第51話 紅糸
朝早くから私を呼び出した、非常識な男は私に向かって言う。
「……迷惑かけたな。九条。」
「…そんな前置きはいらないわ、用件だけを話して。」
後に続く言葉は、期待に沿わない言葉なんて事は、分かる。
「…記憶をなくしていた間の俺だが、あいつはお前のことが好きだったようだ。愛していた。」
ある程度、分かっていたつもりだったし、愛してくれていた人は私が手に入れたかった“黒間弾”ではなかったけれど、胸が張り裂けそうなほど嬉しかった。
「でもな、あれは俺の人格がほんの一部でも、残っていたからだ。九条、お前は俺が死ぬほど愛した“桜庭美波”に似ている。だから、お前にその姿を重ね、慰めのようにお前を愛した。そんなもの、俺から言わせてみればただの虚像だ。偽物だ。」
「…えぇ、それも分かっていたわ。でも、それを言われたところで私にどうしろと言うのかしら。私は前の貴方のことが好きではなかったから、その偽物に応える事は出来ないし、例えば今から貴方に“本物”の愛を告白されても、それに応えるつもりもないわ。」
と、嘘を吐く。
最後に言った部分、あそこだけは言いたくない嘘だったが。
彼はハハッ、と笑いながら続けた。
「…まぁ、俺にもそんな予定はないけどさ。一応、あいつに対しての義理は果たしておこうと思って。」
「義理堅いのね、意外だわ。」
泣き出しそうなのを我慢して、なんとか声を振り絞る。
フラれたような気分。
実際、黒間弾に対するアドバンテージも、彼からの寵愛も、泡沫のようになくしてしまったのだから。
「私、予習があるから先に教室へ行くわ。貴方も、授業でなるべく寝ないように、今のうちに準備をしておきなさい。」
そう、これからも今まで通りに接してくれという意味を孕ませながら言った。
足早に、俯きながらドアへ向かい、優しく開けて、そっと閉めた。
目の前の階段を見て、何故か切なくなり、涙が出てしまった。
声を押し殺して、1人で子供のように泣く。
まだ動いていなさそうな私の英雄は、何を思い、そこへとどまっているのだろうか。
少しでも、私のことを、考えてくれているだろうか。
それとも、“本物”である、桜庭さんだろうか。
バタン。
九条が屋上を後にする。
教室へ戻っているだろうか、俺も黒間弾から、4代目へと切り替える。
「…久しぶりか?お前を見るのは。」
仮面の男へ尋ねる。
間抜けな仕草をしていても、漂う空気が抜けていない。
「青春だね、弾。」
「何故親しげに呼ぶ。」
「親しいじゃない。寂しいこと言わないでよ。」
ヘラヘラとした表情が、仮面をつけていてもうかがえる。
「親しいわけがないだろう、お前のおかげで俺は九条に殺されかけたんだ。」
「いや、あんなに君が手を抜くなんて思っていなかったよ。それに、君は俺をラスボスだと思って死を覚悟したみたいだけど、全く違うよ。」
黒いオーラが俺の心を侵食したかのように、ぞっとした。
「…いい反応だ、飽きないよ。もう時は近そうだから言うけど、時期に君は俺と戦うよ。俺も、そして君も、それを望んではいないかもしれないが、君がさっきの少女や、幼馴染ガールに組長のガキ、それに…黒間の娘を守りたいなら、今度は“刺し違えずに”俺を殺すくらいには強くなることだ。」
刺し違えずに、か。
死んでもいいというのは、甘えの一部ようだな。
「そんな都合よく強くなれるかよ、修行じゃねぇんだ。」
それに、時が近いとはどういうことだ。
「あぁ、まぁ俺はアレだ、それだけ言いに来たから、帰るわ。じゃ。」
そう言って、男は一瞬にして姿を消した。
捉えきれてもいない相手を。
「…どうやって殺せってんだ。」
その後は授業を普通に受け、クラスメイトたちと意思疎通を成功させ、一果の機嫌を取り、真希に泊まると報告して明王室に篭った。
俺が入院していた病院のデータを調べる。
桜庭美波、のデータを調べる。
くまなく調べ尽くした頃には明るくなっていた為、俺は授業を休み、病院へ向かった。
バカでかい病院のエントランスから少し離れたエレベーターに乗り込み、最上階から2個下の階を押す。
ごぅんごぅん、と音を立てながら登って行く。
密室に1人だった為、俺の心臓の音も響いていた。
ボタンが示す階に到着し、廊下の端まで歩く。
大きな個室の、一部屋のトビラをノックする。
どうぞ、という声に俺はその個室に入る。
「お久しぶりです、桜庭さん。」
俺はベッドのうえで儚げに咲く相変わらず綺麗な百合に微笑んだ。
「…色々聞きたいことがあるけれど、きっと貴方は私が聞きたいことなんて分かっているのでしょうね。私が、貴方が聞きたいことが分かるように。」
透き通るような声はかつての俺が聞けば自分を保つのも厳しいほど高揚していただろう。
「…貴方が聞きたいことの答えは簡単です。俺は今でも、貴方のことを愛しているからです。例え俺自身が滅ぼうとも。」
桜庭さんの目には、涙が浮かぶ。
今何を考えているか、きっともう彼女の口から答えを聞くことはできない。
時というのは、成長というのは、そういう純粋なものを栄養にして成り立つ。
「…それと、俺が聞きたいことの答えを、俺はある程度予想して来ました。3つほど、仮定をして来ました。けれど、でも…。」
目頭が熱くなる。
なん年ぶりかに感じる、懐かしい感覚。
純粋な理由で、清い水が、時とともに淀んだ俺の瞳を濡らす。
「…俺は貴方にまた会えて…、それだけが、それだけで、……何も言えないほど嬉しい。」
箍が外れたように涙が流れる。
俺ではなく、桜庭さんの瞳からだ。
3つの仮定は、俺の精神を破壊してゆく。




