愛のチャーハン地獄
会場では、既に試食タイムが始まっていた。
コック姿の人間が五十人ほどひしめく中、審査員たちは番号のついた皿の料理を取ってはしたり顔で味わっている。
「三番の料理作ったの誰ー?」
そんな中、若い男の声があがった。軽いウェーブのかかった茶髪に、室内だというのにサングラスをかけた、いかにもチャラそうな服装の男だった。とはいうものの、審査員プレートをつけているのだから、かなりの料理の腕前であることは間違いなかった。
「はいっ、私です」
男の声に慌てて愛は名乗り出た。まさか試食中に、番号を名指しされるとは思ってもみなかったため、心臓がパタパタと早足で駆け始める。一体、どんな選評が下されるのか、彼女は自分の心臓を宥めながら、男の次の言葉を待った。
サングラスの男は言った。
「これ……マッズィーんだけど!」
愛は、奈落の底へと転落した。
そして彼女は──打ちひしがれて会場を後にしたのだった。
※
水島愛はコックである。
四年制の日本初の料理高等専門学校──略して料理高専を卒業し、十九歳でホテルのレストランに就職。二十三歳で、叔父の経営するこじんまりした洋食屋の厨房に入ることを決意した。
それから二年。彼女の元に、高専主催の卒業生料理コンテストのハガキが届く。毎年行われているものではあるが、あまりに参加希望者が多いため、高専側が人数を絞って募集をかけるという憧れのコンテストである。
愛に参加しない理由はなかった。それどころか、学校を卒業した自分が、どれほど実力をつけたのかを知るいい機会だと思いすぐに応募した。受付順番が三番だったことが、彼女の意気込みをよく表しているだろう。
長めの黒髪を、綺麗に巻き上げてピンで留めるのは、コック帽にしまうことを前提としている高専時代からのクセである。化粧品は無香料。爪は短く、マニキュアは論外。指輪もしないクセがついている。
結果的に、愛は非常にシンプルな姿をするようになっていた。深緑の長袖ハイネックに黒いパンツ姿は、残暑も終わる今頃の季節に、丁度よいし動きやすい。可愛さという点が足りないのは、最近さっぱり恋愛に無縁なせいもあるだろう。
高専時代やホテル時代であれば、人との付き合いも多くそれなりにそれなりなこともあったのだが、いまや彼女は、叔父の店で働いている。働いているのはその二人だけ。しかも、彼女はコックだ。閉鎖された厨房では、ほとんどお客との接点はなかった。
そんな、少し潤いに欠けた日々を送る水島愛は、現在公園のベンチにいた。
コンテストを一次選考で落とされたおかげで、ぽっかり時間が空いてしまったせいだ。こんなに早く店に帰ったら、昼の営業を休みにしてまで送り出してくれた叔父に申し訳が立たない。
それゆえ愛は、ハトにエサをあげるリストラ社員のごとく、往生際悪く公園で時間をつぶすことにした。ベンチにぼーっと座り、「いいところまでいったが、あと一歩及ばなかった」と、自分のささやかなプライドを守る嘘をとりとめなく考える。
タヌキに似ているというさがった目じりを、愛は両手の人差し指で軽く上に引き上げ、少しぶれる視界で公園ののどかな景色を見ようとした。目じりと一緒に、気分まで下がっている気がした。今日のように、散々な日には特にそう感じてしまう。
そして、一週間分くらいまとめてぼんやりした愛は、スマホで時間を確認する。夕方の四時。
「しょうがない、帰ろう!」
ようやく覚悟を決めて、愛は立ち上がった。今日は朝早くに夜の仕込みは済ませてきたので、これからのんびり帰ってちょうどいいだろう。座り疲れた彼女は、一度大きく身体を伸ばしてから、重い足取りで歩き始めたのだった。
『ビストロ ラ・ヴェリテ』
