5.電話
彼女との時差は十三時間あった。したがって日本のお昼に電話をかけると向こうは夜中の一時。でも学生の彼女にとってみればそんな遅い時間でも勉強に一息つけるような時間だったのだ。
私は早めのお昼に出るといって、近くの公園まで出てきた。ここに来れば顔見知りの人間に出会うこともないだろうし、携帯電話も電波が微弱で途中で不意に切れるということもないだろう。安心して電話ができる。私は奥の方の誰もいないベンチに腰掛けると、カバンからメモを取り出した。メールでもらって番号を何度も確かめた後、思いっきり深呼吸してから電話をかけてみた。
呼び出し音が続く・・・。本当に長い時間に感じられた。「第一声は何ていうのだろうか?」と考えながら・・・。
「ハロー?」と電話の向こう側から澄んだ声が響く。私の想像通りの声であった。
「もしもし・・・。」と言ったのだが、その後の声が出てこない。僅か数秒の間に私の喉は緊張でカラカラになってしまっていた。
緊張している自分、それに彼女は気がついたようだった。
「あ! こんばんは! はじめまして・・・。」
その言葉で私は我を取り戻した。
「あ、いいえ、こちらこそ。はじめました。夜分遅くに電話してすみません。勉強の邪魔じゃ・・・、なかったんですか?」と何とか言葉をつなげた。
「え、ええ・・・。大丈夫です。」彼女も答える。でもその声は、最初よりも緊張感が増していた。
「あ、あのぉ・・・。」とその後の言葉が続かなかった。彼女もそうだった。お互いに緊張しすぎて何をしゃべっていいのか、言葉にならないのである。
今まであれだけメールのやりとりをしたり、チャットでしゃべっていたりしていたのだが、いざ本番になって会話にならないのである。
「・・・・・・。」何度も沈黙の時間が続いた。そして・・・拙い会話が始まる。
何度も沈黙と拙い会話が続いた。緊張の呪縛からどちらも抜け出せないでいた。
彼女とのファーストコンタクトはこうした重苦しい空気の中、それでも約十分ほど続いた。決して話が弾むという雰囲気にはならずに・・・。
私は電話を切った。初めてとしては失敗ばかりのものであっただろう。でもなんとも言えない感覚が残った。このコンタクトからは何も得ることはできなかったのであろうか? いやそんなことはない。彼女の声が、肉声が聞けたのだ。今まで二次元の世界にしかわからなかった彼女の存在が、初めて三次元の世界に姿を現したのである。それだけでもすばらしい収穫ではなかったのだろうか? 「彼女は実在するのだ!」その事実だけでも私は満足できるすばらしいものであったのだ。
彼女の声が耳から離れなかった・・・。
仕事を終えて帰宅すると、プライベートのメールをチェックした。彼女からのメールがあった。急いで開いて見る。そこには今日の彼女の感想が書いてあった。
「いろいろなことをお話したかったのですが、でも緊張をしてしまいました。ごめんなさい。声を聞いて安心しました。優しそうな人ですね。イメージ通りでした・・・。」と綴ってあった。
私はうれしくて飛び上がりそうになった。
彼女のメールには続きがあった。
「私のことはどうお感じになられましたか? 少し内気に感じられたかもしれませんが、本当はもっと勝気なんですよ! 今度お話するときはもっとしゃべれるように頑張ります!」と書かれていた。
私は彼女の声がイメージ通りであったこと、こっちももっともっと話したかったこと、素敵な女性であろうこと等々をしたため、返信した。それと併せて週末のネットでのデートの約束も入れておいた。
ネットでのデートはこの電話のことがもちろん中心になった。どうしてネット上なら簡単に話ができるのに、メールなら情感をこめて話ができるのに、なぜ電話だとそれができなかったのか? これだけで延々二時間以上も話が続いた。でもその中で結局はお互いに心遠からずの存在であること、その意識が言葉という三次元的手段ではまだ十分に表現できないのであろうということになった。
ちょうどこのデートが終盤に差し掛かったこと、どちらからともなく、「あの声の人(すなわちお互い同士なのだが・・・)はいったいどんな顔をしているのであろうか?」という話題になった。誰に似ているとか、性格はどうだとかいう内容のものだが、今まで二次元の付き合いしか知らなかった者同士があの電話をきっかけにしてお互いを三次元のキャンパスの上に描き出そうとしたのである。自然の成り行きと言えばそうなのだが、少し怖いものがあった。
「実態を見せること。」それが私と彼女の一番のハードルであることは間違いない。そしてそれはいつか通らねばならないことでもあった。
その日の最後のやりとりの中で、お互いの写真を送りあおうということになった。