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センチメンタル

作者: 兎島

「なぁ、俺って生きてる意味あったと思う?」

 

唐突に、先生はそんなことを口にした。

おれは座っている椅子をわざとらしく音を立てて揺らしながら、見せつけるように思いっきり首を傾げてやった。

「は? どうしたの急に。てかそれ、教師が生徒に聞く質問じゃないと思うんですけど」

 生きている意味なんていうのは、考え事が大好きで堪らない人間にはうってつけの悩み事だとおれは思う。だって、その質問に対する正しい答えなんて、テレビの四角い枠の中でアドレナリンだのドーパミンだの言っている偉い科学者さん達が絶賛する「人間の持つ素晴らしい頭脳」のどこを引っ掻き回したって出て来やしないのだから。

 まぁ一度きりの人生、何を考えるのかは個人の自由であるとして。問題なのは教師という、生徒を導く立場であるはずの人間が、こうして導かれる側の人間にこの質問をしてきたということだ。

「いやぁ、なんかさ、不意に思うことあるでしょ。こういうのって」

 何とも曖昧に眉尻を下げる化学教師に、おれは半目になってため息をついた。

 窓から差し込む陽光の中、きらきらとホコリが光っている。この青春教師ぐらいしか出入りしない第三化学準備室には、いつ何時もホコリが空中を彷徨っていた。

 先生は、よくこの部屋にこもっていた。テストの採点やら何やらの仕事は絶対にここでしているし、おれが立ち寄った時にいなかったことなんて今まででも片手で数えられるくらいしかない。

 白い指が、机に置かれたマグカップの持ち手に絡まる。緩やかに湯気の上るそれに口を付けながら、先生は掠れた声で笑った。

「しっかし、嶋。とうとう三年間通い詰めたね」

 ――そんなに気に入った? ここ。

 おれはちょっとの間黙って、こぢんまりした室内を誤魔化すように見渡した。

 おれがこの高校に入学した時から、先生はこの校舎で化学を教えていた。確か今、二十九かそこらだと言っていただろうか。よく覚えていないけれど。

 で、「なんか楽そうだから」という理由で入った科学探求部の顧問が、先生だった。因みに現在化学の授業を教えてくれているのもこの人だ。

 外人みたいに色白で、すらりと細長いシルエット、ちょっと中性的なイメージを抱かせる端正な顔立ち。実に不愉快なことに、先生はルックスにおいてはかなり良い方だった。けれど、こういうタイプに真っ先に飛びついていきそうな本校の女子高生たちからはあまり好かれていない。というのも彼は言動が少し変なところがあって……、というかぶっちゃけて言わせてもらえば変人なのだった。いつだって常識の斜め上をゆく、まるで達観したようなことばかり言っているのだ。

冗談嫌いでクールな人柄なのかと思えば、『俺ね、こないだ夢の中で人間サイズのウナギと向かい合ってうな重食べてた。かなり気まずかった』なんてことを授業中に突然つぶやいたりと、何となく掴みどころのないところが難ありなのかも知れない。

 けれどおれはむしろそんな彼の物言いが気に入っていて、部活で話すようになって以来、ここをよく訪れるようになった。それなりに仲のいい友達くらいならば何人かいたけれど、はっきり言ってしまえば先生といるほうがずっと気楽だった。

 先生がまるで酔っ払いみたいな切り口で言う。

「そういえばさ、嶋、あの子のことはどうしたの。ほら、陸上部の爽やかな、ほら」

 なんてこった、名前が出てこないらしい。おれは上辺だけの馬鹿にした表情を浮かべて、椅子にふんぞり返って教えてやった。

「片瀬だろ、五組の。あの子は……丁重にお断りした」

「うっわぁ……。ないわ、嶋君。日本男児失格」

 オーバーなリアクションをしてみせる痛い大人に、おれはどんよりとした視線を投げかけてやった。

「てか、先生も地獄耳だよな。いつもいつも、一体どこから仕入れてんの、それ」

 おれが稀に女子と噂になったりすると、先生は決まっておれに「どうなったの、どうしたの」と周りの奴らみたいに聞いてくる。そして、断った、というと、これまた決まって「うわぁ、ないわぁ」と返してくるのだった。