それが、愛の叔父の店の名だった。「ラ・ヴェリテ」とは真実という意味である。叔父の名前の意味をフランス語に訳してそう付けられた。官公庁の多い地域に店があるため、ランチにディナーにと公務員と呼ばれる人たちによく利用されている。
板チョコのような木製の扉には、「CLOSE」の札がかけられていた。窓にはロールカーテンが下りているが、中からは明かりが漏れている。叔父がコーヒーでも飲みながら、一人の時間を楽しんでいるのだろうと、愛は思った。
「ただいまぁ……」
力の入らない声と共に、彼女は扉を開いた。
「お、愛、おかえり!」
父の弟である水島誠が、席のひとつから後方に背をそらすようにして入口の彼女に反応した。黒髪を綺麗にオールバックにした彼は、白いシャツに蝶ネクタイを外してぶらさげた姿で、予想通りくつろいでいるようだった。愛の鼻に、うっすらコーヒーの香りが漂ってくる。
年は、三十七歳。愛が子供の頃は「お兄ちゃんお兄ちゃん」と後をついて回り、よく遊んでもらっていた。一緒に仕事をするようになってからは、「お兄ちゃん」という呼び方は卒業していたが。
そんな叔父は、独身──ではない。五年ほど前に、当時叔父が働いていた店によくランチを食べに来ていた女性と、本人いわく燃えるような恋に落ちて、付き合って三ヶ月で結婚した。
誠の妻の名は、一子という。夫婦仲は円満だが、彼女は何とか省の責任のある官僚の地位ということで、とにかく忙しい人だった。一子の姿を一番見つけられるのがこの店のランチの時という、結婚前とどこが違うのかと愛がつっこみたくなるような結婚生活が続いている。
独立して叔父がこの店を持ったのも、彼女の力が大きい。金はあるが使う暇がないと言う一子は、仕事柄顔の効く不動産屋に手を回して、ぽんと即金でこの店を買ったのだ。どれだけ大物なのかと、開店祝いに招待された愛はぽかんとしながら、スーツ姿の一子を見たものだった。
しかし、そんな大人物の一子のおかげで、まんまとその厨房を愛は手に入れることが出来た。ストレスの少ない、穏やかな仕事が出来ているのも、彼ら叔父夫婦のおかげだった。
前のホテルは、高専の同級であり同僚でもある男と恋愛関係が破綻して、非常にいづらい状況になった。いや、別れただけで居づらくなったわけではない。その後も普通に、同僚として付き合いは続いていた。
問題は、男がホテルの別の女性と付き合い始めたことで、その女性に目の敵にされるようになってしまったことだ。職場恋愛ということで、前に彼が愛と付き合っていたことが筒抜けだったせいである。嫌がらせのオンパレードに物凄いストレスを覚え始めていた頃だっただけに、愛は叔父の誘いにホイホイ乗った。
そして、この店のコックである愛が誕生したのだ。
そんな恩義のある誠に、コンテストでいい結果を報告をしたかったのだが、世の中そんなにうまくはいかない。おかげで、こんな風にシケた顔を叔父に向けなければならなかった。
「いいとこまで行ったんだけど……」
愛は考えてきた嘘を叔父にチラつかせた。長い嘘をつくのは心が痛いので、これで空気を読んで彼が話を終わらせてくれるのを祈ったし、そうなるはずだった。
「ぷっ」と、誰かの噴き出す音が聞こえなければ。
叔父の向かい側。観葉植物に隠れた席から、その音は放たれた。
えっと、一瞬愛は頭が真っ白になる。叔父以外に誰かがいるとは思ってもみなかった。
「なーにが、いいところまで、だ。俺が懇切丁寧に一次選考で落としてやっただろ?」
観葉植物の向こうで誰かが立ち上がった。それは、聞き覚えのある、いや、忘れられない声。
緑の葉陰から姿を現したのは──サングラスの審査員だった。
※
「何であなたがここにっ!」
