第54話 降下
ただいま、と声をかける。
何かの休養だとかで、久しぶりに兄が先に帰ってきていた。
そのことを知っていた私は、心が踊った。
久しぶりに、大好きな兄とたくさんスキンシップをとれるのだ。
しかし、私のテンションは一気に下がる。
兄の様子はきっと、誰がどう見てもまともではなかっただろう。
いくら夏前で陽が高くなっているとはいえ、もう7時半にもなれば電気をつけなければ暗い。
兄はそんな中、まるで剥製みたいに電気も付かず、テレビもつけず、服も着替えず、何をするわけでもなく、ただポツンと頬杖をついてリビングの椅子に座っていた。
「あぁ、おかえり。」
兄はこちらを向いて微笑んだ。
いや、方向としてはこっちを向いていたけれど、兄の瞳には私は写っていなかった。
虚ろな目。
数年ぶりに……兄が初恋の相手を亡くした、という日以来に見た目だった。
「…お兄ちゃんどうしたの?何か考え事?」
そうであって欲しかった。
いつもは優秀な兄の成績が悪かったとか、フラれたとか、そんな些細なことであって欲しかった。
「何もないよ、ほんと。何にもない。」
きっと兄は、本当に何もなかったのだろう。
何も…何も無いのだ。
空虚なのだ。
こうなってしまえば、私にはどうしようもない。
結局のところ、私は守られるだけの存在でしかないのだ。
邪険にすら扱ってもらえない、もはや妹とすら見られていない。
きっと…少なくとも、今の兄には。
誰かにどうしてもらおう、それが私が唯一とれる方法だった。
でも、電話した鳳さんの言葉に絶句した。
「…暫くそっとしてやってくれないか。君の兄は少なくとも…暫くは君の兄でも、黒間弾でも、人間でもない。死神の、4代目明王だ。それを否定する理由もないし、俺は肯定するわけでもない。」
「でも、奴は、奴なりに、きっと自らを正義だとして、抑え込んで、無理やり言い聞かせて、自分をコントロールしている。ほんと、今だけは奴に負荷をかけないでやってほしい。」
そこまでならまだ我慢ができた。
でも。
「…今の…いや、黒間弾にとって、俺たちはあくまで着火剤でしかないのではないかと、最近思うんだ。…君なら俺よりきっと、分かるはずだ。」
確かに分かっていた。
“憧れ”という言葉で蓋をして、見ないようにはしていたが、少し考えれば分かることだ。
「…私には、生まれた時から“お兄ちゃん”なんて居なかったのかな…。」
今までの人生で、きっと1番切ない瞬間だった。
不思議なほど、誰も何も話しかけてこない。
まぁ、今の俺の状況からすれば、そうして貰えるのは有り難いことなのだが、隠せているつもりでも表情には出ているはずだ。
思いを、想いを、押し殺して無理やり引きずって連れてきた“殺気”が。
自分でも、いつもの自分ではないことくらいは分かる。
しかし、いつもの俺では、この状況に、心情に、想いに、押し潰されそうだから。
無理矢理。
ひたすら。
まぁ、いくら言っても仕方のないことだ。
その時を迎え、桜庭さんに…この想いにけりをつけて。
その後に、全てを受け止めて、潰れるなり、乗り越えるなりしなければならない。
それが俺が立てている、言い方は悪いが計画のようなものだ。
それまでは…これは甘えかもしれないが、俺は鬼になることだって、死神になることだって、厭わない。
真希が俺に怯えているのも、一果が俺を避けているのも、九条が俺を睨んでいるのも、全部気づいている。
鳳だって、…いや、もう語るのはよそう。
今でこれなのだ、直前、直後になればもっとひどいだろう。
今のうちから、関わりを自然と避けておくのも悪くはない。
総理から、夢幻流の件について話を聞き終え、いよいよ実行に移る。
もう6月。
適度に暑くはなってきたが、まだそこまで、といった気温。
梅雨も明けるだろうか、と思わせる快晴の日を、俺は実行の日に選んだ。
軍団を揃え、30人ほどに特攻の計画を話し、明王の特攻服に着替え、服の内側にピックを入れておく。
前回からの反省だが、クナイだとふとした時に重く、咄嗟の行動に遅れが伴う。
細くて強靭なピックで、一撃を狙う。
そのために、数百本のピックを入れておいた。
あとは突撃だけ、という日にはもう俺は人と話すこともなくなり、もはや何をすればいいのかすら分からなかった。
机上にある文字を、ひたすら実行する。
頭には、何も浮かんでいなかった。
取り乱すことも、落ち込むこともない。
意外とこの状況は、俺にあっているのかもしれないと思いつつ、7月の1日。
4代目明王、黒間弾率いる明王軍団は、山の頂にある夢幻流道場を目指して出発した。




