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恋シリーズ

ソクラテスの弁明

作者: あきわ

梅雨時期の空は、汚水に浸したような灰色の雲がもこもこも立ちこめて、見上げた人々の視界を厚く埋め尽くしている。

風は湿り気を帯びて、まるで吸盤でもつているかのように肌に張り付いてきた。

足達は、カーテンを大きく揺らす風を見つめ、眼鏡を中指で押し上げた。

雨は、まだ降っていない。

だけど、じきすれば確実に空から零れ落ちた雫が大地を濡らすことだろう。

足達が、ぼんやりと空を見上げていたとき、教室のドアがガラガラと開いた。

「足達くん、先生がこっちの集計もお願いだって。」

入ってきたのは、今週、足達と同じ週番係りをしているクラスメートの少女だった。

彼女の手には、分厚い藁半紙の束が握られている。

「先生って、人使い荒いよね。」

胸元で揺れる髪の毛を払いながら、彼女は顔を顰めた。

机の上に紙の束を置くと、カタリと椅子を引いて座る。

そして、おもむろにこちらを見た。

「何か、面白いものでも見えるの?」

「いや・・・。雨が降りそうだなと思ってね。」

「降水確率は?」

「80%だ。」

その答えに、彼女は肩を竦めて笑った。

足達は窓から離れて彼女の向かいへと座る。

目の前の藁半紙には、『課外授業での希望プラン』とタイトルが印刷されている。

項目事に、希望地、目的地に到着後の班行動の予定、レクリェーションの希望有無などをおもなものとして掲げられ、それに対して 一人一人が書き込みをしている。

おざなりな文章もあれば、スペースが埋まるぐらいにしっかりと書き込みされているのもあり、それらに一つ一つ目を通して 分類するのは、骨が折れそうな作業だった。

「普通、こういうのって学級委員の仕事だよね。」

ペンケースからシャーペンを取り出しながら、彼女―――― 和泉が唇を尖らせた。

「仕方ないさ。学級委員は、今度の文化祭の委員会で忙しいんだろ。」

「寛容ね、足達くんは。今日は部活は?」

「休んだ。」

「そう。大会も近いのに大変ねぇ。」

そう言って彼女が笑う。

彼女は、笑うと瞳がすっと細まる。

そうすると黒目がちな瞳がいっそう引き立って潤んだように、揺れて見えた。

足達は、彼女のその瞳を見るのが、好きだった。

取り分け綺麗な子ではなかった。

だけど、仕草や雰囲気が綺麗な子だった。

例えば、頬にかかる髪の毛の柔らかな揺れや、会話の合間に動く指先の繊細さ、瞳が合ったときに見せる唇に浮かべられた笑みなんか。

ちょっとした表情で、彼女は人を虜にする。

少なくとも、足達は自分が彼女に虜にされていると、そう判断できた。

彼女は、今日の居残りを嘆いているけれど。

足達は、むしろ喜んでいた。

無人の教室で、彼女と二人きりで過ごせる事は、多分、滅多に出逢えない奇跡だろう。

人を好きなると、どんなことにでも奇跡が訪れたように感じる。

それは、かなりお手頃ではあるけれど。

そんな些細なことでさえ喜べる人がいることを、神様は喜ぶべきだろう。

「遊園地、遊園地、水族館、何コレ、東京タワー?今時東京タワー?」

コツコツと、シャーペンの先を机にぶつけて、おかしそうに 和泉が笑った。

足達は、それをそっと窺う。

「あーそう言えばね、足達くん。あたしね、ずっと聞きたいことがあったんだわ。」

彼女は、アンケート用紙に視線を落としたまま、唐突に口を開いた。

「なに?」

彼女は、ちらりと上目使いにこちらを見上げた後、ふっと困ったような照れたような眼差しで、瞳を伏せた。

「香川くん・・・いるでしょ? 足達くん同じ部活だよね?彼、今、付き合ってる人とかいるのかな?」

足達は、眼鏡の奥の瞳を微かに瞬かせて、彼女を見た。

和泉は、平然とした顔を装っている、そんな様子だった。

内心で、溜息が落ちた。

わかっていた結果ではあった。

彼女が、時々友人と一緒に、グラウンドへ見学に来ていたこと。

もっぱらそれが、香川の試合がある日が多かったこと。

データから予測される解答は、簡単だ。

和泉は、香川に恋心を抱いているのだろう。

足達は、出席番号六番のアンケート用紙を見つめる。

「さあな・・・。そう言うのは本人に聞くのが一番だと思うけど?」

「聞けないから、君に聞いてんじゃん。あたしさ、彼と接点まったくないんだもん。それにさ、ちょっと近づきがたいしね。 でも、足達くんとは、ほら、友達でしょう?友達は有効利用しなくちゃね?部活一緒だし、あたし、君と彼が仲良いの知ってるよ?」