愛は目を転げ落とさんばかりに見開いて、この店の異物に向かって指を差した。
人に対して失礼な態度であるということは、いまの彼女の記憶からコロリと転げ落ちている。記憶に甦る、コンテスト会場での酷評。むこう一ヶ月は欝の種になりそうなその事件を、傷の新しいいまならなおさら忘れられるはずがなかった。
「審査の酷評が言い足りなくてね」
にやにやとサングラスの男は笑う。愛の、驚きにまみれてはいるが、明らかなる非難の目に気づいていながら、それを楽しんでいる気がする。
大体、この見ず知らずの男が何故この店にいるのか──その疑問には、二人の異様な雰囲気に首を傾げながら、叔父の誠が答えの一部を見せてくれた。
「愛、彼は料理高専時代の仲間じゃないのか?」
「えっ?」
叔父の一言に、愛は固まった。反射的に、昔のクラスメートを片っ端から被告席に呼び出して首実験するが、サングラスのせいでどうにも特定しづらい。
「ちょっと、そのサングラス取りなさいよ!」
クラスメートにあんな審査結果を叩きつけられたというのであれば、なおさら腹立たしかった。愛だと分かっていながら、人前であの仕打ちだ。一体どんな恨みがあるのかと問い詰めたかった。
愛がチャラ男の間近まで詰め寄って見上げると、にやにや笑ったままの口元で、彼はついにゆっくりとサングラスを取った。
「……!」
おしゃれな普通の男、と言えばいいだろうか。全ての部品は、取り立てて悪くはない。しかし特徴があるわけでもない。ただ、眉もいじってるし茶髪にピアスにネックレス。自分を磨いてちょっといい男に手をかけた、町でよく見かけるようなタイプだった。
ただし、彼も愛と同じように爪は短く指輪もない。香料を感じさせるものもつけていない。要するに、匂いがない。そこだけが、コックであるこだわりを残している気がした。
「……ん、んんー?」
そんな男の顔を見て、愛は一瞬ひらめきそうになったものの、記憶がうまくかみ合わずに脳内でクラッシュさせる。
その結果。
「ええと…誰、だっけ?」
怒りも忘れて、微妙な表情で問いかける羽目になってしまった。本当にクラスメートであれば、愛もかなり失礼である。四年間共にすごした仲間だというのに。
すると、ニヤついていた男の口が一瞬むっと閉ざされた。しかし、直後に再びニヤァっと嫌な弧を描く。
「昔から記憶力悪かったもんなぁ……愛は。ギャルギャル言ってるから何かと思ったらアガラギャール(寒天)のことだったしな」
男の思い出し笑いは、嘲笑めいていた。
それは確かに、愛が高専時代に覚えきれず「あれよ、ええと、ギャルっぽいの」と言って笑われたことのあるエピソードだった。
くそう、いくらフランス料理の用語だからって日本人なら日本語使ってよと、内心でひっそり涙する愛だった。
だが、そのエピソードを知っているということは、間違いなくこの男は高専の誰かだ。しかし、被告席を次々と入れ替わりながら座るクラスメートの中に、どうしてもその顔と一致する人間がいない。
「ごめん、降参。誰?」
愛は、頭を抱えながら白旗を振った。確かに記憶力は悪いのかもしれないと自覚が出始めていた。
すると男は、ますます楽しそうに口元をゆがめる。そして彼は両手を大きく広げ、その口から舌を覗かせて「さあて、俺は誰でしょう?」と挑戦的な質問を投げつけた。
次の瞬間。
ああもういいや、早く帰ってくんないかなこの人──愛は面倒臭くなって頭を抱えたまま、遠い目をしたのだった。
※
結局、男は愛の希望通り「またな」と言って帰ってくれた。彼女は、「またな」より「さよなら」の方がよかった。思い出せないのは気持ち悪いが、もう一度会いたい相手ではなかったのだ。
