黒姫晴蘭とビニール傘
将来のためと言われればそうかもしれない。でも子供の頃勉強をしたことはどこまで自分の役に立ったのだろう?経験してきたことは必要なことだったのだろうか?って考えるときもある。
こんなことを思ってしまうのは自分が大した大人になれなかったからなのかもしれない。
やった方が良い。そりゃなんだって吸収して自分のものにして良い方に向かうなら経験するに越したことはないし、時間が経たないと必要なことだったかなんてわからないけれどね。
なんかね、これでよかったのかなぁなんて時々思っちゃうのさ。
「あの子また来てるね」
白髪の老紳士がこそっと小さめの声でオレンジジュースをコップに注ぎながら言った。
「そうですね」
店員である晴蘭も小さめの声で返しながら店長が見つめた先を追う。
駅から歩いて五分とはいえあまり目立つ場所ではないこの喫茶店は土日でもそう客が多いとはいえない。だいたいいつも同じ顔触れが同じような時間に来てお気に入りの場所に座ることが多い。
桃色の髪をした少女は中学生くらいだろうか。いつも遅い時間に来て閉店までの間オレンジジュースとサンドイッチのセットを食べながら勉強をしている。ある日ぽっと来てから週に何度か来るようになった。この付近ではたまにしか見かけない制服を着たままの彼女は店の扉を開くときいつも暗い表情をしている。
このご時世、夕食を一人で食べる子もいるんだろう。しかも学校帰りにまた勉強をして。自分もあんな頃があったっけ。自分は家庭教師に教わっていたからご飯は自宅だったけれども。
「大変だね、まだ子供なのに」
「ええ…」
店長は遠い昔に育てた我が子やまだこれから大きくなっていくお孫さんに姿を重ねてか、少し切なそうに見守っていた。
確かに少女が窓際の角の席にぽつんと座って窓を時々眺めるその姿はなんだか痛々しくて、自分も時々視線を向けてしまう。他の客がいるカウンターや後ろの四人掛けのテーブルを勧めても彼女は首を振って断っていた。思春期なのもあって一人でいたい時間もあるのかもしれない。
「これ、持って行ってあげて」
出来上がった食事をトレーに入れ彼女の元へ歩む。
「お待たせいたしました、サンドイッチセットです」
「ありがとうございます」
膝に手を置いて会釈をしながらにこっと笑顔を晴蘭に向ける。先ほどまで疲れた表情をしていたのを隠すように可愛い顔で。礼儀正しい子だなと思う。
「ごゆっくりどうぞ」
「ありがとうございます」
会釈をし合ってカウンターに戻る。ちょうど客がお会計に来ていてそっちに気が向いて時間が過ぎていく。ふと気が付くと小さく雨音が聞こえてそういえば今日は夕方雨の予報だったなと思い出した。
少女が閉店の時間と共に会計を済まそうとレジへ注文伝票を出しながら窓の方を不安そうにチラチラ見て落ち着きがない。忘れ物をしたわけでもトイレに行きたいわけでもないようで、気になってつい声をかけてしまった。
「どうかしましたか?」
「えっ…!……いえ…」
何でもないんですと小さく付け足す彼女に店長がスッと透明のビニール傘を少女に差し出した。
「持っておゆきなさい。傘がないんだろう」
そういうことか。
「で、でも…」
「お嬢ちゃんはよく来てくれているだろう。次に来た時にでも返してくれたらいい」
「………ありがたいんですけど…でも…その、お母さんにここへ来てること…言ってなくて。なのであの…借りちゃうと良くない…んです…。走れば駅まですぐですし大丈夫です…」
申し訳なさそうにうつむきながら少女は緊張していた。母親に内緒で来ていることが本当にバレたくないのだろう。
「店長、駅まで送ってあげて良いでしょうか…お客さんもう居ませんし、戻るときに傘を回収しますので」
晴蘭がそう申し出ると店長は優しく頷いて了承してくれた。
「ちょっと待っててね、着替えてくるから」
そう言って急いで着替える。主要の持ち物だけポケットに突っ込んで自分の傘を手に持ち一緒に店を出た。