「お前、まだまだ甘いね。高校生の恋愛に関する行動力ってもんへの理解が足りない。今回の片瀬さんの件は二組の子から聞いたよ。スポーツも勉強も達者でなおかつ美人な彼女なら、あの『硬派な』嶋くんもオッケーするかも知れないと」

 『美人』のところをやたらと強調された気がする。からかい九十七パーセント、嘆き三パーセントの言葉を聞き流して、おれは立ち上がった。

「別に知ってても知らなくてもいいけど、そう断るたびに非難されちゃ堪んないよ。好きか嫌いかなんておれの勝手だろ」

 ごちそう様、と、空になったマグカップを返した。

 マグカップを置いていた所に、さっきおれが空けたシュガースティックの袋とミルクの容器がどこか寂しげに転がっている。おれは割と甘いコーヒーが好きだ。ブラックなんて飲む奴の気が知れない。

 それらを摘まんで、ごみ箱へと足を運んだ。何とはなしに、百円ショップで購入したのであろうそれの中を覗き込む。

「――あれ、先生、病院なんて行ったんだ」

 この高校の近所にある、県立のでかい病院の名前が書かれた封筒が、底の見えるごみ箱の中にぽつんと横たわっていた。当然開封済みのそれを見たおれが声を掛けると、先生は何やら物思いにふけるようなゆったりとした口調で「うん、まぁね」とだけ答えた。

                

***


 かつかつ、と。

 細い指が、石灰で深緑の板に大した意味も持たない文字を描いてゆく。腹立たしいことに妙に秀麗なその文字たちは、恐らくおれの今後の人生において何の利益ももたらしてくれないのだろうけれど、真面目な俺は今日も律儀にそれをノートに写していくのである。幾本も引かれた線と線の間に、淡々と綴られていく化学式。

 ちらりと腕時計に目をやった。十一時三十五分――まだ、授業が始まって五分しか経っていない。その事実に僅かな落胆を覚えながら、俺は黒板に目を戻した。

 ―――あれ、

「先生」

 クラスでも結構発言力があって、はっきりした性格の男子が言った。

「その問題、前の時間でもうやってます」

 ス、と、おれはシャーペンで一本の線を引いた。いや、正しくは、加えた。

 ノートの隅に、小さく『正』の字が書きこまれている。もちろんおれが書いたものだ。『正』が一つと、『下』が一つ。クラス委員なんかを決めるときに使うような数え方だ。五と三、合わせて八。…八回目だ。先生が授業中にこんな間違いをしたのは。最初は先生をからかう材料になるなと軽い気持ちで数え始めたのだけれど、いよいよ笑えない数字になってきた。

 三週間ほど前から、先生は一度した単元や問題なんかを何の前置きもなくもう一度通るようになった。 初めはおれも「復習のつもりでやってんのかな」と思っていたのだが、ある日先生は同じ内容を三回目、通ろうとした。さすがにおれもクラスの奴もおかしいことに気が付いて、今日の奴みたくはっきりしたクラスメイト(多分、その時は女子だったんじゃなかったろうか)があっさりと「先生、またそこやるんですか」と聞いたのだ。

 その時先生は、何とも微妙な表情を浮かべた。悔しがっているような、諦めたような、はっとしたような…そんな、複数の感情がごちゃごちゃに混ざり合ったような、表情。

「あ、そっか。ごめんごめん。俺、ちょっとぼけてきてるからさぁ。許してね」

 先生は今日もまた微妙な表情を浮かべて、でも口ではそんな軽い調子で謝って、黒板に書いた問題を消した。

「…ねぇ、最近なんかおかしくない? 前はこんなことなかったのに」

 隣の女子が囁く声が、恐らく今の大抵の生徒たちの心境を代弁していると言っても過言ではないだろう。先生はたくさんの付箋を貼りつけた教科書を捲って、ようやく前の時間からの続きの内容を講義し始めたのだった。

 

***

 