ただ、やっぱり気になったので家に帰った愛は、高専の卒業アルバムを引っ張り出してあの男を捜した。だが、どの写真を見ても面影の似た人間はいない。気持ちの悪い記憶クラッシュのまま、しかし、その内あの男のことは忘れるだろうと思っていた。
「うわ、これもマッズいぞ」
「何でいる」
洋食屋のディナータイム。叔父の誠に「シェフを呼んでくれだとさ」と言われたのでちょっとウキウキしながら厨房から出て行った愛を待っていたのは、あのグラサンチャラ男だった。
「いや、マズいってケチをつけようと」
「営業妨害か」
「営業妨害? いやいや、正当な評価だ……そんで愛、俺が誰だか思い出した?」
「忙しいので厨房に戻らせていただきます。ごゆっくりお食事をお楽しみください」
やりとりの空しさと、思い出せない気持ち悪さのダブルパンチで、すぐに愛は営業用のセリフを吐いて立ち去る。また叔父に、微妙な視線で見つめられてしまった。
それ以来、マズいマズいと言いながら、あの男は叔父の店に通うようになる。もはや、彼のマズイは挨拶のように彼女の耳には聞こえて、何のダメージも受けなくなった。人間、慣れるものだなと愛は自分の頑丈さに感心したほどだ。ついには、コンテストの人前での酷評も、その中にあっさり紛れ込んでしまった。
だが、おかしなものだと愛は怪訝さを隠せなかった。
料理高専卒業者が「マズい」という時は、「いかにマズいか」を語るものである。「夏の排水溝の臭いがする」と評されれば、さすがの愛も「それほどマズいのか!」と衝撃を受けるだろう。しかし、あの男のマズいは、ただ「マズい」だった。マズいのバリエーションが皆無なのだ。
「どうマズいのよ?」
ある夜、オーダーストップ間際にやってきた男に呼び出され、愛はフロアへと出てきた。いい機会だから、バリエーションを聞いてやろうと思った。もう少々の「マズい」では、これっぽっちも自分が傷つく気がしなかった。
時間も時間で、もはやシェフとしての仕事が終わっていたし、他の客は誰もいない。ここにいるのは、愛と誠とこのサングラスの異物だけ。誠は、二人のやり取りにはすっかり慣れてしまったようで、いまではただの風物詩のひとつのように、壁の側に立ってこちらを見ている。
「……色気がない」
愛の質問に、男は一言で答えた。
「……は?」
思わず彼女は、口をかぱっと開けた阿呆ヅラを相手にさらすことになる。
「愛の料理には……色気がない。だからクソマズい」
胸を張って宣言された言葉の後、ようやく呆然という時間が去り、愛はゆっくりと拳を固めていた。
殴っていいかな?
つい、壁際の叔父に視線を送った。駄目だと誠は首を横に振った。
「高専時代の愛の料理は、技術はヘッタクソなクセに、馬鹿みたいにウマかった。鴨肉から兎肉から、ムンムンの色気が溢れてきていた」
しかし、男の言葉はそこでは終わらなかった。昔を思い出すように一度顎を上げ、無意識なのだろうが大きな手で自分の口元に触れる。その中は、よだれまみれかと、思わず愛は聞きたかったが、論点はそこではない。
「人を、フェロモン垂れ流しの色魔みたいに言わないで」
誤解よと、聞いているだろう叔父に向かって愛は両手を振ってアピールした。 彼氏こそいたが、ふしだらな青春時代を愛が送っていたわけではない。
「高専時代……山部の奴と付き合ってただろう?あいつの得意な肉料理を作る時の愛は、肉汁がだだ漏れで最高だったぜ」
前半は図星。後半は意味が分からない。どっちにせよ、愛が素直に喜べる内容ではなかった。昔付き合っていた男の話をされて、愛は「そうそうそんなこともあったね」と笑顔で参加出来そうにない。
クラスメートだった山部とも、円満に別れた。「他に好きな人が出来た」と言われたら、それまで夢中だったことが嘘のように、愛の中の激情は温度を失った。「あ、そう。分かった」と奇妙な顔で返事をしたような記憶がある。何にせよ、昔の話だ。