外はシャワーのようにジャーっと勢いよく雨が降り注いでいる。こんな中帰したらびしょぬれになってしまう所だった。
無言のまま歩くのもどうかと思っていると少女から話しかけてきた。
「ごめんなさい…お仕事中でしたのに」
「いいのよ、もうお客さんいなかったから」
「でも私のせいで手間をかけさせてしまって…ごめんなさい」
「大丈夫。こんな雨の中暗い道を歩かせる方が心配だわ」
謝ってばかりの少女を励ますように元気な声で軽い口調を心掛ける。それでも無理やり作った笑顔を向けて落ち込んだままの少女にどう対応すべきか悩んでしまう。年齢が離れた子にどう声をかけてあげるべきなのかはよく分からない。何か質問をした方が話が進みそうだ。
「そういえば名前、聞いても良い?」
「えっと…、…珊瑚です」
「珊瑚ちゃんっていうのね。可愛い名前じゃない」
「えっと……黒姫さん、でしたよね」
「あら、覚えててくれたの?ありがとう」
「えへへ…、さっき店長さんが呼んでましたしネームプレート見たので」
少しほころびをみせる珊瑚に晴蘭はほんの少しほっとした。警戒されているのなら寂しいなという気持ちもあった、正直。
「珊瑚ちゃんいつもお店来てくれてありがとうね」
「こちらこそありがとうございます…。私、あのお店にいる時間が好きなんです…」
「ありがとう、そう言ってもらえるとアタシも嬉しいわ」
自分の働いている店が褒められるのは嬉しい。店長もきっと聞いたら喜んでくれるだろうなと想像する。
「いつも勉強頑張ってるわね」
「あ…あれは、塾の予習なんです」
なるほど、学校のではなく塾の問題集だったのかと合点がいった。
「ってことはこれから塾に行くの?」
「はい…」
「そっか…大変ねぇ」
「同級生は塾に通ってる人ばかりらしいです。私…頭が良くないから頑張らないといけなくて」
「そうなの…」
珊瑚が学校でどのくらいの成績なのかは分からないので否定してあげることもできず、とりあえず同意する形となった。これだけ勉強しているのだから点数はいいけれど満点しか許せないような子な可能性だってある。行きたい高校のレベルが高いとか…。そこを今聞く気にはなれなかったけれど。
「あの……」
「なぁに?」
「喫茶店に私が来てること……その…誰にも、内緒にしていただけませんか…」
体を少しこわばらせて珊瑚が懇願するように晴蘭にそう不安そうに告げてきたので、晴蘭は驚いてすぐに手をぶんぶんを振った。
「大丈夫よ大丈夫!そんな学校とか親御さんに連絡とかしないわよ。うちの店、そういうのないから大丈夫!」
「そう…なんですか?」
改めて言われてみると、中学生が寄り道をするのは良くないことかもしれない。しかも制服でうろついているのなら学校へ通報もありうることだったか…。塾に直接行くならまだしも喫茶店に寄るなんてどうなんだろう。いや、しかし夕食をどこかで摂らなければいけない時間に塾があるなら飲食店に寄ることを禁止するだろうか。なんにしても晴蘭には昔の話すぎて覚えていない。
「うちの店、別に時間での年齢制限もないし大丈夫でしょ。近隣の学校からそういう風に連絡ください~とかも聞いたことないし。塾のついでなんでしょ?悪いことなんてしてないわ」
「そう…なんでしょうか」
「そうよ」
まだ自信なさげな珊瑚に強気で言い切る。自分にも言い聞かせる勢いも含めて。
そんなことを話していると八野木駅の入り口に到着してしまった。
「送ってくださってありがとうございました」
ぺこりとお辞儀を深めにする珊瑚から傘を回収して、扉を開ける姿を見送る。
「またいつでも来なさい!待ってるからね!」
晴蘭が手を大きめに振ると珊瑚もペコペコをお辞儀をしながら胸元で小さく手を振り返し階段を上がって見えなくなっていった。ほんのり雨脚が弱まったきがする中、晴蘭は片方の傘を射し来た道を戻る。珊瑚が塾を終えて家へ帰る頃には止んでいればいいけれど、と歩く度視界に入るビニール傘を見ながら願う。
―これが晴蘭と珊瑚が喫茶店以外で話した最初の日だった。