仲が良いというわけではない。

たまたま部活での役割分担上、よく言葉を交わすだけだ。

内心で、そんなことを思う。

だけど、言葉にはならなかった。

彼女は、頬杖を付いてこちらをジッと見ている。

こんなとき、自分の感情表現の鈍さに、胸を撫で下ろす。

好きな子の前で、不格好に取り乱さずにすんだのだから。

「いないんじゃないかな・・・・。そんな話は聞かないけど。」

「それは、足達くんのデータによる判断?」

「確率は90%は硬いかな。」

言いながらも、足達は内心で、香川に恋人はいないことは知っているが、好きな人がいるかどうかは知らないけれどね、と呟く。

恋人が出来れば、さすがにわかる。

しかし、あの鉄面皮で、感情と顔面の筋肉が喧嘩をしているような男の深部は、計りようがなかった。

例えば、密かに誰かを恋い焦がれていたとしても、きっとその愛しい人の前に立つことがあったとしても、あの男は器用に 感情をセルフコントロールしてしまうことだろう。

彼はそれほどまでに堅物であり、真面目だ。

「そっか・・・。恋人はいないのね。」

和泉は、甘いチェリーを口の中に含んだときのように言葉を舌の上で転がした。

そしてふっと笑う。

「良いこと教えてくれてありがとう。持つべき物は、友達ね。」

足達は、返答に困って押し黙った。

彼女は、胸元にかかった髪の毛を緩く指で抓み、くるくると自分の人差し指に巻き付けた。

その仕草を、見つめながら。

人を好きになると、奇跡は道ばたにころころと転がる小石のように見つかるけれど。

それ以上に、道を埋める小さな砂粒ほどにも不幸せや哀しみが敷き詰められていると思った。

こんなにも、簡単に人が不幸へ陥ってしまうことを、神様は困惑してしまっていることだろう。

「和泉は、香川が好きなんだな。」

足達の言葉に、彼女は瞳を上げて、こちらを見た。

「かわいそうに。加藤が失恋したって泣くな。」

加藤はクラスメートの一人だった。大っぴらに彼女を好きだと公言しているが、まったく相手にされていないようだった。

ああと、内心で思う。

それは、自分も同じだ。

彼女は、つまらなそうに「ふ~ん」と呟いた。

「あたしなんとも思ってないよ?」

「それは加藤に言ってやればいいよ。」

彼女は、緩く瞳を瞬かせて、唇に笑みを浮かべた。

「ねえ、そういえば新しい子が部活に入ってきてたよね?一年生でしょ。この間の新人戦で優勝してた」

どうしてか、彼女の声に小さな棘を見付けた。

足達は内心首をかしげるが、言葉にはしなかった。

彼女は、ぺらりとアンケート用紙をめくる。

「良く知ってるでしょ?試合見に行ったのよね。あの一年生、強いよね。しかも、綺麗な顔してて。」

「綺麗な顔が好きなのか?」

「そう見える?」

「香川が好きなら、統計的にはそうなるな。」

「統計?」

ふふっと面白そうに、 和泉は喉を震わせた。

「そうね、綺麗な顔は嫌いじゃないけど。でも、恋って顔でする物じゃないでしょう?少なくとも、あたしはそう思ってるけど?」

だが、彼女が香川を好きだという事実は変わらない。

しばらく二人は、無言でアンケートの集計に集中した。

ぷつりと会話が途切れたのは、半分は彼女がそれ以上言葉を続けなかったことと。

足達が、これ以上彼女の言葉を聞きたくなかったからだ。

今は何を聞いても、自分には受け止めることよりも受け流すことしかできやしないだろう。

自分の気持ちを、人の言葉に代弁してしまうことは、ただの浅ましさでしかない。

そこまで、自分自身の事を卑下してしまいたくはなかった。

ぺらぺらと、紙がめくれる音だけが響く。

合唱部が練習しているのか、遠くで歌声が聞こえてきた。

その時だった。

窓から吹き込んできた強い風が、勢いよくアンケート用紙を巻き上げた。

「きゃっ!」

和泉が悲鳴を上げて、立ち上がる。

ばさばさと、鳥の羽ばたきのような音を立てて床一面に茶色い藁半紙が広がった。

「風が、強くなってきたみたいだね。」

足達が、空を見上げると。

雨はまだ降ってはいなかったが、西から強い風が流れ込み、雲をぎゅうぎゅうと押し込んでいた。

紙を拾おうと腰を屈めた足達の横を、 和泉が通り抜けて窓へと近づく。

彼女はしばらく空を見上げた後、ぽつりと呟いた。

「きっと雨、降らないわよ。」

足達が振り向くと、彼女は窓を背にしてこちらを見つめていた。

「あたしね、今、結構むかついてるのよ。なんでかわかる?」

床に膝を付いて紙を拾い上げていた足達は、その恰好のまま固まる。

「君は自分が人の心を読むことにたけてるって勝手に思ってるけど、本当はだぜんぜんダメってこと。」

いやにきっぱりと、彼女は言い放った。

足達は、しばし押し黙った後、眼鏡を押し上げて立ち上がった。

「それは、どういう意味かな?」

「そのまんまの意味よ。あたし、これから足達くんのデータはちっとも信用しないことに決めたわ。香川くんの事も。 よく考えれば、データで計れる気持ちなんて表層の一部分だけだもの。」