「ホテルのレストラン時代は、麦野と付き合ってただろ? あん時のパイ包みは数日間夢に出るほど色っぽかった」
更に、時間は進んだ。今度は、愛がホテルに勤めていた時代に移り変わり、そして付き合っていた相手の名まで挙げられる。叔父の前で男性遍歴を並べられるというのは、どういう拷問だろうかと愛は泣きたくなった。
「ええと、もういい。というかもうやめてくれないかな。いろいろいっぱいいっぱいになるんで」
迂闊につついた罠から飛び出してきた竹槍に刺され、愛はすぐに降参することにした。この男を問い詰めると、ロクなことにならないのだけはよく分かった。
「そうやってすぐ降参するのは、愛の悪いクセだ。ちょっと強く言われたら降参しちまう。付き合う時も、別れる時も……付き合ったらすぐ、だらだらと色気を垂れ流し始めるくせに」
白旗を上げた人間を撃ち続けるのは、人道的にどうだろうかと愛はムスッとした顔を抗議に代えた。本当に、残酷非道な男である。
「けど……だからこそ愛は、恋愛してなきゃならない。でないと、こんなつまんねぇマズい料理を客に出す羽目になる」
テーブルの上の食べかけの料理を、男は愛の方へと押し出した。今日のディナーはサーモンのパイ包み。この男が言うことを総合するならば、「夢に見ない」パイ包みということになる。
「あなたの言うことを総合すると……」
夢に見ないパイ包みを見下ろしながら、愛はぶすったれながらこう答えた。
「あなたは私のストーカーということになるわね?」
精一杯の皮肉だった。
そうしたら。
男は。
にやあっと。
恐ろしいほどに笑って。
「いいや、俺はマズいメシを食わされていることに腹を立ててる復讐者だ」、と答えたのだった。
※
何故こうなった?
愛は首をひねっていた。閉店した後の洋食屋の厨房に、ポケットから出したバンダナひとつ頭に巻いたサングラスの男が立っている。
冷蔵庫を開け、サングラスを少しずらして品質を確認するのなら、最初から外せばいいのにと内心で愛は突っ込んでいた。
「色気のある味っていうのを、教えてやるよ」と、男は言った。そんなものがあるとまともに受け取っていなかった愛だったが、結局は押し切られた。いわゆる彼女の悪い癖である降参だ。だからこそ、いま男はこの店の厨房に立っている。
誠の声はフロアの方から聞こえてくる。彼の愛する妻である一子が、「一時間くらい抜けてこられたわ。一緒にコーヒー飲みましょう」と駆け込んできたからだ。コーヒーの香りと共に、彼らは談笑している。もはや誠は、厨房の愛のことなど忘れてしまっているかもしれない。
そんな温かな夫婦の空気とは逆に、ぎこちなさといびつさが満載の厨房では、いまやまさに男による証明が始まろうとしていた。
彼が取り出したのは、卵と残り物の米飯と油と塩と胡椒。
「チャーハンかっ!」と、愛は今度は声に出して突っ込んでいた。どんなすごい料理をこしらえるのかと思いきや、肩透かしもいいところだった。
「愛、お前これから三時間待てるか?」
卵を片手に、彼は肩越しに彼女を振り返って問いかける。
「待てるわけないじゃない」
店の閉店は十時。そこから三時間と言われたら日付をまたいでしまう。明日も店のある愛からすれば、悠長に待っていられるはずがなかった。
「だろ?」
品質チェックの時に少し下にずらしたサングラスのまま、挑戦的な目を愛に向ける。少し子供っぽく見える瞬間だ。チカッと、また愛の頭の中で記憶クラッシュが起きた。
「さて……」
チャーハンを作る男を、愛は一コマも手順を見逃さないように見ていた。 しかし、物珍しい動きは何もない。高専卒業生がチャーハンを作れといわれたら、半数以上がこの手順で作るだろうというシンプルな動き。
