第88話 恩義
次の日の朝から冴香さんの特訓は始まった。
「まずは最低限の筋力がなければ話になりません。数日間はトレーニングメニューにします。」
その言葉通り、その日はぶっ続けでトレーニングだった。
と言っても、基本的には体力メニューだった気がする。
朝から10キロ走って、いや走らされ、坂道を駆け上がり、砂浜をダッシュして、約3時間。
貧弱な私はもうヘロヘロだった。
「黒間さんはもっと体力があります。この程度では追いつけもしませんよ。」
そういえばあいつ、一時期ずっと走ってたな。
朝も昼も晩も、黙々と。
努力する天才に追いつこうと言うのだ、並ではいけない。
そう思うと今していることも、足りなく思えてきた。
「…はい!」
私は天才ではないけれど。
強くなりたいという思いは、天才に想って欲しいからではなく、ただ愛する幼馴染である天才を、どこかで凡人にして、止めたかったからなのかもしれない。
もういない人の話、故人の話をしよう。
三代目明王、種島公人。
俺の4つ上の先輩だ。
俺は2年、彼の下についていた。
あの時は明王になることしか頭になかったが、今思えばあの人は俺に本当によくしてくれた。
「おい黒間!チンタラしてると殺されるぞ!」
正義感に溢れ、いつもチンピラ退治に精を出していた。
2代目明王、青神海良は冷徹な男だった。
そして俺を除く歴代明王において、おそらく最強だったのだろう、俺は初代を見ていないからよく分からないが。
青神の補佐役についていた種島さんは青神さんの強さの暴走を止める、いわば抑止力だった。
口癖は、「まぁまぁ、落ち着けよ。」だった気がする。
誰もが慕っていたし、当然の男だと思っていた。
青神さんは町の治安維持だけでなく、大阪全土の力自慢どもとやりあい負かしたい、いわば喧嘩屋だった。
青神さんから種島さんに明王が引き継がれた際、俺たちに渡された方針表にはこう書かれていた。
「この地域の、治安維持を。力だけででかい顔をする奴らを、俺たちが力で言い聞かせよう。」
頭の中に花が咲いたのか、平和ボケした、いい先輩だった。
「いいんだよ、黒間。」
「え?」
俺がふと何故この人は頭に花を咲かせているのだろうかと疑問に思って尋ねたことがある。
「お前もこれまで色々あったと思う。辛いことも、苦しいことも。だけど逃げ出さずこれまで生きてきたのは何故だ?」
「それは、俺が逃げたら妹が…。」
「な、妹さんが止まらせてくれているんだろ?それは妹さんが、お前を支えてくれているということだ。幸せ者じゃないかお前は、世の中には殺しあう兄弟もいるんだ。」
「はぁ。」
悪いところと比べるからそう思うのだ。
全てを、総じて比較すれば、俺の運命は割と下の方だろう。
「違うんだよなぁ。黒間、俺はお前や青神さん、さらには初代の大和さんのように、頭が良くないからうまくは言えないんだけど、行きたいという衝動に沿って生きているお前は幸せなんだよ。」
「死ねるもんなら死んでやりたいですよ、さっきも言ったけど妹が…」
「だーかーらー、妹さんのおかげでお前は生きてやりたい事があるんだろ?それが幸せだって言ってんの!お前はすぐに順位で見たがるけど、そうじゃないんだよ!」
思い出はさらに深まる。
「例えばな、この世の全てに見放され、忌み嫌われ、今すぐ死にたいという人間が今のお前を見たらどう思うと思う?」
「…俺はそいつじゃないのでわかりません。」
「羨ましいと思うんだよ!頭がキレて、慕ってくれる妹がいて、何より誰かの為に生きなければと思えるお前をな!」
ハッとしたのを俺は今でも覚えている。
頭は悪いし間も悪いし、ついでにいつも汗臭いけど、優しくて頼り甲斐があって、最高の先輩だった。
「…………絶対許さねぇ。殺してやる。」
でも、お前のクローンなんだろ?
お前と関わったから…。
「俺が…殺したのか?」
またもや俺は、恩人を失った。
あぁ、もういいや。
心の傷はかさぶたになり、さぁ再生させて、癒そうかという時に、ベリベリ剥がされて、刃物でえぐられた気分だった。
いや、実際えぐられたのだ。
もうどうでもいい。
俺と関わる事で、大事な人を次々、自らが手を下して殺すくらいなら、俺はもう。
「………殺してやる。大切な人間以外全員。そうすりゃ黒間もクソもないんだ。」
長崎の観光地である、眼鏡橋は綺麗にライトアップされ、俺はその影に消えていった。
俺がその夏に鳳とこの地で再び会うことは、無かった。




