4.探りあい
彼女とのやりとりはメールと週末のチャットだけであった。いつも話すことは仕事や学校のこと、身の回りで起きたこと、趣味・料理・政治経済・心理学、時として恋愛論その他諸々と多岐にわたっていた。でも不思議なことに自分たちのことについて、特に外見とかについてはなかなか話題に出さなかった。
ある日チャットをしていると、今までタブーとされていたその話題に、どちらからともなく触れ始めた。触れ始めるとお互い同士が気になる。既に知り合ってからかなりの日数が経過しており、交換したメールも当に百通以上になっていれば、そうならないほうが逆に不思議なのである。そういう意味で、お互いに「もっと良く知りたい」と思う欲望の素地は十分にできあがっていたのである。「どんな感じなの?」とか「誰に似ているの?」「背はどのくらい?」とかそういう質問からはじまった。さすがに相手が女性なので、「体重はどのくらい?」とか「やせてるの? ぽっちゃりなの?」と言うことは聞けなかったが・・・。でもそういう月並みな質問からお互いの手探りの心理戦は開始されていったのである。
「相手に嫌われたくない」という気持ちでもやはりネットの中では別人格というのが当たり前の世界で、「自分をできるだけ自分の姿で相手に受け入れてもらいたい」というちょっと矛盾した感情がお互いにあったかもしれない。
特に私のほうは彼女よりも十歳も年上、おまけに妻帯者でもあった。この時点で既に彼女に対する「恋愛」には大きなハンディを背負っていたのである。このことは彼女と交際を始めた時にきちんと話をしていた。でもその頃はこんなに真面目な付き合いになるとは思っていなかった。
しかしながら時間が経過するにしたがい私の心は自分の気持ちとは裏腹に彼女の方へゆっくりと惹かれていってしまった。妻は愛していたが、その感情とは別次元の彼女の魅力に溺れていったのである。
もはや彼女なくしては自分は維持できない。
当然のことながらそういう状況になれば彼女のことをもっと知りたくなる。「彼女はいったいどんな顔をしているのだろうか? 声は? 姿は・・・?」 この日の私の一言一句はまさにそれを探すことにのみ傾けられていた。
一方で彼女の方も私のことを知りたがっている様子も痛いほどわかっていた。お互いに相手からの質問に注意深く答えつつ、「ところであなたは?」といったようにリピートして聞き返すというチャットの高度なテクニックを駆使しながら、相手のベールを一枚ずつはがしていくのである。まさにそれは好きな女性とひとつになるあの時と同じような感じがする。はやる気持ちを抑えつつ、ゆっくりと相手の出方を味わいながらのコミュニケーションなのである。
彼女の言葉の使いまわしや、表現等からひと際抜けた知性の高さが伺われる。それが私にはうれしかった。こういうチャットだと出会いの機会は多いにしても、そういう人に出会える可能性は極めて少ないと聞いていたからだ。「きっと素敵な人だ!」と自分に言い聞かせるたびに胸が高鳴る。このとき、何年も忘れていたあの恋のときめきを私は再び感じていたのであった。
「とってもやさしいお兄さんみたいですね!」
彼女の言葉はこれで締めくくられた。
「あぁ・・・良かった。彼女に嫌われなくて・・・。」
それが私の実感であった。
そして数日後、彼女は突然私の声が聞きたいと言い出した。私も彼女とは話をしてみたかった。その旨を伝えると、彼女は留学先の電話番号をメールに書いてきた。私はそれを見たとき、思わず息を飲んでしまった。「ここに電話すれば本当の彼女に触れることができる・・・。」そう思うと、自分の気持ちは次第に抑えきれないものになっていった。
しかしながら、私は何日もの間、電話することができなかった。するべきか否か迷っていたのである。彼女への気持ちを自覚している自分、既婚者である自分、恥ずかしさに戸惑っている自分など、いろいろな感情の倒錯に私は悩んでいたのである。
やがて一週間後、私は意を決して彼女に電話をかけると宣言した。