ただし。 とても、楽しそうだった。
ニヤニヤ笑う口元は大して変わらなかったが、棘や皮肉はそこにはない。いまにも鼻歌を歌いだしそうなほど軽やかに鍋を振り、「ほっ、よっ」と奇妙な合いの手を入れる。
その姿は──まるで子供のようだった。
そう思った時、彼女の記憶がチカチカと激しく点滅する。思い出せそうで思い出せないあと一歩。 愛が記憶クラッシュでもんどりうっているそんな目の前に。
「ほいよ」と、油と卵で金色キラキラのチャーハンが差し出される。その色艶と匂いに刺激され、仕事中に多少はつまみ食いをしていたというのに、愛のおなかがギュルンと鳴った。
「いただきますっ!」
愛は、己の食欲にあっさり降参した。スプーンをがっと掴み、その勢いのままチャーハンをすくう。そして立ったまま、口の中にチャーハンをねじ込んだ。
ボンッ!と。
愛の口の中で何かが破裂したかと思った。最初の一口目に、何だかわからない物凄い衝撃が襲ってきて、その直後に立っているのが難しくなるほど、腰がなえるように力が抜けて行く。
「お……おいしいぃぃぃ」
その一言を、言わずにはいられない。思わず、片手を台について自分の身体を支えずにはいられなかった。
米飯と卵と油と塩と胡椒。この厨房にある、いつも愛が使っているものとまったく同じものを使って、こんなよろけてしまうようなうまいチャーハンが出来るのか。
口の中でほどける米飯を、行くなと引きとめようとする卵。しかし、あえなく卵の糸もちぎれ落ち、唾液の洪水に巻き込まれる。噛むごとに口の中で味わいを変え、愛はそれを呑み込むのを一瞬躊躇したほどだった。
「おいしい、おいしいよこれ」
気が付けば、愛は夢中になってがつがつとチャーハンを食べ続けていた。自然と涙目になっている。本当においしいものに出会うと、人間は泣けてくるのかと愛は己の身で知った。
「どうだ、分かったか? これが色気のある味だ」
勝ち誇った顔で、男はサングラスを取った。完全敗北している愛を、その目にフィルターなしでおさめようというのか。
「おいしい、本当においしいよ、米倉くん」
「そうだろうさ……って、え?」
食べながら愛がぽろりとこぼした一言に、男は動きを止めた。
「あなた、フランス料理研究部の米倉くんでしょ? ずっるいなあ。クラスメートかと思ったら、二つ下じゃない……愛先輩じゃなくって愛って言うから分かんなかったよ」
スプーンについた最後の米粒を口の中に消しながら、愛は食べて幸せになった気分のまま、要するに笑いながらそう言っていた。
高専には部活がある。料理に関する部がやたら多く、その中のひとつに愛も所属していた。フランス料理は人気料理なので部員も非常に多い。四年という年月の間に、本当に数多くの部員が入れ替わる。そんな中、二つ下に米倉という少し大人しい後輩がいたのを愛は覚えていた。
部の合宿の時、愛が量を間違えて作ったせいで、料理を全部審査に回されたことがあった。自分の食べる分がなくておなかをすかせた彼女に、米倉はチャーハンのおにぎりを差し出してくれた。あの時のうまさと言ったら、いまでも忘れられないものだった。だからこそ、米倉という人間は愛の記憶にきちんと残っていた。ただし、今とは比べ物にならないほど礼儀正しく、丁寧語で「愛先輩」と呼ぶ、幼さの残る目立たないが可愛い後輩だった。
「あの頃から、米料理上手だったよね。何でフランス料理研究部に入ったんだろうって思ってた。作ってる姿と、これ食べたら、やっと思い出せたわ」
愛は、名残惜しくチャーハンのあった皿を台に置く。
「新入生勧誘用の試食で……牛のゼリー寄せ作ってただろ?」
