15.鏡
彼女は鏡の前にたたずんでいた。昨日のことを考えていた。
あれからホテルに行って・・・、彼に抱かれた。
それは自分が求めたことであった。
どうしてそうなったのだろうか? 自分ではよくわからない。
でも・・・、終わったあと何かが違った。 彼の腕から離れた時、それがわかった。
「別れたあの人を愛していたから?」
そうじゃない。あの人とはそうなることが運命だった。それはそれだけのこと。自分でも納得していたじゃない?
「それじゃ、どうしてそう思ったの?」 鏡の中の「彼女」は問いかける。
彼は確かに優しい。奥さんや子供がいて、年齢も私よりずっと上だけど、そんなことは問題じゃないの・・・。それを差し引いたって余りある魅力が彼にはある。
そう、確かに素敵な人・・・。でも何かが違う。私が好きな「彼」は、その彼ではない。
「じゃあ、誰なの?」
そう、あの人はパソコンの中にいた。優しい言葉で私を包んでくれた。その「彼」と昨日の彼は同じ人。それは事実のはず。
「はず・・・? どういうこと?」
やっぱり違う。言葉では表現できない。ただ、私の好きな「彼」は彼と違う人なの。
「彼」はいつも私の傍にいてくれた。いつも優しい言葉をかけてくれた。でも昨日の彼はその優しい「彼」とは違う。
そう、「彼」は私の心の中にいた・・・。
「心の中にいた?」 不思議そうにもう一人の「彼女」は問いかける。
私の好きな人はパソコンの中の「彼」。現実の彼ではない。それが今わかった。
「彼」とは現実の世界であってはいけなかったのかもしれない・・・。現実の恋と幻想の恋は違うのだ。
「現実の恋と幻想の恋って?」
別れたあの人とは、目で見て、声を聞き、肌で感じながら恋をした。あの人の考えること、感じたことを確かめながら次第に魅かれ、恋をし、そして終わった。それはそれで自分で納得できたことだった。
でも「彼」は違う。
「彼」との恋は常に文字を介してのものだった。彼の言葉を見て自分が想像した「彼」に恋をしていたのである。「彼」をイメージし、自らそれに溺れることを望んだのだ。ただ現実の彼が自分の考えていた「彼」とは違っていたのだ。
「どうして、溺れたの?」 悲しげな瞳をした「彼女」は問いかける。
わからない、どうしてもわからない・・・。
いや本当は、自分でも良くわかっているのだ。
それはきっと・・・、さびしかったから・・・。
遠い異国の地でひとり生活している自分。しばらく暮らすうちにどこかにこころの拠り所が欲しかったのだ。それは別に「彼」でなくてもよかったのだ。
ただ結果的に、恋愛と言う対象の方が溺れやすかったのが事実である。
彼との出逢いはすべきではなかった。彼は「彼」のままでいるべきだった。
「どうするの? これから?」 最後の質問を「彼女」は冷たくなげかけた。
どうしたらいいの?
どうしよう?
わからない・・・。
彼女は泣いていた。
柔らかな朝日が窓の隙間から差し込んでいた。その光が彼女の涙を輝かせている。一粒、そして一粒と次第に大きくなって頬を濡らしていく。やがてあふれる涙と感情を抑えきれることができなくなり、彼女は顔を覆って鏡の前に崩れ落ちた。
鏡のなかの「彼女」はそんな彼女をやさしく見つめていた。