5 ジャック・オー・ランタンの贖罪
遠くから、パリンと窓ガラスが割れる音がした。次いで、悲鳴も。
「バケモン……バケモンだッ!」
階下からだろうか。その声に、教室中がざわっとする。
「あ、アレが学校に入り込んだのっ⁉」
女子の一人がそう言うと、また誰かが悲鳴を上げた。「逃げろッ!」とまた誰かが叫ぶ。
そうなると――もう収拾がつかない。叫びながら、みんな教室から逃げ出していく。担任が「落ち着け!」と追いかけながら叫ぶが、誰も聞いていない。
「に、逃げようッ萬狩くん!」
「あ、あぁ……」
仮面は家だ。少なくとも、丸腰の今の自分に、なにかできるわけでもない。
ちらっとまた、ジャックを見遣るが、ジャックは黙ったままだった。
「ねぇ」
肩をつかまれたのは、そのときだった。振り返ると、いつの間にか一本槍が背後にいた。じっと、あの大きな目で広弥を見下ろしている。
思わず立ちすくむ広弥に声をかけたのは、豪太だった。
「萬狩くん、早く逃げないと……」
「あ――あぁ。先、行ってて……」
豪太は、広弥とその後ろにいる一本槍とを見比べ首を傾げたが、少しためらいつつもその場を離れて行った。教室には、もう広弥と一本槍が残るのみだ。
また遠くから、悲鳴が上がる。
「これ……どういうこと?」
声が、いつもと違う。
間延びした、甲高い声じゃない。淡々と静かに訊ねられ、広弥はビクッとした。
「え、いや。どうって言われても」
「あのバケモノたちの格好。どう見ても、誰かさんの仲間でしょう。あんた――なにしたの?」
やっぱり。
一本槍は分かっている。広弥がジャッコランであることを。そして、アノニマス当人で間違いない。
「ボクは……なにもしてないし、知らない……」
ちらりと。ジャックを見つつ、広弥は絞り出すように言った。
ジャックはついさっき、あの光景を見ていてなにかを理解した様子だった。広弥が知らないことを、ジャックは知っている。ただ――仮面も手元にない今、それをあまり積極的に聞きたいとは思えなかった。
一本槍は広弥の目の動きには気がついたようだったが、そこになにも見えないからか、ただため息をついた。
「それならそうでも良い。さっさと止めに行く。分かった?」
「え……なんで」
「なんでって。あんなの、放っておけないでしょ?」
イライラとした口調で、一本槍は続けた。
「あんた、ヒーローなんでしょ?」
「そう、だけど……でも今、変身できないし……」
ごにょごにょと言い返すが、一本槍は「なに言ってるの」と冷たく言うだけで、軽く動いて身体をほぐし始めた。今にも、被害が出ている元へと走り出しそうだ。
「だから――変身しないと、なにもできないんだッ! 素早く動いたり、飛んだりもできないっ。でも、そのための仮面は家に置きっぱなしだし……」
「……やっぱり、あのカブの仮面が関係あったんだ」
髪を一つに結い上げながら、一本槍が顔をしかめる。その表情は、教室で見るいつもの表情とは全く違った。冷たい、冷静な瞳。それが、広弥を射る。
「あんた、自分には自分の正義があるって、公園でも大見え切っていたよね」
「え……? あ――」
アノニマスと出会った夜――ぼんやりと、「言ったっけ」と思い出す。そんな広弥を、一本槍はアノニマスの目で、ぐりっと抉る。
「あんたに正義なんてない。空っぽだから、借り物の言葉でしか語れない。自分ができることをしようとも動かない。――そんなおまえが、ヒーローなんて気取るな」
「……ッ」
スカートをガっとまくり上げると、太ももに二丁、拳銃が装備されている。それを両手で持ち、無言のまま一本槍は――アノニマスは駆け出した。
「あ……っ」
自分よりは背の高い――それでも細い背中が、遠ざかっていく。それに手を伸ばすけれど、足は動かない。
『どうした――おヌシは逃げんのか』
ジャックの声がする。きっと、頭の後ろをふよふよと能天気に飛んでいる。廊下を曲がって見えなくなる背中を、それでも見送りながら、広弥は口を開いた。
「……オマエ、なにを知ってるんだよ……」
『なにをとは?』
「ふざけるなよ。ボクの頭の中、どうせ読んでるんだろ? 全部教えろよッ」
『――ふざけてるのはキサマだろう、腑抜け小僧』
ぐっと背後から圧を感じ、ぞくりとする。慌てて振り返ると、大人くらいの背丈の――顔だけない悪魔が、そこにいた。
顔はないが、見覚えはある姿だ。ジャッコランにひどくそっくりで――手足の枷は千切れている。
「……ジャック……?」
『ワレの力がないとなにもできない――人間の中でもひ弱な分際で。虚栄心だけは立派に人一倍高く、義憤も正義感もない癖に自分を高く見せたがる――キサマのそういった弱さが、この事態を招いたんだ』
