コロセ
起き上がった白いトンキ族のオスの、右目。そこに、まとわりつくように、黒い影がついていた。その影には、いくつもの目玉がついていて、ギョロギョロと辺りを見渡している。その、影の部分が、喋ったのだ。
「ああ……」
見たら、分かる。それは、可愛い、可愛い、穴の向こうに一人ぼっちでいた、あの子だ。
「おお……おおおおおおおぉぉぉぉ!」
いつの間にか、先ほどまで気絶していたリリードが起き上がり、歓声を上げた。指のなくなった手を天に突き出し、瞳孔を見開いて涙を流している。
リリードの気持ちは、痛いほど理解できる。リリードは、この子をこの世界に呼ぶための穴を開くために、その人生を捧げてきた。これは、賞賛されるべき、偉業の達成である。
だが、同時にオレは、焦燥感に襲われた。この子がこの世界に来たという事は、皆が死ぬ。その運命を変えるためにここへ来たのに、また、失敗した。だから、嬉しいのに、喜べない。
「なんて、可愛い姿なんだ!あああぁあぁぁぁぁぁ!神に、感謝を!感謝を捧げる!」
リリードが見ているのは、身長3メートルはある、トンキ族のオスではない。その、右目の部分。影の部分を見て言っている。
オレと同じく、分かっているのだ。あの影の部分が、穴の向こうの、あの子の姿だと。
そのトンキ族のオスは、ゆったりとした足つきで、リリードに近づいた。
トンキ族がどいたその場所には、どこまでも黒い、オレがつけたままになっていた、腕輪と同じような、どこまでも純粋な黒い跡がついている。それは、あの子がいた場所と、この世界が繋がった証拠。今なら、分かる。これは、あの世界に、この場所が触れたことを意味する。しかし、前に見た時よりも、その跡が大分小さいようだ。
「ん?どうしたんだい?」
トンキ族のオスは、腰を曲げて、リリードを眼前に捕らえる。リリードの目の前に、あの子が来る形となり、リリードは更に興奮した様子だ。
『ギョ。ゲ。ラ』
その子の、魔法が発動した。無詠唱で発動したそれは、相手の体力を奪い取る、魔法。ドレインドローだ。その魔法を受けたリリードは、体力の全てを奪われ、その場に崩れ落ちる。
『ギョ。ギョ。レ』
奪った体力は、余りにも少なく、怒ったのか、彼はその拳を振り上げた。リリードを、殺すつもりだ。
オレは、咄嗟に飛び出して、リリードの裾を掴み取ると、空を飛んだ。祭壇上のてっぺんから、リリードごと飛び降りたのだ。
ここへきて、何度目かの飛び降りとなってしまった。だが、高い場所は嫌いじゃない。安全の保証された、全く痛くなくて危険もない飛び降りなら、もっと嫌いじゃない。
「お兄ちゃん!受け止めろ!」
下でそれを見ていたテレスが、叫ぶのが聞こえた。オレ達の落下地点に、二体のトンキ族のオスが集まり、その大きな手を広げたのが見える。
そのトンキ族のオスの手によってキャッチされる事になるのだが、その際、布団のような、柔らかな感触がオレを包み込んできたのを、オレは忘れない。その、柔らかな物とは、肉球だ。トンキ族のオスの、巨大な肉球。
「大丈夫か、人間」
「すまん。助かった」
「おい、コイツも助けて、どうする。コイツは、オレ達に……!」
もう一体の、リリードをキャッチしたトンキ族のオスが、リリードの腕を引っ張り上げ、呻り声を上げる。今にも噛み付いて、殺しそうな程、憎悪のこもった目でリリードを睨んでいる。
「分かってる。あんたらに、リリードが何をしたか。だけど、リリードに聞くべき事が、まだたくさんある。今は、我慢してくれ。それよりも、あの子だ」
祭壇上から、一歩踏み出し、階段を下りるあの子。その足はおぼつかず、今にも転げ落ちなそうな程に、危うい。
「お兄ちゃん、無事だな!」
「なんとか。コイツらに、助けられたわ」
「うむ。よくやった。それから……父上……」
気を失っているリリードを見て、テレスは表情をゆがめた。それを見て、オレはテレスの頭に、手を乗せる。と、テレスは顔を上げて、ニヤリと笑って見せた。
「大丈夫じゃ、お兄ちゃん。おい、お前。父上を厳重に縛り上げて、外に連れて行け。だが、手を出すことは許さぬ。手を出したものは、このわしが直々に、殺すと流布せよ」
「わ、分かった、小さき者よ」
何故か、トンキ族のオスは、テレスにおとなしく従う。それどころか、テレスに対して、怯えを抱いているようである。一体、オレがいない間に何があったというのだろう。
リリード氏は、テレスに命じられたトンキ族が連れて行き、オレ達はゆっくりと階段を降りてくる、可愛いあの子へと、改めて目を向けた。