 放課後。

 おれは今日掃除当番に当たっていない。活動が月に一度あるかないかの部活一つのみに所属おれはさしてすべきことも見当たらず、かといって真面目に早く帰宅して勉強するという気にも今日はなれなかったので、化学準備室で暇を潰していくことにした。

 無機質に窓からの光を反射する廊下の床を、上履きをぺたぺた鳴らしながら歩いた。途中、中年の女性教師二人が職員室の前で話しているのとすれ違う。彼女らの会話の断片を何とはなしに聞きながら、ゆったりと進んだ。

 化学準備室のドアは閉まっていた。

 この教室の鍵は、廊下を挟んで向かい側に設置してある使われていないロッカーの中にしまってある。一応南京錠がつけられていて、奇遇なことにこの三つの数字はおれの学籍番号だったりする。一年生のときに先生があっさり教えてくれた。当時のおれはちょっとびっくりして、「どうすんの、もし俺がここの薬品使って良からぬことでも企てたら」と試しに聞いてみると何とも乾いた声で先生が笑った。「こんなとこにあるしょうもない薬使って何か考えるほど、お前もガキじゃないでしょ」と、コーヒーを淹れに立ち上がるついでのようにそう呟きながら。

 引き戸を開けると、真っ青な空が一番に目に飛び込んできた。

化学準備室の窓はグラウンドに面した四階に位置していて、晴れた日には陽光が思い切り室内に入り込んでくる。今日も例に違わず眩い光が室内にむっとした熱さを居座らせていて、こんな秋の日でも軽く汗ばんでしまうほどだった。

 いつも先生が座っている椅子の近くの窓を開け放ち、なめらかに滑り込んでくる風に蒸し暑さを忘れた。

そのままグラウンドで健やかに走る少年たちの姿を見下ろしていると、なんだか微妙な心境にとらわれた。ひょっとすると、定年前のサラリーマンもこんな感情を抱くのかも知れない。ぼんやりとそんなバカみたいなことを考えていると、背後でバサバサ、と無粋な音がした。振り返ると、先生の机に置かれていた書類の一部が誰も乗れやしない魔法の絨毯みたいに床に落ちていくところだった。

おれは軽く舌打ちをして、落ちた書類を手早くかき集める。その中で、ある文字の羅列に目が留まった。

一枚の紙を拾い上げ、おれはまじまじとそれを見つめた。細長く折りたたまれた白い紙。何の考えもなしに開いて、直後おれはこの行為を激しく後悔し、そしてそこに書かれた文字にただただ目を見開いた。

診断書だった。

 先日この部屋のごみ箱の中に見つけた空封筒が頭の中でフラッシュバックする。薄青いちっぽけな海に沈んだ、病院の名前。それと同じ名前が、この診断書の右上にも印字されていた。当然のようにそれには先生の氏名が書かれていて、そして。


