その平凡かつ奇怪な訪問者 - 9
一瞬の目眩と共に、彼は意識を取り戻した。
引いた波が戻ってくるように、すぐにまた、視界が黒く染まる程に脳を揺さぶられる。
頬に当たる、固い草の感触。唇に感じる、雨に濡れた土の味。
どうやら、自分は倒れている。
はあっ、と彼は荒い息をつき、込み上げる吐き気に呻きながらも身を起こそうとした。途端に、激しい頭痛によってそれを阻まれる。支えとして地面についた手が、力を失いあえなく崩れた。
痛み、吐き気。あらゆる不快感に襲われる中、霞む視界に、こわごわと自分の様子を窺っている人影を彼は捉える。
「うっ……」
「あ、あのぉ……大丈夫、ですか……?
どうしてこんな所に倒れて……? それに、その格好は……」
声の高さからすると、相手は若い女性のようだった。
戸惑ってはいるが、敵意は感じられない。ひとまず返事をしようとして、彼は愕然とした。
口は動く。舌も動く。声も出る。しかし、返すべき言葉が思い浮かばない。
相手の言語は理解できるのに、問い掛けに対して持ち出せる解答が、頭の中に一切存在しないのである。
「……俺は……俺は、何故こんな場所に……?
いや、その前にまず、俺は誰なんだ? 俺は……ぐっ! 駄目だ、思い出せない……」
割れそうに痛む頭を押さえ、彼は地面に倒れたまま背を丸めた。
そんな、と、女が驚きに目を丸くする。
「もしかして……憶えていないんですか、自分の事を……!?」
「……かくして四つの大陸を巡る長き旅は終わり、数多の死と嘆きを生んだ大戦に終止符が打たれた。後の世に『暁の戦争』と称されるこの戦乱の影には、常に一人の青年の姿があったという。
決して歴史の表舞台に名を刻もうとしなかった彼を、だが彼に救われた人々は感謝と共に語り継いだ。かつて闇の軍勢を倒し世界に平穏をもたらしたという、神話の英雄の再来。銀の翼を背負う者――と」
「記憶を失って倒れてたところを近くの村の娘さんに助けられて、その子の家に居候する事になった時は、まさかこんな波乱万丈な人生になるなんて思ってもいなかったでしょうねー。
それもこれも、急な増税に応じられない村へ悪徳代官が部下を連れて取り立てに来た日、乱暴されそうになる娘さんを庇ってシエルさんが立ちはだかった瞬間、村に伝わる剣が突如輝き出して……」
「どうして僕はそれをお二人から聞いてるんですか!?」
華々しい英雄譚を和気あいあいと語り合う声に、シエルのあげた悲痛な声が被さる。テーブルに両手をつき、前のめりに迫る姿は、今にもクアンの肩に掴みかからんばかりだった。
いつになく動作に勢いがある。転生について聞く為に来ていたのか、ホールに入ってきたばかりの若い男が、びくりと身を震わせるや、そそくさと引き返していった。転生などただでさえ眉唾ものだというのに、明らかなトラブルの現場を目撃してしまっては逃げるのも無理はない。
盛り上がりに水を差されたヴァイスとクアンが、揃って顔を見合わせた。
「望んだ通りの大冒険であろうに」
「そうですね」
どうして噛み付いてくるのか、と言わんばかりの白けた反応である。求めてやまなかった活躍が、何度しくじろうとも決して諦めなかった夢が、遂に叶ったというのに。
いや、しかし、叶っているのであればそもそもシエルは今ここにいない筈なのであって。
「確かに希望通りの世界に転生はしました! 伝説になるような大冒険もどうやらしたようです!
でも、こうやって戻ってきてる僕にはその記憶が一切無いんですよ!?
