その平凡かつ奇怪な訪問者 - 8
呆然と見上げている二人に、古くからの知己だ、とヴァイスは補足する。
この世界に竜がいるのなら、他の世界に竜がいたとしても不思議はない。
また神々と交流を持ち、転生の窓口役などという役割すら請け負っているのだから、世界と世界の境界を超えて交渉を行えるというのも、そこまで規格外の行為ではないのだろう。
だが、それでも、人の視点からはあまりに大きな話だった。可能かもしれないと想像はできても、いざ実際に行うと宣言されると、ただただ驚くしかない。
転生する、ここではない世界へ。
いまだ血と土埃に支配された、濃密な死の匂いが漂う群雄割拠の世界へ。
シエルの体に震えが走った。それは戦場へと送り出される事に対する本能的な恐怖であり、同時に、新しく拓けた領域へ今まさに踏み出そうとしている興奮でもあった。
あくまで他人事なぶん先に我に返ったクアンが、珍しく不満気にヴァイスに訴える。
「ええー、なんですかそれーっ!? 私の時はそこまで配慮してくれなかったじゃないですか!」
「お前は10回も死ななかっただろう。それとも今から10回死ぬか?」
「絶対イヤです」
一片の迷いもなくクアンは拒否した。
シエルも落ち着きを取り戻してきてはいるものの、膝から下の細かな震えは消えない。初めて神殿を訪れた日の様子に、よく似ていた。
「ヴァイス様……嬉しい、ですけど……どうしてそこまで……」
控え目に問う態度もまた、二人と会う前に戻ったようであった。
戦乱続きの混沌とした異世界に転生させるというヴァイスの提案は、シエルの希望に完璧に応えるものだ。少なくとも、停滞続きの状況に風穴を空ける可能性だけはある。ならば喜びこそすれ躊躇する必要はないようにも思えるが、事はそう単純ではない。
手厚く扱われる事で、却って生まれる不安というものがある。
例えば自分が竜に匹敵する程の高位の存在であれば、積極的に協力や融通をしてくれるのはシエルにも分かる。それは対等な相手へ貸しを作り、いずれは借りる事もある、いわば人付き合いだからだ。
しかし彼からヴァイスに返せるものが無い以上、これは一方的な施しである。しかも、転生の基本原則を曲げてまで。
優しくされて逆に身を引くなんて、と不可解そうにクアンが呟く。くれるというのだから喜んで貰っておけばいいのにと言わんばかりである。事実、エルフという種族は恵みを恵みとして素直に受け入れる傾向が強い。
だが、シエルはいくら死んでも懲りないという異常性以外は、どこまでも平均以上あるいは平均以下の小市民だった。
「特別だ」
笑いを含んだ低い声で、ヴァイスがシエルの疑問に答えた。
特別。その一言で呆気なくシエルからは震えが消え、変わって強い感動が胸を満たしていく。
裏がある訳ではなかった。ヴァイスは、本心から気遣って行動してくれているのだ。これ程までに強大な存在が、ちっぽけな自分の為にと思うと、見開いたシエルの目からは涙が零れそうになった。
「というより、10回目まで利用スタンプが溜まった特典だな。10回もやって駄目な奴はもう他所に行くしかないだろうと適当に決めた特典だったが、まさか利用する奴が出てくるとはあの時は思いもしなかった」
「感激を返してください」
升目に10個の印が押された巨大なカードを、ヴァイスが鉤爪で器用に摘んでひらひら振ってみせている。だが経緯はともかく、特典にするからには異世界への移動自体は間違いなく行えるようだ。
「言っておくが、私に出来るのは送り込む事だけだ。勇者になれる保証までは付いてこないぞ?
