8.貨幣
夕飯後、テーブルの上のものをユリエッタと美子で台所へ移動させる。洗い物はユリエッタが引き受けてくれるので、ここから就寝までの時間、美子はクリアリスからこの世界の常識について学ぶのが日課になっていた。
『それじゃあ、さっきも言ったけど、今日は貨幣の説明をしようかね』
美子が食器を運び出していた間に必要なものを取ってきていたらしいクリアリスの前には、様々な大きさや形の石や木片が並べられている。
その中に見覚えのあるものを認めて、美子は首を傾いだ。
クリアリスにひとまず座るように促されるまで突っ立っていた美子が釘付けになっていたそれは、間違いなく夕飯の支度時に見たものと同じであるはずだ。何より、この中で一番美しい――貝殻の内側のような虹色の光沢を放っており、知らずとも自然と目が行く人間は多いのではないだろうか、と美子は思う。
『すぐに気付いたようだね。こいつは甲冑魚の優鱗貨だよ。白鉱貨と同じ価値がある』
クリアリスがしわしわの指先で、百円玉サイズの虹色の鱗と、白い石を拾い上げた。白い石はオセロの石のように真っ平らな円形に均されており、やはり百円玉と同じ程度の大きさである。石の表面には、『~』の線の両端に小さな六芒星が一つずつ、刻印されている。
『甲冑魚の鱗の中でも大きさが白鉱貨とほぼ同じで、光沢が良くて、欠けなんかがないものは、公式貨幣として扱われるのさ。もっとも、星都や大きな街じゃ、一旦白鉱貨に換金してもらわなけりゃ使えない場面も出てくるんだけどね』
「川魚の鱗がお金ですか……」
『大きさが足りなかったり、くずみたいなもんでも、素材に価値があるからね。今日の甲冑魚も両替商に鱗を持って行けば、計量して公式貨幣に換えてくれるよ』
「鱗が……。他の魚の鱗と混ざってたりしたら、両替する人、いちいち分からないんじゃないですか?」
『甲冑魚の鱗を見たろう? 他の魚の鱗はもっとかなり小さいし、軟らかいからね。それに見るからに汚い色じゃないのさ』
まあ、確かに。と美子も同意する。そもそも甲冑魚の鱗は分厚く、相当に硬いのだ。
美子が納得したのを確認して、クリアリスは続けた。
『優鱗貨一枚あれば、ここいらの村や小さい町の宿に泊まってる旅人一人なら、だいたい四、五週日は暮らしていけるかねえ。村に家があるなら……たとえば、あたしとユリエッタとあんたの三人でやってくなら、宿代もかからないし、一週日に三食食べ続けても、五週日分は賄えるだろうよ』
「五週日……五週間?」
聞き間違いかな、と美子が繰り返すと、クリアリスがまたか、というように体を反らして天井を仰いだ。当然だが、美子には何が原因か分からない。
『しゅうかん、ってのは古都人郷の旧暦かなんかにあるのか知らないけど、一週日はお日様が昇ってから沈むまでのことだよ。こっちの暦石は閑球でも使ってるはずじゃないのかい……。ミコさん……あんた、本当にどんな箱入りだったんだい』
「はあ……ええと」
(暦石って何ですか? とか……聞けない)
そもそも、異世界転移チートの言語翻訳機能は働いているのに、地球とは異なる概念やシステムが絡んだ単語は、完全には翻訳されていないようだというのが、ここ数日滞在して、美子が理解したことの一つである。
週日、というのはこの世界では、日に相当する。要するに、一週日は一日のことだ。つまり、一週日は一週間とは違う。じゃあもう「一日」と翻訳されてくれればいいはずなのに、そうはならない。なぜならここでは、一日の長さの規定が地球タイムとは違うからだ。
陽が昇ってから沈むまで。これが一日であるならば、陽の出ていない時間帯は何になるのか。少なくとも、この世界では、一日のどこにも属していないということになる。だから一日ではなく、一週日、などと翻訳されてしまうのだ。
理解してしまえばそういうもの、として記憶していくしかない。美子はそう納得して、先の優鱗貨についての知識を反芻する。
旅人が四、五日生活するのに、この大きな鱗が一枚。村に暮らす三人家族が五日過ごすにも一枚。ということは、定住者は家を持たない旅人の三分の一で生計を立てられることになる。
逆に、旅人は自由が利く分、三倍の生活費がかかってしまう。野宿すれば宿代は浮くだろうが、命の保証は自己責任だ。為政者からすれば、この金額設定は民の土地離れを防ぐための施策なのかもしれないな、などと美子は推察する。物事の仕組みに隠された裏側の事情を想像するのが、美子は結構好きなのであった。
美子がここまでの話に付いてきているのを確認したクリアリスは、
『まあ、暦については明日話すことにして……貨幣の説明に戻るけど、いいかい?』
「よろしくお願いします」
ひとまず、目の前に置かれた他の貨幣について、話し始めた。
『優鱗貨一枚は白鉱貨一枚と同じ価値で取引される。でも、これじゃあ普段使うには価値が大きすぎる。分かるかい?』
高額商品やまとめ買いをするのには便利だろうが、旅人一人が一食どこかで食事したりするには、少々額面が大きい、ということだろう。
そう美子が答えると、クリアリスはちょっと意外そうにライトブルーの眼を瞬いた。
貨幣の種類も知らないということは、美子には買い物の経験がないはずである。そんな人間に世間の物価事情が理解できると、どうしてクリアリスに思えるだろうか。