「作戦は、失敗じゃな。しかし、完全に失敗したとは言い切れん。アレは、出来損ないじゃ。召喚魔法によってこじ開けられたゲートが、あまりにも小さすぎたのじゃ」
「つまり、勝てるのか?」
「それは、皆の頑張り次第じゃろう。いくら、出来損ないと言えど、アレは世界を飲み込む災厄。油断すれば、全てが飲み込まれるという事を、忘れるな。それから、コレを──」
テレスがオレに向かい、瓶を放り投げてきた。オレはそれを慌てて受け取る。それには、気持ち悪い液体が入っていた。どろどろとしていて、色は紫色。
「トンキ族の中に、魔法薬に詳しい者がいた。おかげで、最後のピースがはまり、完成に至った」
「……まさか、コレが記憶を戻す薬?」
「そうじゃ」
薬?コレが?毒の間違いじゃないのか?まじまじと見て、コレを飲む勇気はオレにはない。
「しかし、試作段階の域からは出ん。まだ試しておらんから、もしかしたら失敗作の可能性もある。自信はあるが、どうだかのう」
オレは、迷いなくティアの方へ駆け寄った。ティアは、トンキ族のオスに運ばれて、壁際に座らされている。相変わらず、ゴミを見るような目でそこにいるが、その目からは戦意が失せて、いつものティアではない。
「ティア!コレを飲め!」
ティアが、オレの声に反応して、顔を上げる。そして、差し出した瓶を見て、顔を引きつらせた。
「……コレを、飲めと?お、お断りします。ご主人様は、裏切られた腹いせに私を毒殺するおつもりですか?」
「しねぇよ、そんな事!?」
「ですが……」
「お兄ちゃん!」
だらだらと話をしすぎた。あの子は階段を降り終わり、ゆったりとした動きで、出口へと向かっていく。
「いいから、飲め!」
オレは、ティアに瓶を押し付けると、あの子の元へ早足で歩み寄る。その横に、テレスも並んできた。
「トンキ族は離れてろ!絶対に近づくな!あの子は、オレ達が止める!」
「あの子?お兄ちゃん、あの子とは、なんじゃ?」
「あ?何言ってやがる。あの、可愛いあの子だ」
「お兄ちゃん……?」
何故か、テレスは心配そうな目で、オレを見てきた。オレにはそれが、よく分からない。何か、変な事を言ったかな?
「下がっていろ」
あの子に、ウェルスが斬りかかった。一瞬にして間合いを詰めたウェルスの動きに、鈍い動きのあの子は、対処が出来ない。その腕が両断されて、宙に舞う。血は、出なかった。どうやら、その身体に血は流れていないようだ。
更に、ウェルスは背後に回りこむと、反対側の腕も斬り飛ばす。動きの早いウェルスに、成す術なしだ。
その光景に、オレは心が痛む。あの子が、傷ついていると言うのに、オレは何をしているんだ?頭が痛い。
──イタイヨ
頭の中で、あの子の声が聞こえた。
いてもたってもいられなくなり、オレはその足を踏み出す。踏み出そうとした。その手を、隣にいるテレスが取り、止めたのだ。
「お兄ちゃんっ!」
「……テレス」
「よく見れば……ボロボロではないか。それに、様子がおかしいぞ。一体、何があった」
「がはっ!」
オレは、いきなりむせてしまった。口から出てきたのは、血。先ほど、祭壇から落ちたときの怪我の影響だろう。別に、痛くもなんともないから、いいけど。
「休め、お兄ちゃん!」
「離せ、テレス。あの子を助けないと……いや、止めないと……」
「お兄ちゃん……コレは……!?」
テレスが、オレが右腕につけたままになっていた、腕輪に気がついた。テレスが乱暴にその腕輪を外すと、投げ捨てる。
「レーニャと、同じか……お兄ちゃん。お主、精神を侵食者に食われておる。意味は、分かるか?」
「……ああ、分かる。すまん」
「謝るな」
なんとなく、遠い遠い場所で、理解していた。オレは、リリードのように、おかしくなっていっている。侵食者を、可愛いなどと思ってしまい、助けたくて、仕方がない。テレスがとめなければ、オレはウェルスに斬り掛かっていただろう。どんどんその気持ちは強くなっていき、歯止めが利かなくなってきている。
「大丈夫。お兄ちゃんは、わしが守ってやる。だから、気を確かに持つのじゃ」
「すまん」
「だから、謝るでない」
笑いかけるテレスに、オレの心は、少し戻ってきた気がする。守るべき物をハッキリとさせておけば、オレは大丈夫だ。
──コロセ
その声に、呼応する。そう言ったのは、可愛いあの子。見ると、ウェルスに斬り刻まれているあの子が、こちらを見ていた。
分かった。殺すよ。オレはそう応えて、テレスに向けて、刀を振り下ろした。