9.ニューヨークの日々
ニューヨークは暑かった。東京に比べるとずいぶん緯度が高いので、てっきり涼しいだろうと思っていたのだが、それは甘かった。実際は日本と同じでじめじめと蒸し暑く、ちょっと歩いただけでも汗をかいてしまうほどだった。街の至る所にある看板が、もし横文字でなかったらきっと日本だと錯覚をしてしまったに違いない。
ここに昨日着いてからの二日間は、過酷を極めたものであった。
到着した翌日まだ時差ぼけも直っていなかったが、既にアポイントをとっていた提携候補先へと出向いた。ところが話に入るや否や、我々の認識と彼らのそれとは全く違うものであることがわかった。どうやら仲介先として頼んでいたエージェントが、先方とうちの会社の両方に都合のよいことだけを報告していたもので、根っこの大事な部分について何も議論がされていなかったのである。当然私の話を聞いた相手先は事情のあまりの違いに驚き慌てふためいていた。硬直化しそうな状況が数分おきに起こりそうな状況であったが、まずは問題点を整理し、溝をひとつづつ埋めていくという根気のいる作業を続けた。元来米国人は、きちんと筋道を立てて説明し、それが理にかなっていれば、大抵の人は話をわかってくれるのである。そういう気持ちで丸一日にわたり現プロジェクトの内容を正確に説明しなおし、今後のマーケットについてプレゼンを行った。そして説明が終わる頃にはなってようやくお互いの認識を一つにまとめることができた。
ようやく一日を終え、へとへとに疲れ果ててホテルに戻ると、以前彼女がニューヨークに来たときに世話になった私の友人からメッセージが入っていた。「食事でもどうか?」というお誘いであった。本当であればこのまま今すぐにでもベットにもぐりこみたい気分でもあったが、もう彼ともかれこれ二年半会っていないことを考えたらやはり直ぐにでも会いたくなり、自分の体に鞭をうって出かけることにした。
指定されたイタリアンレストランはミッドタウンのサードアベニューの近くにあった。重いドアを押し開けて奥のほうに進むと、すぐに下におりていく階段があった。その奥は薄暗かったのだが、すぐにとても懐かしい顔を見つけることができた。
あの頃と変わらない友人がそこにいたのである。
「久しぶりだね、元気にしてた?」とお互いに握手を交わし、席についた。
それからワインを傾けながらお互いの空白の時間を埋める楽しい会話に花が咲いた。私は疲れていることなど、もう忘れていた。
「ところで今回は、どういう仕事できたのかい?」と友人がふと訊ねた。
私は今携わっている仕事のないようについて、差し支えない程度に彼に話をした。
提携先の話になったときに、彼の顔がにわかに曇った。
「どうしたんだい? 何か・・・?」と私は聞いてみた。
彼はふと考えながら、
「いや、その会社なんだけど、確か南米の方に多額の不良債権を抱え込んでいるという情報があるんだよ。それにね、水面下で他の会社がかなり大掛かりに買収工作をしているうわさもあるんだ。どちらにせよ、良い話は聞かないんだ。僕のほうでも調べてみるけど、一度君の上司にも確認をしたほうが良いかもしれないね。」
いやな予感がした。
その後この話は途切れてしまい、別の話へと切り替わった。
私もとりあえず忘れることにした。
当然切り替わった幾多の話の中には、もちろんこないだの彼女の話もしっかり入っており、追求された。私はその辺はうまく口を濁しながらのらりくらりとぎりぎりのところで逃げていた。そのお互いの絶妙な駆け引きがたまらなく新鮮で、「昔はこんな話をよくしたよね? 楽しかったね?」という風にどんな話をしても最後はそこに落ち着くのであった。
楽しい時間が過ぎるのは早いもので、あっという間に終演の時刻となった。我々は仕事が終わったらもう一度ゆっくりとジャズでも聴きながら、今一度語り合おうと約束し、別れた。
もう時間はかなり遅かった。
部屋に戻ると彼女のところに電話をした。
仕事はとりあえず明日までに終わるので、予定通り明後日にそっちに行くと連絡した。彼女の方もいよいよ現実の出会いが近づき、うれしさと戸惑いを隠しきれない様子であった。
約五分ほど話をして、空港で逢うことを約束し電話を置いた。
その後会社に電話をかけた。今の時間であれば日本はちょうどお昼ごろ。上司につないでもらい、今日の報告をした。当初の内容と現実がかなり食い違っていたことに関しては、上司もびっくりしていた。とりあえずそれは解決したことを報告すると、安堵した様子であった。
もう一つ友人からの情報について話をしてみた。私はそれが妙にひっかかっていたのだ。
「いや、そんな話は聞いたことがない。多分何かの間違いだろう。一応調べて見るが、君が心配することではない。それよりも仕事のほうをうまくやってくれ。」と上司は言った。
私は大丈夫なのだろうか? という気はしたが、「はい」とだけ返事して連絡を終えた。そこまで心配しているだけの余裕がないのも事実であった。こういう風に仕事のことばかり考えていると、言いようのない気持ちに襲われる。とりあえずシャワーでも浴びて心を落ち着かせることにした。
温水を浴びながら、ふと彼女のことを考えた。思えば今彼女と同じ時間を共有しているのである。日本にいれば十三時間も時差があり、昼夜が逆転しているのである。いつも会えばこっちは「こんばんは」で、彼女は「こんにちは」であった。それが、今はお互いに「こんばんは」の時間を共有しているのである。初めて出会ったときには全く想像できなかったことである。あの頃は本当に逢えるなんてことは思ってもみなかった。それが実現するものとも考えることはできなかった。
いろいろな事件があった。でも何故か運命に導かれるかのようにここまで来た。不思議なことだ。多分他の人からみれば「そんなこと、映画でもあるまいし・・・。」と言うだろう。でも明後日にはそれが現実となるのだ。うれしいと思う反面、いったいどうなってしまうのだろうか? という不安も覚える。ただ彼女がいなければここまで来れなかったのも確かである。
今思うこと、それは「彼女との出逢い」であり、今の私にはそれがすべてであった。
シャワーを終えると冷蔵庫から陣を取り出し一杯あおった。
それから鞄のなかの睡眠薬をとりだし、一錠口にした。私は妻が入院した頃から極度の不眠症に襲われていた。仕事のストレス、家庭での事情等々で常に緊張のしっぱなしだったからかもしれない。特に妻と別居状態になった時には、もうまともに眠ることができなかった。医者に行ってみたが、「仕事を軽くして、何か気晴らしをやったほうがいいよ・・・。」なんて当たり前のことばかり言われ、なかなか薬を出してもらえなかった。仕方なく、友人の薬剤師に違法と知りつつも拝み倒し、強めの睡眠薬を融通してもらった。これを一錠飲むと良く眠れるのである。ここしばらくの間、私は眠りにつくために薬の力を借りていたのであった。
エアコンを少し弱め、私はベットに入った。もちろん考えているのは彼女のことだけであった。
私は眠りに落ちた。