裏切りによる死は日常茶飯事。終わらぬ国境沿いの戦に解かれる禁呪の封印、昼夜問わず跋扈する闇の獣……。
向こうの荒れ具合たるや、歴史の過渡期を通過して一応は安定期に入っているこちらの世界と比べ物にならぬ。転生したはいいものの、略奪に来た盗賊に殺されて終わる村人止まりな覚悟はしておくようにな。
まあ既に10回生きたまま挽肉にされているお前なら、捕まって拷問されて殺される程度は屁でもないだろうが」
「たったの1回ですもんね、野良犬に噛まれたと思って忘れましょう。
大丈夫、よっぽどの魔法生物を使われない限り男性が妊娠する事はありませんよ」
「お二人の頭の中で今僕はどれだけ凄惨な目に遭いつつあるんですか!?」
「事態は常に最低最悪を想定しろ――クアン、オーブを持ってきてくれ。これより術を執り行う」
「はいはーい、って世界と世界を繋ぐのにも使えるんですかアレ。ほんと万能ですね」
心当たりがある様子で、クアンは椅子から立ち上がるとホール奥に見える扉に入っていった。前に花の茶を淹れてくれた時とは、違う扉である。
即座に仕事に取り掛かる姿を見ても、クアンに、シエルほど異世界の事で驚いた様子はない。先程呆気に取られていたのもヴァイスに食って掛かったのも、異世界の存在を初めて明かされたからというよりは、竜が人間個人を特別扱いした事に驚いて、というのが正確なようだ。あるいは、異世界の事は以前ヴァイスから聞いて知っていたのかもしれない。
少しして、開きっぱなしになっていた扉の向こうから、クアンが台車に乗せた巨大なオブジェを運んできた。遠目にも、かなり大きい。近付いてくると更に大きさが分かる。
それは人間の大人でも到底腕が回り切らない程の、真円の球体だった。
艶のない赤色をした巨大な球を、眩い黄金の台座が抱え込むようにして支えている。蝋燭を立てる燭台に見えなくもなかったが、こちらは全体の大部分を球体が占めており、かなりの寸詰まりである。台座部分の表面には精緻な彫刻が施されており、純粋な美術品として見た場合はこちらの方が見栄えがした。
高さは、直立したシエルより上。彼が視線を真っ直ぐ前に向けると、ちょうど球体の中央あたりにぶつかる。
移動させようとすれば、最低でも大人二人が両側から抱き上げなければ持ち上がりそうにないそれを、クアンはたった一人で軽々と台車から降ろし、ヴァイスとシエルの間に置いた。注意して見てみれば、細身のエルフの全身をうっすら光る霧のようなものが包んでいる。
ヴァイスが、ふっと息を吹きかけてオーブに積もった埃を飛ばした。うっかり吸い込んだシエルが思い切りむせる。
「どうです、派手でしょう。私なんて最初見た時、てっきり偉そうなお客さんが来た時に応接間に置く威嚇用の調度品かと思いましたもん」
言葉を失っているシエルに、何故か自慢するようにクアンが言った。
確かにこれが来客用の席の隣に置いてあったら、さぞかし落ち着かないに違いない。
「これがオーブです。名前はないので、私もヴァイス様もオーブって呼んでます。しょっちゅう使うような道具じゃないですから、普段は布を被せて倉庫の隅っこに寄せてあるんですよ。思い付きで休憩室のインテリアにしてみた事もあったけど、悪趣味すぎて全然休憩にならなくて」
「見るからに凄そうな道具ですし、もうちょっと大切に扱った方がよくないですか」
「神が手掛けた道具は神の力を使わなければ破壊できん。傷付きも壊れもしないのなら雑に扱っても問題なかろう」
淡々とヴァイスが言う。
物に対する人間と竜の価値観の差なのだろうが、有り難みがない。
「ところで今、神様って聞こえたような……」
「神様だよ。この頃お前だけで利用率を上昇させている転生にも連中の一人が関わっていると、以前話しただろう。これは私にある程度の権限を押し付けて仕事をさせる為に、大昔に作られた魔力増幅用の道具だ。ミルトが台頭するよりも更に前だから相当だな」
「ヴァイス様が使えば軽く天候操作なんかも可能ですよ。不意の干ばつ対策もバッチリ」
「へ、へえ……軽く……」
「私達でも長い時間をかけて訓練すれば扱えなくはないでしょうけど、極端にブーストが掛かりすぎるから一線級のエルフじゃないと厳しいかも。できればハイエルフかな。