今夜はチャーハンの夢を見てしまうかもしれないと、愛が思っていると。いままでの勢いはどこへいったのか。 男は、ぼそりとそう呟いた。
「あれを食べた時、腰がくだけそうになった。『こんなうまいものがフランス料理にはあるんだ』と思った。だから入った」
でも違ったと、彼は付け足す。
「あれは、愛……お前が作ってた。そして愛は……山部の野郎に夢中だった」
もう正体がバレたというのに、彼は「愛先輩」という昔のような呼び方には戻らなかった。
「あんな男のどこがいいんだと思ってたけど、卒業間際、別れたって聞いた後、愛の料理を食べて『何じゃこりゃ?』って思った」
ちっともうまくなかったんだよと、男は軽く眉間に皺の寄った表情で付け足す。
「卒業した後、愛が勤めてるホテルに食いに行った。夢に出るほどうまいパイ包みだった。三回続けて同じものを頼んだくらいだ。麦野の野郎と付き合ってると、他の先輩から聞いた。その後、しばらくして行ったら、『何じゃこりゃ』だった……そして愛はホテルをやめていた」
愛は、彼を見ていた。後輩の米倉という男だ。しかし、料理をしている姿以外に、その面影はほとんど残っていない。生意気そうな、口の悪い男に成長していた。
「名簿でコンテストに参加してるのを知って、まっさきに愛の料理を食べた……『何じゃこりゃ』だった……だから俺はマズいって言ったんだ」
応募用紙に勤め先が書いてあって、それがこの店だったと言った。彼は去年のコンテストの優勝者だった。その地位の人間は、自動的に翌年の審査員になるのだという。
「俺は、愛の腰の砕けるような料理を食いたい。夢に見るような料理が食いたい。けどお前は、恋愛にトチ狂ってねぇと、ちっともいい味にならねぇとよく分かった」
外していたサングラスを、もう一度彼はかけた。そして自分の目を隠してしまう。
「だから愛……」
一度、言葉を切って。
こう、言った。
「愛……俺に惚れろ。トチ狂え。その代わり、立ってられねぇほどのうまい俺のメシを食わせてやる」
サングラスのレンズが、ぐっと愛の顔に近づいて来る。かすかに透けて見えるその奥の瞳はよく分からない。
そのまま、彼は言った。
「俺に……降参しろ」
※
「うまいか?」
「おいしいぃぃぃ、くやしぃぃぃ……ああぁぁぁ」
スプーンをくわえたまま、愛は身体がぐにゃぐにゃの骨抜きになるのを感じて壁にしなだれかかった。 あれ以来、米倉は頻繁に愛に料理の差し入れを続けていた。
それにメロメロになっていくにつれ、愛は「降参した方がいいかも。いやしよう」と分かりやすいほど陥落していった。それくらい、彼の料理は誘惑的過ぎた。まさに、色気のある料理だった。彼もまた、そんな自分の才能を分かっていて、彼女に食べさせ続けるのだ。
彼女が降参の意思表示を見せる度に、米倉は黙って鍋を差し出す。
作らされるのは──チャーハン。
「うわああぁぁん! もう及第点ちょうだいよぉ!」
鍋を振りながら、愛は悲鳴をあげた。何回作っても「駄目だ。まだ色気が足りねぇ。口先だけしか俺に惚れてねぇ」とつれなく返される。
「惚れてるってば、本当に惚れてる惚れてる」
何十回も宣言しまくっているその言葉にはもう何の説得力もなく、言い疲れた愛もまただんだん棒読みになっていく。
「うるせぇ、マズいチャーハン作ったら、明日の差し入れはナシだ。俺の腰を砕くようなチャーハンを作るまで、俺に『何じゃこりゃ』料理を食べさせた復讐は終わらないからな」
気づくと、完全に主導権を握られた状態で、そう宣言され続けた。
そのせいで、愛は卵と米にまみれながら、米倉にむなしい告白を続けることとなる。
それは──彼が満足するまで続けられる愛の拷問となったのだった。
『終』