向こうに着いたもののこっちの記憶がなくて、こっちに戻ってきたら今度は向こうの記憶がないって! 又聞きで自分の活躍を知ったって何の意味もありません!」
「私も直接見ていた訳ではなく、アレからかい摘んで聞かされた顛末をお前に話しているだけだから、正確には又聞きのそのまた又聞きだな」
「その時点で濃度四分の一になってるじゃないですか! 気楽にかい摘まないでくださいよ僕のもう一つの人生を!」
「まあまあ、勇者になったのはたぶんきっと確かっぽいんですから、何とか無理にでもこれを自分の経験だと思い込む方向でいってみたらどうでしょう?」
「……それ冒険小説に憧れるんじゃなくて、冒険小説を自分のやった事だと信じろって言われてるのと同じですよ?」
「同じですねぇ。でも世の中そういう人も結構数いますし、だいたい楽しそうに生きてますよ」
「僕が目指してるのはそっちの領域じゃないんです……」
元よりフォローする気のないヴァイスとフォローがフォローになっていないクアンを前に、シエルは頭を抱えた。
うつ伏せにテーブルに突っ伏したシエルの背を、よしよしとクアンが撫でる。
説明を聞く限りでは、それはまさしく彼が長年思い描いた申し分ない人生であった。時に傷付き苦しみながらも、弱き人々の流す涙の為に男は戦い、やがて世界を救う。力と名声、そして掛け替えのない友情を得、どうやらロマンスじみた話も幾つかあったようだ。
ケチのつけようがない。文句などあろう筈がない。ただひとつ、たったひとつ、何も憶えていないという点を除けば。
致命的である。
「せめて……ああ、せめてあっちの記憶が残っててくれれば……。
残してきた大切な人達のその後を思って、きみは今どうしているんだろう、幸せに暮らしていると信じている――と、青空を見上げて眩しそうに目を細める事もできたのに……」
「人達と言いながら、即座に対象がヒロインらしき子に絞られてるあたりがまた欲望に忠実ですねぇ。村を発つシエルさんに『お守りだよ。辛くなったらいつでも帰ってきな、あんたはあたし達の家族なんだからね』と、手作りのポプリを渡して泣いたアルマおばあちゃんの事はもう忘れちゃったんですか?」
「だから忘れる以前に知らないんですよ僕はその人を! 誰!?」
「シエル、そう落胆するな。失くした記憶はどうにもしてやれないが、お前が去った後のあちらの世界からの声なら届いているぞ」
「ほ、本当ですか! 育んだ絆は世界をも超える奇跡を起こしたんですね!
アルマおばあちゃんは何て言ってます?」
「やあ、ご苦労ご苦労」
「あんたかよ!」
オーブに映る黒い竜を見て、少しだけ持ち直しかけていたシエルの気分は崖を転がり落ちるように急降下していった。
充分に、予想できた相手ではあったのだが。
ヴァイスがオーブを掴み、わざわざ見やすいようにシエルの前に置く。
シエルの恨めしそうな目付きなど何処吹く風で、異世界の竜は一方的に喋り始めた。蜥蜴と鳥の合いの子のような貌に表情は無いが、オーブ越しに響いてくる声音はいたく上機嫌に聞こえる。
「全然期待してなかったけど、お前なかなかやるもんだな。
ほらさ、わざわざ隣の世界から転生? しかも素質を見込んだ訳でもなく単にやりたいからってだけで? そんなん成功しっこないじゃん。でもまぁお前がどうなろうと別に俺は損しないし、ヴァイスとは付き合いも長いし、変に反対して波風立てんのもなぁってんで引き受けたらさぁ、やや、まさかのまさかだったね!」
「き、気さくに受け入れてくれたと思ってたら、わりとどうでもいい扱いだったんですね僕……」
「だって竜が人間に期待する理由なんかどこにもないじゃん? だから驚いたんだよ。あと20年も戦が続いてたら世界丸ごと暗黒期突入してたけど、今回ので一応は平和になったから、人間達も心穏やかに過ごせるんじゃないかな。俺としちゃあもうちょっと観察続行でも良かったんだが。
ま、よくやったよお前。俺が直接干渉しない中じゃ最上級の経過だったと思うぜ。じゃあな。あ、でももう転生なんて考えない方がいいと思うぞー」
「あっねえ待って! 言うだけ言ってさっさと消えないでくださいよ! 僕の活躍についてもっと詳しく!