よっぽどの実力者じゃなければ、一気に上がりすぎた出力を制御しきれなくてボンッ!といく危険が」
「クアン、説明はそのくらいに。そろそろ交渉に入ろう」
シエルとクアンを何歩か下がらせると、ヴァイスは前脚を持ち上げ、手をオーブの上に置いた。
丁度、真上からオーブを掴む形である。竜の手によってオーブはほぼすっぽりと包み込まれてしまったが、それでもまだ幾らか余りがあるあたり、どれだけこのオーブが大きいかが分かる。
俄にオーブが輝き始めた。光は球体の表面ではなく、内側のもっと深い位置から放たれている。
赤々と燃える炭を覗き込んだ時の様子に、それは良く似ていた。熱は感じない。眩しくもない。ただ、底の見えない深い海の上にいる時のような漠然とした不安が、立ち尽くすシエルを取り囲みつつある。
ヴァイスが、大きく息を吸い込んだ。
『エラ、汝が持つ棘ある翼をここに。
クレイル、汝が持つ炎の息をここに。
ボーグーフ、汝が持つ踏み砕く爪をここに。
ガスマフ、汝が持つ怒れる腕をここに。
ラマテロ、汝が持つ水晶の目をここに。
セミューダ、汝が持つ毒の血をここに。
ヴァイス、汝らを俯瞰するは音無き声を持ちし我。
黒よ、鏡を向けよ。死の神の名を借りて、我は我が無音を薪に汝を焼かん』
朗々とした詠唱が空間を渡っていく。耳慣れない言葉に荒々しさはなく、穏やかに歌い聞かせるような響きは、ぐずる赤子を寝かし付ける母親のそれを思わせた。目を閉じていれば、まるで子守唄にも聞こえてくるような。
詠唱が終わり、暫くしてもオーブには何の反応もない。
シエルは次第にそわそわし始めたが、口を半開きにしてぽけっと成り行きを眺めているクアンはともかく、ヴァイスにも動じた様子が見られない為、おとなしく待ち続けるしかなかった。
やがて、変化が生じる。
球体の中央に、滲むようにして異形の輪郭が浮かび上がり始めた。
あ、と思わずシエルが声を出す。そこからは早かった。
瞬く間に、影が凝縮して形を結んでいく。オーブを満たしていた赤色が輪郭に吸い込まれるように薄れていき、対象的に、オーブ内に形成された像はますます濃さを増した。見る者に、重みすら感じさせる程に。
影に、ぽっと二つの青白い火が灯る。それは何かを探すようにきょろりと動くと、一点で静止した。中央を縦に走る亀裂が、すうと細まる。瞳孔だ。青い石のような眼球が自分を見ている事に気付き、シエルの体が竦んだ。
巨大な球体内部に、もう一頭の竜が現れていた。
オーブを満たしていた艶のない赤色はいまや跡形もなく消え去り、透明な空間が広がっている。思い切り手を伸ばせば、そのまま相手に届きそうな錯覚にシエルは一瞬囚われた。
同じ竜でありながら、顔立ちはヴァイスと明確に区別できるくらい異なっている。特に吻は細長く尖っており、鳥の嘴じみた印象を受けた。鼻先には、緩く湾曲した角が生えている。顔を覆う鱗はヴァイスのものよりも大きく、立ち上がっている。なめらかな革細工を思わせるヴァイスの鱗と比較すると、こちらはまさしく甲冑であった。砕くどころか傷ひとつ付けられそうにない黒い鎧が、竜の全身を固めている。
確認できるのは頭部と首の一部分のみで、全身は見えない。
それなのに、ただそこに佇んでいるだけで、周囲を圧倒する威容と、その身に宿す計り知れない力の奔流に跪きたくなる。
シエルは、音を立てずに唾を飲み込んだ。
オーブ越しとはいえ、竜が二頭、一堂に会している。普通に生きている人間なら、こんなものをまず目にする機会はない。世界と世界を隔てた竜の邂逅――神話の再現そのものである奇跡の光景を、固唾を呑んでシエルは見守った。
「やあ。急で悪いが、こちらの生物を一体そちらに転生させたいんだ。今からやって平気か?」
「ん、ああ、それ使うのか。いいよ」
「いいそうだ、良かったな」
「早いよ!!」
一往復で交渉はまとまった。
決裂の兆しすらなかったのは結構な話なのだが、情緒もない。
「それにしても反応するのに時間がかかったな。寝ていたのか?」
「ウヮンウヮン光りまくってるのに誰も気が付かなくてさ。一緒にでかい音でも鳴ってくれればいいんだが」
「そういう事になるから常に身近に置いておけと、貰った時に言われなかったのか?」
「言われたけどやってない。お前はやってる?」
「やっていない」
