7.二つの事件
二週間後私の海外出張は六月下旬と決まった。日程は約十日間。仕事は四、五日程度で終わるのだが、ニューヨークの友人からの誘いもあり、出張にあわせて少し早めのひとりだけの夏休みをもらえるように上司に頼み込んだ。もちろんこの日数には彼女とのランデブーも含まれていた。何度も連絡を取りながらスケジュール調整をする日々が続いた。
海外出張が決まるまで、彼女の住んでいるところについて詳しく言及したことはなかった。カナダの東部としか具体的には聞いていなかった。というのも、本当に彼女のいるところまで自分が出かけるとは思っていなかったからである。よくよく聞くと、彼女が住んでいるのはカナダの首都、オタワの近郊であった。この街は元々フランス領ケベックとイギリス領オンタリオの境界線上に作られた街である。したがって両国の文化が融合しており、北米大陸の中でも少し趣がかわった場所らしい。彼女はそう言っていた。日本に居て思うのだが、このカナダ東部というのは以外になじみが薄い場所であった。はっきり言って、セントローレンス川沿いにある緑と湖の街、と言う以外これといってイメージすることができなかったのである。
彼女のところには週末を含めた三泊四日の予定で行くことにし、宿泊先のホテルを探してもらうことにした。私自身も航空会社に予約をいれ、渡航のための手続きに入った。ゴールデンウィークが始まるころにはおおよそのスケジュールを確定することができた。
ちょうどそれと前後して、二つの事件が起こった。彼女と私の双方でそれぞれ起こったことであった。
彼女の事件は、パソコンが壊れてしまったことである。どうも宿題とかをやっているうちにふと珈琲をこぼしてしまったらしいのだ。いきなり彼女から泣きそうな声で電話が入ったときには、「いったい何が起こったのだろうか?」とびっくりしてしまった。修理をして直るまでには一週間くらいかかるらしかった。メールだけ通じないのであればよかったのだが、ちょうど間の悪いことに彼女がこの時期別のアパートに引っ越すことになっていたのだ。彼女は携帯電話を持っていなかったので、連絡には家の固定電話を使うしかなかった。だからこの引越しをして新しいアパートに電話が入るまでの約二週間、全くというほど連絡が取れない状態になってしまったのである。非常にもどかしく歯がゆい日々をお互いに経験することになった。
特に私の場合は、もうひとつの事件も絡んでしまい、彼女と連絡をとれなくなったことで、精神的にかなり追い込まれることになったのである。
それは妻との関係であった。
結婚するまでにかなり長い間付き合っていたこともあり、まだ五年と言えどもお互いにかなりの倦怠期に入っていた。おまけに子供が小さいこともあり、二人の時には感じなかったお互いの生活への制約が徐々に増してきた。私は子供との相性があまり良くなかったこともあり、ここ一、二年の間、妻との口論が絶えなかった。今回も発端はささいなことであったのだが、私も精神的に落ち着いていなかったせいか、お互いの感情のすれ違いは急激に膨らみ別居という事態になってしまった。
妻が居なくなってわかったことがあった。私は既に両親が他界してしまっていたので、一人で生活をすることは文字通りしばらくの間、天外孤独を意味するものであった。
一人になってみると全く持ってやりきれない。大きな心の支えである妻と新しい支えである彼女の両方を一度に失くしてしまったのである。まさに私の心情は何も見えない暗い大海の中に放り出されたようであった。
私はそういうことを忘れようと仕事に没頭しようとした。しかしそれもできなかった。何か緊張の糸がぷつりと切れたようで、集中することができなかった。
結局のところ、彼女とメールが再会するまでの間、ただ周りに流されるだけの抜け殻の日々を送ったのである。
それ故、彼女から「パソコンが直りました! これからまたメールできるわね?」という連絡が入ったときはそれこそ一筋の光明を見つけたようなそんな感じさえしたのである。
それからの数日間、私は子供のように彼女に一方的にメールを送った。どんなにうれしかったか・・・。今でも忘れることができない。彼女はそんな私の言うことを優しく包み込んでくれた。そして子供を愛するような言葉で癒してくれた。
「やはり彼女こそ私の心の支えなのだ。」それが私なりの結論だったのかもしれない。
五月の終わりになり妻と私はどちらからともなく歩み寄りを見せ、別居は解除されることになった。それは子供に対する面子からだったかもしれない。一応表面上は元の鞘に納まったのである。
しかし私の心の中には、もう妻はいなかった・・・。