 『アルツハイマー』。

 目に飛び込んできたその単語は、何の準備もしていなかったおれの胸に容赦なく突き刺さった。

 それが何を指しているのか、そして世で言う「痴呆」や「認知症」という脳の病の正式名称が何なのかくらいは、一介の高校生であるおれでも知っていた。

 少しずつ鼓動が早まっていく。混乱する脳みそに、不意に先ほど廊下で聞いた女性の言葉がよみがえる。まさか、と顔を上げたその時だった。

「それね、遺伝性なんだって」

 聞きなれた声が、戸口から気だるげに響いた。

「最近聞いた話なんだけど、俺が小さい頃に死んだじいさんもその病気だったんだと。隔世遺伝っていうの? なんだかさ、老人よりも進行するのが早いらしいんだな、これが」

 先生はいつもの軽い調子でそう言うと、俺の前に立って、へらっと笑った。

 おれの手元から紙を抜き取って、たたんでポケットにしまう。立ち尽くす俺の横のいつもの席に腰掛けて、彼は頭の後ろで指を組んだ。

「……先生」

 絞り出すように、掠れた声を発した。色んな事が頭の中を洗濯機のスイッチを入れたみたいに回っていて、おれはそれらを上手く整理することが出来ない。

「学校、辞めんの?」

――『病院でもらった診断書、校長先生に提出してたのを見たのよ』『三年生にも申し訳ないからって』『これからどうするのかしら、無職ってことになるんでしょう?』

 廊下で聞いた言葉が、少しずつ目の前の事実と結びつき始める。俺が混乱と困惑をない交ぜにした目で彼を見たとき、先生はおれから目を逸らした。

「お前も、気づいてただろ。授業で何回も同じところ通って、意味もないことを生徒に何度も繰り返させて。…仕事ってさ、気持ちだけでやれるほど甘くないんだよな」

 だから、辞める。これ以上、ひどくならない内に。

 なんでだよ、と叫びそうになった。二年と少しの短く長い月日を通して見てきた彼の表情や言動が、瞼の裏をすり抜けてゆく。何より驚いたのは、先生がいなくなることに対してこんなにも動揺しているおれの胸の内に対してだった。

「そんな難しい顔すんなよ。簡単なことだろ。仕事をまともにやれない奴には、やれない奴なりの動き方があるってことだ」

 落ち着き払った様子の先生に、おれも段々と平静を取り戻していった。嵐のように吹き荒れていた心が、静かな悲しみを孕みはじめる。

「まぁね、俺が言いたいのは、親切で優しい恩師様が去った後もさ、卒業までここで元気にやりなさいよってことだよ」

 先生は何でもない、本当に何でもないような口調でそんなことを言う。

『なぁ、俺って生きてる意味あったと思う?』

 不意に、いつか聞いた先生の言葉がとんでもなく重たい事実を伴って脳裏に蘇った。

 あの時先生は、いったいどんな気持ちであの疑問を口にしていたんだろう。ふざけて見過ごしてしまった自分が腹立たしくてしょうがなかった。

 そうして、俺は拳を握り締める。すうっとうなじがつめたくなって、意識して喋らないと声が上ずってしまいそうだった。

 言わなければならない。正解だとか間違いだとか、そんなことは本当に意味のないことだったんだと今更ながら気づく。

 おれは戸口まで歩いて行って、背中越しに彼に声を投げた。

「先生」

 ん、と先生が顔を上げる気配がする。ひょっとしたら、もうこんな風に先生と言葉を交わすことは、もう出来ないのかも知れない。鼻の奥がつんとした。

「先生が生きてる意味、あったよ。すっごい、あった。先生のばかみたいなとこいっぱい見てきたおれが言うんだ、間違いない」

 覚悟していた羞恥心は、襲ってこなかった。誰が何て言おうとこれはおれにとっては真実で、それだけでもう十分じゃないかって思う。だって先生は、おれに、聞いたんだから。

 ほんの少しの沈黙が流れた。おれは先生の顔を見ない。少し見当違いな場所に視線を落として、身動ぎもせずに黙っていた。

「……ばか」

 短い言葉が転がって、はっとする。

「なに、生意気なこと言ってんだ」

 先生が泣いていた。気丈に紡がれる声は少しも震えていないのに、今先生は泣いているんだって、はっきりとわかった。

「俺ね、もう結構いろんなことを忘れちゃってんだけどさ」

 ため息のような声が、俺の前髪を揺らした。うっかり視界が滲みそうになって、なんて場違いな涙だろうって笑い飛ばしたくなる。

「お前みたいに生意気なクソガキのことなんか、一つたりとも絶対に忘れてやらない」

 

 廊下に出ると、無愛想な景色が橙色に包まれていた。

 暖かく曖昧なその光に、おれは何だか吸い込まれそうになる。

 先生は嘘をついたな、と思う。

 おれのことを一つたりとも忘れないなんていうのは嘘だ。

 だって彼は、あんなにも頻繁に呼んでいた俺の名前を、今日は一度も呼ぶことはなかったのだから。

 まぁ人間なんてこんなものだろうと思う俺の、このどうしようもない感傷を正確に表現してくれる言葉は、一体どこにあるっていうのだろう。

 青ともオレンジともつかない色をした空が、惨めに歩く俺を映した窓ガラスの向こう、儚げに浮かんでいた。


初めて書いた短編です。なので色々と粗いところが多いです(いつもだ)。

冒頭の何でもないような台詞が終盤で劇的に意味を変える、的な効果に憧れます。カコイイ。でも難しい。

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