羽賀藍と美術室
「はよー」
「おはよー」
「駒井なんか騒いでたけどなんかしたのか?」
「既読スルーしたら怒ってたわ」
「それは返してやれよ」
「んー気が向けば返す」
「適当だな~」
神井が野川の席の前に来ていた。この二人はよく一緒にいるのを見かける。気が合うのだろう。
彼らの話し声が自然と耳に入ってくる。私がここで聞いていることは全く気にしていないようで自分が透明人間にでもなったような気にもなる。
「んで。良かったじゃん、今日喋れて」
腕で小突き、からかう口調でそう野川がニヤニヤして言うと神井も嬉しそうだ。
「いーだろ!心配もされちゃったわ」
「おっ、いーじゃん」
「笑顔で話聞いてくれたしすっげー優しかった」
「おいおい~、脈ありじゃん!」
「だよな!今度二人乗りしようって誘った!」
「マジかよ、デートじゃんそれ。」
「へへへ!早くブレーキ直さなきゃな~!」
薄々気づいていたけれど、神井は珊瑚のことが好きらしい。野川はそんな彼を応援しているようだ。彼の嬉しそうで気持ちが高まっている声を聞いていると好きだった先輩のことを思い出してしまう。先輩も…好きになった人にこんな思いを持っていたのだろうか。私がもし…こうやって話しかけて仲良くなる勇気があったら…あの時の未来は変わったのだろうか。過ぎてしまったことはどうしようもない。
昼休み。
今日も三人でお弁当を食べ、少し雑談をした後そのままどこかへ遊びにいなくなる柚葉とトイレに行くと行ったまま帰ってこない珊瑚で一人になった。十分ほど何となく待ったけれど帰ってくる気配もなくトイレで何かあったのかなとか別のクラスの誰かと話してるのかなとか考えつつ校内を散歩してみることにした。同じ階のトイレには居なさそうだし、他には図書館くらいかなと寄ってみるも見当たらなかった。すれ違いで教室に戻った可能性もあるなと思いながら、何となく一階に降りてそのまま校内散歩を続けてみる。他の階に比べて学年のクラスがないこの一階はひんやりと静かで、ぽつぽつとしか生徒が歩いていない。静けさと天気が良くても少しほの暗さのあるこの辺は割りと落ち着く。
ぼんやりしていると、ドンと誰かとぶつかり相手の抱えていたものがバラバラと散らばった。
「うわ、ごめんなさい…!!」
ぶつかってきたのは黒縁眼鏡をかけた男子生徒だった。
慌てて床に散らばったものをかき集める彼を手伝おうと藍もしゃがむ。筆、絵の具、水入れ、写真、図鑑。全て元通りに持とうとする彼を見て散らばった理由が分かった。一人で持つには無理のある量なのだ。
「すみません、どこか痛んだりしてませんか?」
「いえ…」
「よかった。筆とか角度が悪いと危ないですしね」
「……持ちます」
「え?」
「これ、半分持てるんで」
「いいんですか?」
こくりと無表情で頷くと、彼は優しく微笑んだ。
「ありがとうございます、助かります…!では美術室までお願いします」
「………。」
少し頼りなさそうな彼の隣を歩いて美術室へ向かう。
「いやぁ正直僕も落としそうだなと思ってたんですけど無理しちゃいました、あはは」
「そうですか…」
「どこか行く所だったんじゃないですか?」
「いえ…別に」
「ならよかった」
上手く会話を続けられない藍を全然気にしてないようで、彼は気さくに会話をしてくれた。穏やかで優しい声をしている。
「よいしょ…っと」
第二美術室に着くとキャンバスの一つが目に入った。まだ線画が書きかけな魚の絵。何種類もの魚のラフが残っている。
「これ僕が描いてるやつです。ラフでお恥ずかしいですが」
「……魚好きなんですか?」
「ええ、魚を見るのが好きなんですよ。水の中を気持ちよさそうに泳いでるのなんて何時間でも見れちゃいますし。イワシの群れがキラキラしながら水槽の中をぐるぐるしてるのも素敵ですよね。」
水族館での光景を思い出すように目を閉じそう語る。よほど好きなのだろう。
「あの渦を巻くような勢いをどう絵に表そうか楽しみなんです」
「………。」
「手伝ってくれてありがとうございました、羽賀さん」
「え…?」
なんで名前を知っているのだろうと、少しきょとんとしていると彼はあれ?と首をかしげた。
「あれ?羽賀さんじゃありませんでしたっけ?」
「羽賀…ですけど……。どうして名前を…」
「ああ、僕も羽賀さんと同じ中学だったんですよ。同じクラスになったことはありませんけど。」
「…すみません…」
中学の頃は人数も多くて同じクラスになった人でも本名と顔が一致しないままの人がいたくらいなので、違うクラスなら分からなくてしょうがないけれど、相手が知ってくれているのにこちらだけ知らないというのは何だか申し訳ない気持ちになる。
「いえいえ構いませんよ。僕、萩野間真一の弟の遥っていいます。」
「萩野間……先輩の」
その名前は、藍が片思いをしていた先輩の名前だった。そう言われてちらっと顔を見てみると、眼鏡のせいもあってハッキリわからないが確かに少し面影があるかもしれない。
「先輩…元気、ですか…?」
「ええ、高校で楽しくやってるみたいです。たまに帰ってきたりしますよ」
「そうですか」
遠くに行ってしまうことは知っていた。もう卒業と共にすべてが終わったと思っていたのにまさかこんな所で血縁者と出会うことになるなんて。学区的にはありえる話だから驚くほどでもないかもしれないけれど、不思議な縁もあるものだ。
「そろそろ授業始まりそうですね。戻りますか」
「はい…」
色々聞いてみたいような、でも…彼のことを知れば彼女のことも知ってしまいそうで。二人が今も付き合ったまま仲良くしているのならあまり耳に入れたくない。想像するだけで何となく空しい。
「それじゃ、本当にありがとうございました」
「いえ…」
ニコッと笑って遥くんが教室に戻っていくのを見届け藍も自分の教室へ戻った。すっかり忘れていたけれど教室に戻ると珊瑚も席に座っていて少し安堵する。とりあえず体調が悪かったわけではなさそうだ。
そうして藍の一日がまた過ぎていったのであった。