まるで喧嘩腰とも言える発言。

ムッとするよりも、戸惑いを覚える。

彼女が、ここまで自分に突っかかってくる理由が、分からなかった。

少なくとも彼女は、足達の持つデータでは、穏和で自分から争いの火種を蒔くような事はしない、そんな子だった。

「和泉?」

困惑して足達が彼女の名前を呼ぶと、 和泉は悪戯を成功させて快哉を喜んでいるような笑みを浮かべた。

「香川くんを好きなのは、あたしじゃなくて、あたしの親友の方よ。」

彼女はチラリと空を見上げてから、またこちらに視線を戻すと、言葉を続けた。

「あの子に頼まれて、あたしが君に探りを入れてただけ。あたしが香川くんを好きだなんて、酷い誤解も良いところ。彼、格好いいけど。 顔で、人を好きになるほどあたしは夢見がちじゃないのよ、残念だけね。」

窓から吹き込んだ風が、カーテンを大きくはためかせた。

一瞬、彼女の姿を隠してしまう。

足達はとっさに足を踏み出し、そのカーテンを掴んで引っ張った。

カーテンの影にいた彼女は、真っ直ぐに足達を見つめて、あの黒目がちの瞳を揺らめかせていた。

その瞳に見つめられて、足達は口の中がカラカラに足達いていく。

微動だに出来ず、ただ 和泉を見つめ返す。

目の前の少女に、居竦まれているのだ。

「データ外れたわね。」

言葉を返そうと思えば、だけど舌が張り付いて声が出ない。

押し黙った足達を、彼女は上目使いに見上げ、

「何か言うことはないの?」

「あ・・・・。じゃあ、よくコートへ見学に来ていたのは・・・・?」

「親友の付き添い。だけど、あたしは香川くんを見てたわけじゃないわ。」

「・・・・・そうか。」

足達は気が抜けた気がした。

足元が、揺れているような錯覚を覚える。

どんな激しい試合のときも、ここまで疲労することはないだろうとさえ思えた。

「データが外れて、哀しい?それとも、嬉しい?」

「え?」

足達が、彼女の言葉を頭の中で反芻するよりも早く、彼女の腕が伸ばされた。

襟を掴まれ、ぐっと下へと引き下ろされる。

危うく前に倒れ込みそうになった足達は、足に力を入れて踏ん張る。

だけど、上半身は力に負けて前屈みになってしまった。

唇に、何かが触れた。

足達は、眼鏡の奥の瞳を見開いた。

今にも底の底までのぞき込めそうなほどに、彼女の黒い瞳が間近に迫っている。

頬を、柔らかな髪の毛がサラリと撫でて、鼻先を甘い匂いが掠めた。

自分たちがキスをしているという現実に、足達はすぐには把握する事ができなかった。

和泉は大きな瞳で足達を見つめて、自分の身体を足達に持たせ掛けている。

足達は、ただなすがまま、微動だにできなかった。

どれほど、触れ合っていたのだろう。

刹那のようにも思えたし、長い間のようにも錯覚してしまえそうだった。

唇を離すと、彼女はトンと足達の肩を押しやった。

「あたし、君が好きよ。」

にこりと、勝ち誇ったように 和泉は微笑む。

足達は呆然として、眼鏡を押し上げる。

信じられない言葉を聞いたような気がした。

もちろん、今まで自分が貯蓄してきたデータの何処にも、そんな記述は残されていない。

言葉を見失っている足達に、だけど彼女は平然とした様子で、もう一度窓の外を見やった。

そして、ふっと笑う。

「晴れたわね。」

言われて足達も空を見上げれば、西から吹いていた風が見る間に灰色の雲を遠くへ押しやっていた。

雲の切れ間からは、金色の日差しが零れていた。

足達は、彼女に視線を戻した。

「それで、お返事は?」

和泉の言葉に足達は小さく嘆息を浮かべた。






後になって、 和泉には実は確信があったのだそうだ。

「絶対に両思いだって、思ってたもの。」

彼女は髪の毛を指で遊ばせながら、笑って言った。

その事に、何故そんなことが分かったのかと問い返せば、

「女の勘よ」と答えを返された。

こちらとしては、グウと唸るしかない言葉だった。


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