実際には、日本では食糧の買い出しも、自分の私服などの買い物も日常的にしていた美子である。
美子が知らないのは、この世界の通貨であって、物価事情というのは結局のところ、どちらの世界でも似たようなものであるのだろう。
『まあ、分かってるならいいさ。分かってるなら、ね』
どこか腑に落ちない様子のクリアリスであったが、そこは呑み込むことにしたようである。頭はいいようだが根本的に何一つものを知らない美子に対して、教えることは山ほどあるのだ。
『普段使いに、といってもこんな地方じゃこれでもちょいと大きい額かもしれないけどーー、あたしたち庶民の間でよく出回ってる貨幣は、白鉱貨や優鱗貨じゃない。こいつさ』
そう言って白鉱貨と優鱗貨の隣にことり、とクリアリスが置いたのは、模様が入っていないトルコ石のような、水色の石だった。こちらは五百円玉くらいの大きさだろうか。
白鉱貨同様、平らな円形に加工されていて、表にはやはり同じ紋章が刻印されている。
『こいつは流貨って言ってね、これが十枚で白鉱貨や優鱗貨一枚と同じになるんだよ』
クリアリスによると、「よく流通しているから『流貨』」というらしい。
『だけど、一度出てったらなかなか手元に戻ってこないから流貨っていうんだ、ってあたしたちみたいな田舎もんはみんな、そう思ってるんだけどね』
くしゃりと笑うクリアリスである。
『で、こっちが木貨。十枚で流貨一枚になる』
水色の流貨の隣に、今度は焦げ茶色の長方形をした木片が並んだ。
美子の指関節が二つ分くらいの長さのもので、白鉱貨や流貨と同じくらいの厚みがある。やはり表には例の刻印が彫り込まれてあった。
木の貨幣にいくら紋章を刻んでも、偽造されては意味がない。紋章自体、子供でも簡単に模倣できそうな図案であることだし。
そう思って美子が尋ねれば、
『造幣は王家の特権だからさ、偽造なんて畏れ多くて誰もしやしないよ。……ま、もしそんなことをすれば、獣刑になるしね』
獣刑とは、肉食獣に生きたまま食われるという残忍な処刑法らしい。私利私欲に駆られて暴利をむさぼり、あげく重罪を犯した者がたどる末路であり、公開執行される。絶対に見たくない。
『だいたい、木貨だからって簡単に偽造できるわけないんだけどね。この紋章は、大地母神の天秤紋……っていうのはさすがに知ってるだろうけど、刻印には王家の秘術が使われていて、真贋を確かめる道具もあるんだ。木貨に限らず、公的に発行された貨幣はみんな、それではっきりするんだよ』
ーーアーソの天秤紋……知りません。
でも大地母神と美子が理解できたということは、地球にも似た概念があったからだろうか。
ともかく、貨幣の真贋を暴くというその便利な判別道具は、村長や町長など立場のある人間や、各地の神殿、行商人や両替商、大商人、王家など、貨幣の流通に関わる機会の多い人間なら大抵持っているという。しかも、所持には資格が必要であり、公的技能として認定されるらしい。
『木貨二枚あれば、大抵の村なら一人一食分にはなるだろうね』
「じゃあ、こっちの方がよく流通してそうなんですけど……」
『ここいらの人間は、税も物納が多いからねえ。街なら物納の方が珍しいし、動く流貨の数も相当なもんになるらしいよ』
昔泊まってった両替商からの又聞きだけどね、とクリアリスは付け足した。
『そもそも、税の話だよ、流貨のよく流れるってのは。街とか商人なら実際、木貨の方が出番は少ないだろうしねえ』
地方の村と中央の街では、物価にも差があるのだろう。
『それじゃあ、一旦おさらいしようかね。白鉱貨と優鱗貨一枚は、流貨で十枚分。流貨一枚は木貨十枚分。木貨二枚あれば、一食分の食費になる。ここまでが公式貨幣だ』
美子が頷くと、クリアリスも首肯して、木貨を一つ手に取った。そしておもむろに、それをペキッ、と真っ二つに割ってしまう。
「えあっ、えええええ?!」
思わず腰を浮かした美子を宥めつつも苦笑して、クリアリスは割れて二つになったものを木貨の隣に置いた。
『こっからは、賤貨の話だ。この割っちまったのは公式貨幣としては扱われないけど、旅人や村なんかじゃよくある事でね。木貨の半人前だから、半貨っていうんだよ』
「てことは、これも使えるんですか?」
『そうじゃなけりゃ、割るもんかい』
確かに。
『グレントみたいに農地が豊かだったりすると、貨幣ってのはあんまり使いでがなくてね。カップ一杯の水をくれとか、木貨一枚にも足りないもんを融通してくれとかって言われることは、ままあるのさ。そうなったら、普通は物々交換が良いんだけど、旅人ってのは財産が少ないからさ。半貨が出回るわけだよ』
「でも、公式じゃないなら、両替とかは」
『村内だとか地方でなら、神殿で交換してくれるよ。神殿はむしろ、こういった辺鄙なところで使えるような貨幣を持ってないからね。物々交換はしない代わりに、賤貨なんかは公式貨幣と交換してくれやすいんだよ』
その辺り、実際に貨幣を使ってみなければつかみにくい感覚である。しかし今のところ美子が独り立ちするには、まだまだ勉強が足りない。
『他にもさっき優鱗貨のとこでちょっと話したけど、計量貨ってのもあってーー』
その辺りで美子は、心の悲鳴を聞いたのであった。
今回もお付き合いくださって、ありがとうございました。
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