過ぎ行く時代(とき)は静かに流れ
私が老人ホームで働き出して、早二年が経った。
今日は夏にしては日差しは幾分和らいで、穏やかな風が庭に植えられた桜の樹の葉を揺らしている。
午後三時になった。利用者さんたちにおやつを出す時間だ。
テーブルの上に並べられたお皿にお菓子が用意される。
私が担当しているIさんは、大のキャラメル好きだ。
私はいつものように、Iさんのお皿にキャラメルを一つ加えて渡した。
「Iさん、おやつの時間ですよ」
「ああ、ありがとう。そうそう、主人がそろそろ帰ってくるから、キャラメル、もう一つちょうだい」
Iさんのご主人は五年前に他界されたのだが、ご自身の心の中にはまだ生き続けておられるようだ。
私はキャラメルをもう一つお皿の上に置いた。
Iさんが話しかけてくる。
「主人はキャラメルが本当に大好きでねー。なんでも、小学一年生の誕生日にお母さんからキャラメルをもらったんだって。いつも自慢していたわ。そうそう、小学5年生の時、あの人のお家が貧乏でねー、遠足の時に『お菓子を持ってこなかった』って言うもんだから、私が持ってきたキャラメルをあげたのよ。そしたらもう、すごーく喜んでいたわ。それとねー。あれは中学の時だったかしら。私が落ち込んだりしていたら、慰めるつもりだったのか、キャラメルをくれたのよ」
Iさんはいつも同じ話をされるのだが、ご主人のお話をされるときは瞳が輝いている。
私はIさんのお話を聞くのが好きだ。
「そうそう。ビックリさせられたこともあったわ。高校生の時、街でばったり出会った時のことよ。あの人、キャラメルを渡しながら『俺と付き合ってくれ』なーんて言うのよ。笑っちゃうでしょ? それから付き合うようになって、何年かたったある日、海が見たいと言うもんだから二人で旅行に行ったの。そこでプロポーズされたのよ。婚約指輪をもらって、私が感激のあまり泣いていたら、まーたキャラメルをくれるのよ。もう本当に面白い人でしょ?」
Iさんはキャラメルを手に取ると、包みを剥いでゆっくりと味を噛みしめるように頬張った。
私はIさんの湯飲みにお茶を注いだ。
すると、Iさんは何かに気が付いたかのように、ホームのリビング出入り口の方に目を向けた。
「あっ、主人が帰って来たわ」
Iさんがそう言うと、誰もいないリビング出入り口の自動ドアが勝手に開いた。
その瞬間、涼しげで心地のいい風がホームのリビングに入り込み、テーブルに置いてあったキャラメルの包みが風に流された。
Iさんは、静かに閉じる自動ドアを見ながらつぶやいた。
「あなた、お帰りなさい」
ふと気がつくと、Iさんは目に涙をいっぱい浮かべ、静かに微笑んでいた。