終章(前編)「さらば邪神城」
「ぼうっとしてないで、一郎さんも、荷物をまとめてくれないかしら」
窓の前に立ち、ガラス越しに朝日を浴びていた俺は、珠美さんから軽く怒られてしまった。
「すいません、今やります……」
学校の先生から注意された子供のように、神妙な顔をして、リュックサックに荷物を詰め始める。
そう。
俺たちは今日、この『邪神城』を発つ予定なのだ。
もう、事件も解決したのだから。
そして、昼食後。
玄関まで見送りに現れたのは、蛇心雄太郎と安江だけだった。とはいえ、今や蛇心家も二人になってしまったのだから、これはこれで、一族総出のお見送りということになるのだろうか。
使用人たちは、それぞれの仕事で忙しくて、手が離せないのだろう。四人から三人になったのだから、無理もない話だ。大神健助が抜けた分は、正田フミが忍者のような動きで働いてカバーしているのかもしれない。そんな勝手な想像をしてしまった。
また、俺たち以外の宿泊客だった阪木正一は、早朝のうちに――まだ俺や珠美さんが寝ている間に――、サッサと帰ってしまったという。恋人と一緒に来た『邪神城』を一人で去ることになり、どのような気持ちで出ていったのだろうか。
「御利用ありがとうございました」
「またのお越しをお待ちしております」
蛇心家の二人が、白蛇旅館の主人と女将として、型通りの挨拶を口にする。
蛇心安江は、少しやつれているように見えた。事件が解決した今になって、ドッと心労が溢れ出たのかもしれない。それでもニコニコとした表情で客を見送るのが女将の仕事、と言わんばかりの態度だが、明らかに作り笑顔だった。
一方、蛇心雄太郎は、旅館の主人としてよりも、むしろ夫という役割を重視していたのかもしれない。自分が支えていないと妻が倒れてしまうと思っているかのように、ピタリと寄り添って立っていた。
「こちらこそ、どうもありがとうございました。大変お世話になりまして……」
珠美さんが礼を述べるのを聞きながら、俺は、ふと思う。
蛇心家の人々の顔を見るのは、これが最後になるのだな、と。
歩き始めて、建物から少し離れたところで。
「赤羽夕子の正体は犯人の扮装……。そこまでは、私たちの思った通りでしたのね」
珠美さんが、思い出したかのように呟いた。一昨日、二人で部屋で話し合った時のことを考えているのだろう。
「そうですね」
と応えながら、あらためて俺は『邪神城』を振り返る。
この場所からだと、俺たちが泊まった部屋だけでなく、赤羽夕子の404号室もハッキリと見えていた。
「ちょうど、この辺りだったかしら。私たちが夕方、あれを目撃したのは……」
という珠美さんの言葉に、俺は黙って頷く。
あの時の赤羽夕子は大神健助だったわけだから、その一週間前に出現したという話も当然、彼だったことになる。問題の部屋には鍵が掛かっておらず、簡単に入り込めたからこそ、そのような芸当も可能だったのだろう。
ただし、今までの赤いチャイナドレスの正体が、全て彼だったはずはない。大神健助が『邪神城』に来る前にも、たくさんの目撃談があったのだから。
その大部分は迷信深い人々による思い込みや見間違えと考えるべきだろうが、もしかすると、中には誰かの悪戯もあったのかもしれない。出入り自由の部屋だから、ちょっとした悪ふざけのつもりで、赤い服を着て部屋に入った者もいたかもしれないのだ。
だが、そんな古い話に関しては、今となっては、真相は誰にも解明できないだろう……。
白蛇旅館の敷地を抜けて、もう『邪神城』が見えなくなっても、俺たちは事件の話を続けていた。
「最後に美枝さんが亡くなられたから……。結局、助けることが出来たのは、二人だけでしたのね」
「……そういうことになりますね」
内心でギクリとしながら、俺は珠美さんの発言を肯定する。
今回の連続殺人は、蛇心一族に対する復讐だったのだから、四人全員が標的だったはず。「緋蒼村の事件で失われた十人の命の代わりに、別の連続殺人を途中で止めることで、十人の命を救う」という俺たちの目的にしてみれば、二人救えただけでも、少しはクリアできたと考えるべきかもしれないが……。
いや、はたして、そのカウント方法で良いのだろうか。最初の計画に含まれていない杉原好恵まで殺されてしまった時点で、もう「二人救えた」とは言えないのではないか。
そもそも『邪神城』での最初の夜、俺は珠美さんに「事件を未然に防いでみせる」と宣言しているのだ。今となっては、大口を叩いたと言われても返す言葉がない……。
少し落ち込んで、俺は下を向いてしまったが。
次の珠美さんの言葉で、ハッと顔を上げる。
「でも、三人にも四人にも増える二人だわ。安江さんのお腹の中には、赤ちゃんがいるのですから」
そうだ。
最初に会った瞬間、俺でも気づいたように、蛇心安江は身重の女性だった。
今にして思えば。
この時期に大神健助が復讐劇をスタートさせたのも、彼女の妊娠が影響していたのかもしれない。これ以上、蛇心家の者が増えないうちに、殺してしまおうと考えたのかもしれない。
蛇心江美子の事件において、密室トリックを構成する歯車に組み込まれたのは、結果的に俺になったが、あれは偶然に過ぎなかった。もともとは、俺たちの宿泊とは無関係に計画されていた犯行なのだ。俺たちが来る一週間も前に、大神健助は、人々に赤羽夕子の姿を目撃させていたのだから。事件の予兆と思われるように、準備していたのだから。
その辺りの詳しい話は、今ごろ芝崎警部たちが、大神健助を問い詰めていることだろう。だが、もう俺には知る由もない。
それよりも。
「妊娠している女性が、このような事件に巻き込まれて……。精神的なショックで、お腹の子供に悪い影響が出ないといいですね」
珠美さんのように未来に目を向けて、俺は、そう呟いた。
すると、珠美さんが笑顔を見せる。
「あら、それは大丈夫じゃないかしら。彼女のことは、きちんと雄太郎さんが支えていくでしょうから」
言われて俺も、最後に目にした二人の姿を思い出す。確かに蛇心雄太郎は、しっかりとした夫らしく、妻に寄り添っていた。
ああ、そうだ。
明治時代の惨劇を生き抜いた二人――蛇心美枝と春日良介――が、現在の蛇心家の祖となったように。
今回の連続殺人を生き残った二人が、新しい蛇心家を築いていくのだろう。
そう考えると、この二人を救えたことには大きな意味がある。俺も希望を感じて、少しは心が軽くなるのだった。




