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死の神ミルト - 2

町へ戻ったシエルは、その足で宿に戻り退出手続きをして荷物を回収すると、港方面を目指した。

アールヴァランにおいて宿屋が集中している地域は幾つかあり、代表と呼べるのが港付近である。補給の為に寄港した男達が、一夜の宿を求める為だ。

客を取りやすいぶん競争は激しく、価格面では勿論、安かろう悪かろうが行き過ぎていても勝負に負ける。よって、宿泊費と快適性とのバランスが意外に上等なのがこの辺りの宿の特徴と言えた。

反面、宿周囲の環境は他と比較して一歩劣る。数日振りに陸に上がった人間が求めるものといえば、柔らかなベッドの他に、海では味わえない食事、人で賑わう酒場、そして一夜限りの楽しみを提供する店である。

となれば、自然と宿の近くにそうした遊興施設も集まってくる。

数泊で去っていく客にとっては下世話な喧騒も味わい深くとも、居住に近い泊まり方をしたい場合は向いていなかった。

だが、ひとまず確実に安価な宿屋を見付けられはする。シエルが最初に目指したのも妥当であった。


港に近付くにつれて、道幅が狭くなり、入り組んでいく。

ある時期から急激に拡大したアールヴァランは洗練された都市計画とは無縁で、特に港付近はその傾向が強い。

比較的後期に発展した住宅街は整然としているものの、道一本隔てた旧市街は背が低い昔の建物のままであったりと、龍園のある丘から全体を眺めると何ともアンバランスな町並みとなっていた。

商取引の中心である港付近の交通がややこしいというのも困った話で、町としても拡張を何度か検討しているのだが、住民の立ち退き説得に成功した数カ所を除き、いまだ完遂には至っていない。

しかも、この歩き難い道が町の歴史の象徴として観光面で一定の評価を得ているのだから、ますます話は複雑になる。


港が最も慌ただしく活動する時刻からは大幅にずれているが、それでも道に一定の人通りはあった。

評判の食堂らしい店の前で話している二人組とすれ違ったり、夜から営業となる店の前に水を撒いて掃除している眠そうな男の横を通り過ぎたりしながら、シエルもまた、初めて訪れるこの一帯を興味深く眺めていた。これまでは到着次第即龍園行きを繰り返していた為、じっくり町を見て回るという事をしてこなかったのである。

唯一観光に使えそうな時間があったのは初めてアールヴァランを訪れた時だが、あの時はあの時で、いよいよ転生する、即ち死ぬという事実に尋常でなく緊張していた心を落ち着かせるのに精一杯で、町を見て回るどころの心境ではなかった。食事もろくに喉を通らなかったような記憶がある。

ようやく広めの道に出られたところで、シエルは一旦立ち止まり、クアンのアドバイスを思い返す。


「宿を探すなら、飛び込みで直接空き部屋があるか聞いてみるといいですよ。あとは食事の有無に、宿に付いてる設備。連泊で割引になるかなんかも確認必須ですね。どこもまとまった日数のお客さんは歓迎してる筈ですから、快く教えてくれると思います」


なるほど、港に近付くにつれて宿泊所の看板がちょくちょく目に入り始めた。

というよりも、意識して探さなくても看板が目に入ってくるくらい増えてきている。空き部屋がある事を記しただけではなく、具体的な値段の書いてある所も多い。どこも客取りに必死なようだ。

この様子なら希望を満たす宿のひとつやふたつすぐに見付かりそうだと、シエルの胸にも期待が膨らむ。

ようし、と意を決し、新調した鞄を背負い直したシエルは目に付く宿屋へ片端から飛び込みを開始した。


「うーん、部屋はあるんだけど、その値段だとちょっとねぇ……」

「そうですか……」


「うちは格安だよ! おまけに周りも遊べる場所ばっかりだから、夜もバッチリ! お兄さんどういうの目当て?」

「食事ができて市場に近ければ……あ、はい、他に行きます……」


「当館は百年前の豪商が建てた古商館を改築しておりまして、格調高く歴史ある味わいの客室はどれも違いの分かるお客様から大変なご好評とリピートを……ああ、中には身分を隠した」

「す、すみませーん身の程知らずでしたぁー!」


断念、回避、あるいは門前払い。

こういうのは探し出すときりがないというが、確かにその通りである事をシエルは身をもって味わっていた。

贅沢は言わない。静かな環境と商店に近い立地。部屋は狭くても清潔で、食事も取れたら尚良い。

その希望自体が贅沢なのかなあと、そろそろシエルは思いかけていた。

そんな都合のいい条件を奇跡的に満たしている宿も幾つかあるにはあったのだが、肝心の値段が予算を超えている。

いい宿は高い、当たり前だ。かといって安値を追求しすぎると、今度は環境や治安に不安が出てくる。とどめに、こういった場合にありがちな傾向として、だんだん最初に入った宿が一番良かったような気がしてきた。順調に堂々巡りに嵌っている。


「えっ……あっ、あの……それだと表に出てた値段と違うような……」

「あーあれね、よく見なかった? あれは学生さん限定価格なの。つまり下宿ね。

あなたもそうなの? だったら証明書出して」

「いえ……違います……」


価格も安く、食事もでき、しかも住むのと変わらない長期間の宿泊も可能。

遂に見付けたと喜んだ矢先にぶつけられたのは、余所から来ている学生向きのプランだという現実だった。アールヴァランの教育事業の歴史は浅いが、潤っている町だけに施設と教師の質は悪くなく、よってこうした商売も成り立つ。