伝記になったりしなかったんですか!? いい感じになった女の子達の誰と最終的に結ばれたんですか!? 結局アルマおばあちゃんはどうなったんですか! ちゃんと元気でやってるんですか!? ねえ、ちょっとぉ!!」
「じゃあなー……じゃあなー……じゃあなー……」
オーブに両手で縋り付きながら、密着せんばかりに顔面を近付けて叫び続けるシエルだったが、脳天気なエコーを残して竜の姿は徐々に薄れていき、やがてプツリと途切れた。
沈黙を取り戻した巨大な宝玉の表面に、ぐんにゃりと横に広がったシエルの顔が映り込む。ヴァイスが鉤爪の先端でオーブを何度か叩き、応答が返ってこないのを確かめてから、寝たようだ、と呟く。
あああ……という呻きがシエルの口から零れ、そのまま膝から力が抜けて床に座り込んだ。果てしない脱力感と徒労感が、蹲る彼の背中に重く伸し掛かる。
やっと、やっと叶ったと思ったのに。
なんか叶ったっぽいのに。
長年思い描いていた夢が、自分の知らない所で自分によって達成されていたのを他人から教えてもらう事が、ここまで虚しいものだとは思ってもみなかった。憶えていないから、聞いても嬉しくないし疲れるのである。
だって、要はそれって他人ですよね?と。
「う……」
「う?」
「う、うう……」
「あの……シエルさん……?」
「うぉあああああ!! もおぉぉやだぁぁぁー!!」
とうとうシエルが限界を迎えた。
ヴァイスとクアンの目も気にせず、手足を伸ばして床にひっくり返り、ぐずぐずと子供のように喚き始める。19歳にもなってこれは、醜態としか言いようがない。言いようがないが、そりゃこうなるだろう。むしろ良く持った。
ヴァイスとクアンは顔を見合わせ、やがて揃って小さく苦笑した。
互いに、同じ事を考えているのが分かったのである。
もう嫌だというシエルの嘆き。とうとう挫けてしまったように聞こえるが、これはそうではない。ようやく巡ってきた千載一遇の好機をふいにしてしまったのを悲しみ、怒り、悔しがりながらも、呆れた事にそれでも尚、先へ進むのをやめられない者の放つ咆哮だ。
つまり目の前で起きている爆発は、当たりくじの中の外れくじに癇癪を起こしているようなもの。ひと通り叫んで喚いて手足をばたつかせて、そして痛みが和らげば呪詛を吐きつつまた立ち上がる。
逃げても笑われはしないのに。誰も責めないのに。もっと楽な道が他にあるのに。それがまっとうな人の幸せなのに。
何故か、勇者とかいうこの種の生物は常識も苦痛も人の幸福も無視して自分が決めたゴールだけを目指し続けるのだ。
無駄な努力である。必要性皆無な高望みである。
それでも、うちの転生者は諦めない。
ならば、今彼にかけるべき言葉は制止ではなく。
「まあ、なんだ……人生こういう事もあるさ。泣くだけ泣いたら今日はもう転生の事は忘れて、茶でも飲んで休んでいきなよ。先日町長から貰った菓子もある」
「そうそう、一服は大切ですよ。11回も人生終えた後でっていうのも今更過ぎますけど」
ヴァイスはぞろりと並ぶ牙を覗かせて笑い、クアンは指を一本立てて片目を瞑ってみせる。
この奇妙な人間が、今の世界で必要とされていないのなら、せめて友として慰めと労いを。
クアンが茶器と菓子を取りに、いそいそと休憩室へ向かう。
ヴァイスは、いまだ情けなくべそをかいているシエルを横目に、用済みのオーブを退けて広めのスペースを作る。フウッ、と竜が強めに息を吹き掛けると、そこに備え付けのものとは違う、上品な茶会用のテーブルが出現した。
アールヴァランは今日も晴れ。昼食時を告げる鐘の音が、町の方から微かに聞こえてくる。