することを知った。近くの映画館でもやっているかなと思ってサイトを開くと、丁度20時台と21時台に上映していることがわかった。今から行っても20時台には間に合わない。どうせ明日は休日なのだしと、21時のレイトショーのチケットを予約した。
シャワーを軽く浴びて外に出ると陰鬱な雲が夜の空間を侵襲している。記憶の片隅の天気予報のマークを思い出し、傘を車に乗せて映画館へ向かった。街灯の少ない地方都市の広い道を駅の方へと進んでいく。反対側は今から帰宅する車と工場地帯へ荷を運ぶトラックが蟻のように途切れなく走っている。車は地方にありがちな巨大なショッピングモールの駐車場へ入っていった。
劇場に入ると、公開初日とはいえ、想定よりも多くの客がいた。私はH席へ座る。有名塾講師が国民的歴史小説家原作の映画を熱弁しているCMを無心で眺めている間にも客が次々と入っている。意外とカップルが多いのが印象的で、よりにもよってそのうちの2組は私の両隣りに座った。チケットを取った時には両側は空いていたので全く夜の映画館の両側を埋められるとは想定していなかった。
考えてみれば中学生の男子と女子の青春アニメなのだから、カップルがいても不可思議ではないのだ。私なんかは青春の空隙を埋めているようなものなので、そういう存在があることはうっすらと認識していたが、平行線のようにここまで肉薄して現れてくることに静かに沸騰する泥濘のような動揺を隠していた。
未だCMが終わらない間、両側から楽しそうな声がしてくるが、特典の冊子に目を注ぐことで意図的に塞ごうとした。間もなく、劇場が闇の中に包まれた。CMをいくつか経た後に劇場空間を、皮膚を泡立たせるような音の波が駆け抜け、映画が始まった。
冒頭から甘い中学生同士の恋愛未満のやり取りがスクリーンに広がる。アニメは原作よりも恋愛要素が強いのではないかと思っているが、テレビアニメ以上に映画では廃糖蜜のように甘ったるく粘っこいシーンが短い時間で繰り返される。時折隣から聞こえてくるクスッとした笑いを耳に入れないように、平静として私は映画に集中した。
テレビアニメでは原作にはない瀬戸内海の島は借景にとどまっていたが、映画では産業や伝統が登場人物たちに絡みついてくる。地縁に埋め込まれた主人公は故郷を捨てた私の心臓に小さな穴が開くように訴えかけてくる。
主人公とヒロインが虫送りに参加する場面に移る。聖地を作るアニメにありがちな伝統行事だ。特に虫送りなんて見栄えする。2人で松明を持って天の川の下の闇夜を進んでいく。私は虫送りを見ながら、ふっと大学時代に一人旅で西日本の虫送りを見に行ったことを思い出した。観光化された虫送りに地域の人は私を歓待してくれたが、やはり一観光客としてであり、地元の子供たちとの間にはビニルのような目に見えない薄皮が存在していた。映画の中で風のように流れる登下校もプールも縁日も虫送りも私にとってはいつも孤独で非日常な旅の延長線上にしかなかったと漠然とした経験の記憶が甦る時、私の身体も空気のように劇場の闇の中に透過していった。
夏休みの間に主人公とヒロインが育てていた子猫が他の家族に拾われるシーンを見ながらこの映画を私が見ている状況がまさに猫を眺める2人と相似形になっていることに気が付いた。両隣はこのシーンをどのように見ているのだろうか。過去から未来への連続線を持ったものとして見ているのだろうか。存在しない過去の映像を見ながら私は自信を省みていた。頭の中に精神を病んでいなくなった中学時代の親友、大学の先輩・後輩、仕事で知り合った同業者の4人の顔が思い浮かんだ。20代半ばにして既に4人も精神を壊し、私の世界から欠落していく次は私の番ではないかと怯えると同時に、世界には欠落の少ない人生を確実に歩んでいる者がいくらでもいるのだということに薄々と気付いていた。映画の中の卑小な悩みは映画の中で全て解決されたが、私の人生は未だ解き目の見つからないまま癖になって撚れて縮んでいる。
映画は私が10代だった頃の卒業ソングのカバーで終わった。
劇場の外に出ると雨が降り出していた。現実の世界は未だ梅雨に入ったばかりだ。私はひとり傘を差しながら駐車場へと向かって歩いていった。