絵に描いた世界に来たときのお話。
その日私は裸足で山を下ったの。人間のままの姿で。
どうしたらいいのかわからなかった。
でも、このままここにいても。
私の足は、憧れだったあの街に向かっていた。
「やっぱりな。そうだと思った。」
「えっ?」
私は振り返った。日は暮れ始めて、空には一番星が見えた。夕日のオレンジ色はサンドペーパーでメッキを剥がされた壁みたいに暗くなっていった。ただ、唯一の救いだったのが、私の耳に届いた声はよく聞く声だった。
「ゾロ」
私は声の主の名前を呼んだ。
カラスみたいな人。じゃない、狐。ゾロは私とは真逆で、真っ黒な珍しい狐の男の子だった。
「お前ら、何をしているんだ」
ゾロが来ると、私をいつもからかい笑っていた子狐達は顔を青くして逃げていった。食べごろのトマトが萎んで青くなったみたい。ゾロの鋭い目つきは、確かに迫力があった。
体は大きいけれど、キュッと引き締まっていた。足は早い。草を刈るような音を立て山を駆けるその姿は隼のようだった。
群れの中で1番格好良くて、1番私に優しい人だった。
それなのにどうして、皆はゾロを恐れ慄くのだろう。ゾロが来ると皆は蜘蛛の子のように散る。私にはわからなかった。私にとってゾロは、お兄さんのような存在だった。
「リーサ」
「ゾロ、私のことがわかるの?」
私はまだ二本足で立っていた。足が松ぼっくりを踏んづけたときのように、チクチク痛い。人間の皮膚が薄くて柔らかいことを、私は身を以て味わっていた。
「あぁ。」
ゾロは言い切った。私はようやく笑った。出来たての綿あめを食べるときみたいに、大きな口を開けて。それでも、いつも見上げていたゾロが私より遥かに小さいことに違和感を感じていた。
「リーサ。瞬きをしないでいてくれるか」
ゾロが言い終わる前に、私の目の前には背の高い人間の男が立っていた。
背が高くて細い。ヒマワリの種のように黒くてつり上がった目。黒い髪。
「ゾロ?」
「実は俺も、人間に化けるんだ。」
ゾロは得意げに笑ったの。
ゾロは私の運命の行方を手ほどきしてくれた。人間に化ける狐を、街の本物の人間はフーと呼ぶ。フーは狐の年齢で5歳になると、人間として生きるのか狐として生きるのか選ばなければならない。もちろんフーは伝説となっているだけあって、滅多に存在しない。
「実は今年が選択の年なんだ」
ゾロは私に教えてくれたの。
人間に化けた私とゾロは、街へ行くことにしたの。ゾロは黒ずくめの服装、私は真っ白なワンピース姿だった。どうしてなのかわからない。でも私は、先程までの不安が風が吹き抜けたかのように吹っ飛んだの。だって、街に行くことができたんだもの!
「ゾロは人間と狐、どっちにするの?」
私はゾロに聞いてみた。
「人間。」
ゾロはすぐに答えてくれた。
「どうして?」
「人間の方が面白い。街に行けばわかるさ。」
ゾロは無表情のまま、そう答えたの。
街に着いてすぐに、ゾロは私にサンダルを買ってくれた。
「人間はこれを履かないと、足がボロボロになるぞ」
ゾロの買ってくれた靴は、もう穴が空くほど履きつぶしてしまったけれど、今でも気に入っているよ。レースが付いていて、白いワンピースにとても合うんだ。カーテンみたい?失礼ね。可愛いでしょ?
「この紙、なぁに?」
私にとって、1番驚いたのは、人間がお金を使うこと。
「これがなきゃ、何もできない」
ゾロの言葉は今でも私の胸にのしかかっているよ。
ゾロはとても合理的な人だった。普段は無口でそっぽを向いて、必要なことしか話さないの。
でも私は、それが心地よかった。だってゾロは、決して私の傷つくことは言わなかったから。
だから私は安心したの。私はきっと、狐の仲間たちとは交わらなくても生きていけるゾロを強いと思っていたし、憧れていたのかもしれない。