16.カフェテラス
朝、目が醒めたとき、彼女はもういなかった。サイドボードに今日の待ち合わせの場所と時間を書き残して自分の家に戻ったようだった。
彼女のぬくもりはまだこの腕の中にあった。
でも昨日どうしてあのようになったのだろうか? あれで本当によかったのだろうか?
確かに日本を出発するときに、既に私の気持ちは決まっていた。私の求めているのは妻ではなく彼女であったのは確かだった。その愛すべき人と気持ちも体もひとつにできたこと、それこそが私が一番欲していたものであった。
私はうれしかった。でも、その反面、何とも言えない不安に襲われていた。
何かが違う。その何かを私は理解していた。
明らかに自分の愛してきた「彼女」が現実の彼女と違うのだ。パソコンの中にいた「彼女」はもっと強く、知的で、自分にとって常に何か新しいものを与えてくれるような存在であった。そして私を優しく包んでくれる人だった。
でも彼女は違う。
普通の女の子のようにくじけそうになりながらも一生懸命遠い異国の地で頑張っている。それはとても強いことなのかもしれない。でも常に誰かの支えを求めている。それが無くては生きていけないのだ。とてもか弱い存在なのだ。
私の求めている強い「彼女」とはイメージがだいぶ違う。それは事実であった。
それでも私は彼女を愛したいと思った。
それは既に私自身にも心を支えてくれる人がいなくなってしまったからだ。つまり彼女無しでは生きていけない状態になってしまっているのだ。今の私は今の彼女とまるで同じ存在なのである。
「理想と現実のギャップ」 それは努力して埋めていこうと私は思っていた。
私はベットから起き上がると、時間を確認してからシャワーを浴びた。彼女との待ち合わせの時間は午後一時。国立美術館のカフェテラスだった。時間はまだ十分にあった。
珈琲を飲み、新聞に目を通した。日本ではないので特にこれといった情報が得られるわけでもなかった。テレビをつけて一応チャンネルを回してみる。相変わらず米国の景気好調な話題が流れている。
しばらくぼーっとした状態になる。その間中、「今日いったいどんな言葉を最初にかけたらいいのだろうか?」とか、「これからどうやってつきあっていくのがいいのだろうか?」などということが頭の中に浮かんでは消え、消えては浮かんでいた。めぐる思いはつきることがなかった。
やがてお昼過ぎになり、自分の部屋を出た。国立美術館まではホテルから歩いて十分くらいの道程であった。
入場券を買い、長いスロープを二階まで歩いて上っていった。突き当りのところを右手に行くと、直ぐに三階へのスロープがあり、その脇にはカフェテラスに向かう廊下があった。私はその廊下をゆっくりと進んだ。
時間は待ち合わせの時間までまだ五分くらいあったが、私は中を覗き込んでみた。
そこは落ち着いた感じのラウンジで、壁のあちらこちらにこの美術館らしい絵が飾ってあった。
よく見ると、白いワンピースを来た彼女が置くのテーブルに・・・、いた。
ゆっくりと近づいていくと彼女の方も気がついたようである。私は小さく手を上げながら彼女に微笑んだ。同じテーブルに座ると、アイスティーを頼んだ。
「昨日はごめんね・・・。」どういうわけかわからなかったが、私から出た最初の言葉はこれだった。
「いいえ、こちらこそ・・・。あんまり気にしないで。でもはしたない女の子と思ったでしょう? 会って間もないのにあんなことになっちゃって・・・。」
彼女は下を向いて言う。
「そんなことはないよ・・・。」
「いいの、そんなことは・・・。私、寂しかったのかもしれない。日本においてきた彼と別れて、新しく見つけた恋人とも破局して・・・。その寂しさを忘れたかったのかも知れない。
彼女は初めて顔を上げて言った。
「そうかもしれないけど・・・、でもやっぱり失ったものが多すぎたからそれは仕方がないことだったかもしれない。でも昨日の私は単なる彼らの代わりだったわけではないでしょう?」
私は不安になって訊ねた。
「いいえ、決してそんなことはないです。あなたはいつも私に優しかった。私が彼氏と別れてずっと落ち込んだときも心の支えになってくれた。どれだけ救われたか・・・。あなたがいなかったら、私、本当に立ち直れたかどうかわからなかった。感謝してるんです。」
「いや、逆に感謝するのは私だよ。この半年の間、ずいぶん苦しんだんだ。でもそのときに絵理奈さんがいたからこそやってこれたのだと思う。そういうあなたに逢いたくてここまで来たんだよ。そして・・・。できることならこれからもずっと付き合っていきたいと思っている。」
私は押さえ込んできた感情を吐露するように彼女に言った。
しばらく何もない時間が過ぎた・・・。
「ええ、できれば私もそうしたいと思っています。でも・・・。」
「でも・・・、って?」
「あなたには奥さんもいるし、子供もいる。私との間でママゴト的な恋愛はできても、本当に好きになることはできないわ・・・。」
彼女は何か吹っ切るように言った。
「もう、私は妻との明るい未来はないと思っている。いつの間にか絵理奈が私の一番大切な部分になってしまった・・・。」
「それでも・・・、それでも最後に子供がいるわ。彼らの為だったらどんなことになっても結局元に戻ることができる。私、そんな気がするの・・・。」
彼女は強い口調で言った。私は何も言えなかった。
「それに・・・、あなたに抱かれてわかったの。私の求めている『あなた』は、あなたじゃなくて、パソコンの中にいる『あなた』だったの・・・。」
それは私には衝撃的すぎる一言であった。彼女も私と同じことを感じていたのだ。
「でも、バーチャルな世界と現実とのギャップは確かにあるけど、それはお互いに理解しあえるし、乗り越えられると思う。あなたとこの三日間一緒にいて、私も同じ事を感じた。でもあなたを受け止めることができると思う。」
私は言った。でも彼女は悲しげに答えた。
「私は・・・、無理かもしれない。」
いつしか彼女の声は涙声になっていた。
「もし、この間別れたあの人と出会わなければ私はあなたを受けとめられたかもしれない。でもバーチャルな世界と現実の恋愛を一度に経験してしまったの。それでやっぱり愛したい人は常に自分の傍にいなければいけないことがわかったの。私だってあなたを好きになりたい。でもあなたは明日帰ってしまう。そうすれば私はまた一人。遠い空を見つめ、物思いにふける日々が続くわ。もうそれはいやなの。」
彼女の目からきらりと光るものが見えた。
「私は、絵理奈が日本に帰ってくるまで待っている。それじゃだめなのか? 妻とのことはもう覚悟ができている。あなたさえ、『うん』と言ってくれれば私は必ず待っている。それでも・・・、無理なのかい?」
私は苦虫を噛み潰すように言った。
「それは・・・、きっとできないと思う。時間が経てばまた人生も変わる。私達が今日と同じ日を、同じ気持ちをずっと持ち続けることはできないわ・・・。わかってください。やっぱり私達は現実の世界で逢ってはいけなかったのよ・・・。」
彼女の頬を大粒の涙が零れ落ちた。
私は何も言うことができなかった。
そして二人は何も言わないまま、永遠の時間が刻まれていく。どのくらいったのだろうか? 私はようやく自分の気持ちに整理をつけた。
「そうだね、ここで終わりにした方がいいかもしれない・・・。」
私は彼女に静かに言った。