竜達が口を開くごとに、積み上げてきた幻想がガラガラと音を立てて崩れていく。
やり切れない心境になりつつあるシエルを余所に、二頭の竜は既に交渉は済んだものとして雑談に移行していた。どうやら呼び出しに応じるまでに時間がかかったのは、向こうでもオーブを物置に押し込んでおいたせいで、関係者が気付くのが遅れたからのようだ。どこも同じなんですねと、クアンが納得しつつ笑う。相変わらず、粗末に扱いすぎではないかという疑念は抱いていないらしい。
「ああすまん、待たせたな。ではやるぞ」
ヴァイスがオーブから目を離す。本当にやるのかとも、準備は良いかとも聞かない。まるで日課をこなすような態度が、出会いから今日までシエルが歩んできた10度の死の歴史を物語っている。
シエルは、覚悟を決めて頷いた。いつもの事とはいえ、内容が内容である。転生するからには殺されなければならない。肉体が粉砕されていく苦しみは、何度味わっても気を抜けるものではない。
ヴァイスが手を伸ばし、シエルを握る。何度も繰り返してきた旅の始まりは、だが今回に限り異なる終わりへと向かう。
まずは深呼吸、次にきつく奥歯を噛み締めながら、
(あ、そういえばあの竜の名前を聞いてない。ひょっとしたら向こうでお世話になるかもしれないのに……)
などと思ったのも束の間。
シエルの体が浮き上がる。ヴァイスが、彼を握る手を持ち上げたのだ。
予想だにしない展開にシエルが戸惑った次の瞬間、ばん!と固いものに猛烈な勢いで叩き付けられた。高所からの墜落に等しい、強烈な打撃の痛み。呼吸が止まり、みしりと背骨が鳴る。というか折れたかもしれない。
ヴァイスが、シエルごとオーブを握っていた。握りながらオーブに押し付けていた。
球体に擦り付けるように、ぐりぐりとヴァイスの手が左右に回転する。そのたびにシエルの体がぎちぎちと軋む。
オーブとヴァイスの掌とに挟まれて混乱するシエルが喚くが、力が緩まる事はない。それでも、辛うじて叫ぶ事はできた。半ば肺を潰されている為、声には血が混ざりひどく不明瞭だった。
「なななんでずがごれっ!! ヴァいず様っ、なんでごんなごと……!」
「なんですかって、いつもの転生じゃないか」
「いやごれ何か違オゲェッ!!」
「向こう側に送り込むのだから、こう、えいえいと押しやっている訳だが」
「ぞんな狭い場所に無理やり荷物詰め込むみだいなノリでアガガガガがががが!!! ぢょっ、ままま待っでぐだざい!! まって一気に握り潰されないぶんコレいつもよりきっつウェボゲゲベボベ!!!」
竜の握力を直に受けているというのに、オーブにはひびが入る気配すらない。
確かにこれだけ頑丈なら、丁寧に扱う必要はないようだ。
やがてシエルの声は聞こえなくなり、ぐちょ、びち、ばきぼきと濡れた音や硬い音だけが響く。
作業を終えて、ヴァイスはオーブから手を退けた。暫し無言の間が流れる。
ヴァイスが、再びオーブに手を伸ばした。
「念の為もう少し細かくすり潰しておくか。途中でつっかえないように」
「そういう仕組みなんですか?」
オーブを掴み、ぐちゃぐちゃと手を動かしてすり潰しているヴァイスに、さすがに疑わしげにクアンが尋ねた。
「お前、いきなりそういうのはヤメロ。俺が余所向くの待ってからやれよ」
断末魔の一部始終をこの場の誰よりも間近で見せられた異世界の竜が、嫌そうに文句を言った。
血に塗れたオーブの表面を、千切れた肉と潰れた内臓がずるりと伝い落ちていく。
「あ、本。そういえばお返しするの忘れてました」
頭蓋骨の破片が刺さった髪の毛混じりの脳をちりとりで掻き集めながら、クアンがテーブルの上を振り返った。といっても真っ赤に染まって床に転がった鞄を見ると、返さなくて良かったと言える。
「せっかくだ、次までに読んでおいたらどうだ。
や、次など無いのがあの人間にとっては最上の結果なのだろうが」
「あー……実は昔もう読んでるんですよ、これ。ただ途中からの展開がいまいち私の好みじゃなくて。あそこでつまらないなんて言ったら離してもらえなさそうだから、黙ってたんですけれど」
会話に気を取られたクアンが、自分が今手に持っている物を忘れて腕を組もうとする。顔近くに迫った脳から立ち昇る生臭い匂いを嗅いでしまい、美しきグラスエルフは、ぶっへ!と盛大にむせ返った。