「なに言ってるんだ……?」
真っ赤な月を見る。そこからどんどん、悪魔が湧き出してくる。
『アレは長らく閉じられていた、魔界と人間の世界をつなぐ、いわば通路だ。そこから漏れ出す瘴気は人を狂わせ、やってくる悪魔はあらゆる魂を喰らう』
「なんで、そんなものが」
『だからキサマの仕業だろう』
その、あまりにも楽しそうな声に、広弥は顔を引きつらせた。
『ワレに宿った悪魔の力を使うことで、人間界と魔界とにつながりができる。通路を塞いでいたタガが緩む。緩んで緩んで緩みまくって――そこで、人間界で言うところのハロウィンという日を迎えることで、タガが完全に外れ、解き放たれたワケだ』
ハッとする。ハロウィンは、元は死後の霊と悪霊――悪魔が人間の世界へやって来る日だとされている。
「おまえは、人間を救うことで天国に行けるんだろ? そういう約束だったんだろ!」
『可愛いのう。本当にキサマはバカで可愛いヤツだ。――ワレは人間だった頃から悪魔を騙すような悪人だったのだ。天国なんぞ行くワケなかろう』
「っじゃあ」
『こうして力を人間に使わせ、魔界の扉を開けることが、ワレに課せられた役目であり、贖罪だったのだよ――悪魔へのな。おかげで、ようやくこうして解放され、悪魔のお仲間となったわけだ』
「騙したのかッ! ボクを――ボクは、ヒーローになれるって」
『悪人を騙すより悪魔を。悪魔を騙すより世間知らずのガキを騙す方が――ずっと簡単だわな』
「……ッ」
目の前に火花が飛ぶ。顔を殴られた――そう分かったのは、勢いで身体が廊下に吹っ飛んでからだった。頬の痛みよりも、衝撃が身体を駆けまわって、ただ、何故か心臓がずくずくする。目の前が、涙でくもってよく見えない。
「く……そぉ……ッ」
よたよたと廊下を駆け出す。駆けて――どこへ行ったら良いのかも分からない。どうしたら良いのかも。でも、今はとにかくその場から逃げたくて仕方がなかった。
「なんだよ……なんだよなんだよなんだよッ!」
自分に自信なんてなかった。だから、自分に自信をもっている――輝いている奴らが嫌いだった、怖かった。
漫画の中の登場人物なら、純粋に憧れることができた。その憧れに手が届くと聞いて、飛びついた自分は――結局、一本槍の言うように「空っぽ」でしかなかったんだろう。
「っあ!」
つまずいて、階段を転げ落ちる。頭を守らないと、ということさえ思いつかず、下まで落ちたときには身体中が痛くて動けなかった。
「もう……嫌だ……ッ」
自分はなにもできない。できるような人間じゃない。ヒーローなんかじゃない。ヒーローになれるのは、一握りの人間だけだ。一本槍のような。自分はせいぜい、悪役にも殺されず、こうして自滅することしかできない。
「わぁぁぁぁああッ!」
すぐ近くで、悲鳴が聞こえた。一年生の教室だ。ぼんやりとした頭で見ていると、女子が一人飛び出してきた。
「た……助けて……ッ」
階段下に突っ伏している広弥にそう言う彼女には、べったりと血がついていた。小刻みに震え、がちがちと歯が鳴っている。
「中に……田中くんが……バケモノと、変な人と、変な人が……ッ」
「よ、よく分かんないけど……」
変な人とは、アノニマスのことだろうか? このタイミングであんな仮装をしていたら、確かに変な人呼ばわりされるかもしれない。おまけに、拳銃まで持っていた。完全に不審者だ。
女の子怯え切った目が、広弥をじっと覗き込む。
頬が痛い。全身が痛い。なにより心臓から血が出てるんじゃないかというくらい、胸が痛い。――なのに。何故か広弥の身体はゆっくりと起き上がり、震える足は彼女が出てきた教室の方へそろそろと歩き出す。
(見るだけ……見るだけ……)
バケモノはきっと、悪魔のことだろう。田中は彼女のクラスメイトか、恋人か。後者だとしたら、少しやる気がそがれるから、取り敢えず単なるクラスメイトということにしておこう。
(アノニマスが悪魔と戦っているなら……ボクは、田中くんってのを教室から逃がせば、それで良い……)
怖いのは、アノニマスに足止めされている悪魔より、アノニマスにまた、あの目で見られることだ。気づかれないようこっそりやろう。
そう、教室を覗き込むと――。
「――ッ⁉」
思わず叫びそうになったのを堪える。教室は血塗れだった。田中くんらしき男子は背をばっさりと切られたように怪我し、うずくまって唸っている。それを庇うように立っているアノニマスもまた、腕や足から出血している。
その二人に対峙しているのは悪魔と――それが乗っかっている人間の男だった。男はどでかいナイフを持ち、血走った目でにやにやと、一本槍を見つめていた。