転生の為に家を探す必要があって、その為に宿を探す必要があって、その為に学生になる必要がある。

これではさすがに駄目だと、シエルは肩を落として建物を出た。


「はあ……」


色を赤く変え始めた空を仰ぎ、歩道脇に座り込んだシエルは溜息を漏らす。

途中休憩を挟んで、気付けば夕方近い。希望を完全に満たす宿は、とうとう見付からないままだった。仮に見付かったとしても、泊まってみて初めて分かってくる不都合などもあるのだろう。

だが、まだまだアールヴァラン中の宿を巡り尽くした訳ではない。

これもまた目指す転生結果への第一歩と思えば、不思議と萎えた体にも力が湧いてくるのだ。行動の基準を勇者になる事に置くと驚異的な精神力を発揮するのは、ヴァイスやクアンも認めるところである。

座ったまま人々の往来を眺めながら、とりあえず今日は同じ宿に戻るしかなさそうだとシエルは思った。適当に決めたあそこも悪い宿ではないのだが、滞在よりも短期の観光客向きである。

両足に力を入れて、出だしより重くなった気がする鞄を背にシエルが立ち上がろうとした、その時。


「あの~」


やけに間延びした声が、耳元で聞こえた。

息がかかるくらいの近さで。


「わああっ!?」


反射的にシエルは声と逆方向に飛び退いた。勢いで真後ろに転びそうになったのは辛うじて耐える。

つい今しがたまで座っていた位置に向かって身を屈めた女性が、シエルの方を見ていた。

驚きに激しく脈打つ胸を押さえて座り込んでいる彼の様子などまるで気に留めていないかのように、相変わらず同じ体勢のまま、やたらぽやぽやした笑顔と声で女性は言った。


「もしかして、泊まれる場所をお探し中なんですか~?」


自分が何を聞かれているのか理解するのに、シエルには少しかかった。

女性の表情は崩れない。よくよく見れば目自体が細いのだ。それで、笑った顔が余計に強調されている。


「………………」

「………………」

「もしかして、泊まれる場所を」

「……あの、もう一回言わなくても伝わってますから」

「そうですか~」


何故か残念そうに女性は言うと、思い出したように屈めていた体を起こした。

ようやく動悸が静まってきたシエルも、それに続いて立ち上がる。飛び退いた拍子に打った尻が痛い。

互いに直立すると、相手の方がいくらか背が低いのがシエルには分かった。

足首辺りまでありそうな長い紺色のスカート。白のエプロン。今の今まで働いていたような腕まくり。髪もまた、動く邪魔にならないように後ろでまとめて括られている。リボンの類は見えないから、おそらく髪留めで。

年齢は若い。だがシエルよりは上だろう。


「なんだか疲れてるようでしたし~、この町の方という感じでもありませんでしたから~、宿屋を探しているのかな~って思ったんです~、驚かせちゃってごめんなさいね~」


どうにもいちいち意識しているような気の抜ける喋り方だが、ようやくシエルにも状況が整理できてきた。それと一応、驚かせたという自覚はあったらしい。


「はい、そうなんです。今泊まっている所だと、長く泊まるにはちょっと予算が厳しくて。それでもっと安くていい所を探してたんですが、なかなか……」

「ふふ~、そう思ってました~」

「いや、そこまで詳しくは思ってないですよね?」

「実は!」

「は、はい?」

「なんとぉ~、この奥にも宿屋があるんですよ~」

「これで宿屋が無かったら何の為に声かけてきたんだってなりますけど」


女性が掌で示してみせたのは、ちょうどシエルが座っていた場所の背後にあった、見るからに狭そうな路地の入口だった。

この奥に、という言葉に相応しい。というか、言われなければ奥に宿屋があるとは誰も想像がつかない。看板も出ておらず、本当にただの建物と建物の間にある道という印象である。しかも道を挟む両脇は住宅だった。

怪しい。一言で言ってそれである。

ゴミが散乱している訳でも、得体の知れない液体で常時濡れている訳でもなく、道そのものは清潔なのだが、そうした危険な雰囲気が作り出す怪しさではなくて、明らかに奥に宿屋などありそうにないという意味での怪しさである。

シエルの躊躇を感じ取ったのか、笑ったように見える顔に少しの悲しみを滲ませて女性が言った。


「よろしかったら~、見ていきませんか~?

お値段、相場よりも安いと思います~。あ、でも~、ものすごく安くはないです~」

「………………」


見に行かせる気があるのか無いのか。

今日はもう前の宿に戻ろうと決めていただけに、シエルは迷った。

女性の呼び込みなのか何なのかは、はっきり言って下手だった。これに釣られて見に行こうという人間はまずいない。

しかしシエルの生来の気性もあって、こうして言葉を交わしてしまうと無下には断り辛い。

立ち話をしている二人の横を、人が通り過ぎていく。女性のどこか浮世離れした雰囲気もあって、世間の流れから自分達が揃って切り離されているような気がシエルにはしてきた。

だめですか?と、女性の声が小さくなる。シエルは決めた。戻る前に、あと一件追加しても問題はないだろうと。ぼったくりに引っ掛けようとしている可能性が消えた訳ではないが、そうなったら一目散に逃げようと考えつつ、行きますと彼は告げる。

女性の顔が、ぱあっと明るくなった。宿の呼び込みよりも、幼い子供達に囲まれているのが似合いそうな笑顔だった。


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