白磁
彼は嫌われることを望んでいるように思える。
彼のことをほんの少しだけ知ったからこそ、そう言える。彼はとても難解な人間で、浅い関係では誰の彼を理解することはできない。彼にとって世界は暗いもので、だからこそ彼はそんな世界に嫌われることによって、自分という人間を保っている。私もそこまで彼と親しいわけではない。ただ昔から同じマンションに住み、母親同士が昔から仲が良いというだけだ。いわゆる幼馴染みという関係なのかもしれないが、私も、そして多分彼も、そう認識したことはない。話したことはほんの数回、目が合ったことは一度もない。彼も私も引っ込み思案だと思われている。だからお互い、無理なコミュニケーションを取る必要はなかった。それが私は楽だったし、多分彼も楽だったと思う。同じ高校に入ってもコミュニケーションを取ることはなく、私と彼が幼馴染みだと認識している人は誰もいないためか、中学の時より彼の話題を耳に挟むことはなくなった。
人に嫌われたいと願う彼は、生徒会長になった。
元々人当たりは良かった。嫌われたいけれど、人を突き放す勇気もない彼は、母親譲りの綺麗な顔面と、父親譲りの脳みそで、どんどん人気者になっていった。彼は戸惑っているようにも見えたが、突き放すこともせず、とんとん拍子で生徒会長になっていた。自己主張は激しいのに、人に頼まれたら断れない性格が災いした結果だ。彼は誰も気づかないようにため息をつくことが増えた。人は誰かに頼らなければ生きていけないというけれど、彼は不幸なことに頼られる側の人間なのだ。ならば彼は誰に頼るのだろうか。私には関係のないことだけれど。
「文化祭の日に告白しようと思うの、野中くんに」
そんな会話が聞こえて、足を止める。野中くんとは、彼のことだ。生徒会長の彼はステータスから性格まで、なにをとっても批判すべきところが見当たらない。そのせいか、彼はとても女の子に交際を申し込まれる。そのたびに彼は断っているのだ。だって彼の浮ついた噂を聞いたことがないから。当然だと思う。だって彼は人に嫌われたいのだ。それと反対の行動をするわけがない。でも彼は見ての通り人を突き放すことができない。今はまだおとなしい女の子たちに、強く押されたりされていないが、押されたら、彼はきっと困った顔をして頷くに違いない。と、思う。断言はできない、だってこの推測は、ただの推測だから。それでも他の誰よりも私の推測はあたる確率が高いと思うのだ。だって、彼を見てきた年数が違う。好き、という感情では言い表せないほど、私は彼を見てきた。それはストーカーと呼ばれても仕方の無いくらいに。実際私も自分はストーカーのようだと思う。けれど、私は後をつけるような真似はしたことがない。見ていると言っても学校くらいだ。ただの言い訳でしかないだろうけど。それでも私よりも彼を知ろうと追いかけている女の子を数人知っている。彼は誰にでも好かれるからこそ、裏で厄介なことが起きていることが多い。彼は多分、そのことを知らない。人の汚いところを、あまり知らない。彼は、この綺麗な世界が嫌いなんだと思う。全然、綺麗ではないけれど。彼は頭が良いくせに、ところどころで馬鹿だ。
「好きです、つき合ってください」
文化祭当日、告白すると言っていた女の子は宣言通り、彼に思いを告げた。裏庭というベタな場所に呼び出して、そわそわしながら彼を待ち、少し遅れて彼が来て、そしてその台詞を、聞こえるか聞こえないかくらいの声で言った。彼は困った顔をしながら「ごめんなさい」と言った。
「どうして駄目なんですか」
私からは見えないけれど、女の子はきっと泣いている。その目で彼を見上げて、まるで弱いものかのように訴えかけている。昨日、彼とつき合えれば自分のステータスがあがると言っていた女の子とはまるで別人のようだ。彼はさらに困った顔をしながら「ごめんね」とまた告げた。女の子が彼に抱きつく。押しの強い子だ。もしかしたら彼は落ちるかもしれない。そのままいければ、の話しだ。彼は突き放すことはしない。このまま抱きしめられたまま、きっと頷くのだろう。それはそれで、つまらないというか、私はきっと悲しいだろうけど。
「離してくれるかな。悪いけど好きな人がいるんだ。その人に、誤解されたくない」
はっきりとした彼の声が耳に届く。好きな人がいるなんて、初耳だ。彼のことをほんの少ししか知らないから、当たり前なんだろうけど。
女の子は走り去った。それこそ少女漫画のように。もしかしたら女の子は本当に彼のことが好きだったのかもしれない。友達の手前、強がっていたのかもしれない。そんなことどうでもいいけれど。
世の中はどうでもいいことで溢れている。私にとってどうでもよくないことは、彼のことだけだ。もしくは彼と、彼に関する全て。勉強もどうでもよければ、友達という存在もどうでもいい。生きることさえどうでもいいと感じ始めていた頃があった。けれど、彼がいるから、私は死ぬことはないのだ。私の世界は彼で構成されている。彼がいなければ、私はきっと存在していなかっただろう。何故ここまで依存しているのか。単純な理由だ。それこそ彼にとってはどうでもいいのかもしれない。けれど私の中ではずっと残っている。
私は、死のうと行動したことがある。それはやはり、世界がどうでもよくなったから。マンションの屋上から、飛び降りようと考えた。屋上への扉は隙間があって、小さな私は余裕で通り抜けることができた。屋上からの景色は淀んでいて、けれどそんなことはどうでもよかった。普通の家庭に生まれ、普通に育ったのに、どうしてどうでもよくなるような性格になったのかは、きっと誰にもわからないだろう。もちろん私にも。生きることが面倒になり、なら死のうという単純な思考に、私は従ったのだ。飛び降りれば、一瞬でも空を飛べると考え、私は端まで歩いた。けれど、腕を引っ張られて、あれよあれよと屋上の階段を駆け下がっていた。掴まれた腕が少し赤くなるくらい、強く掴まれていて、私の腕を掴む彼の手は真っ白になっていた。
「しんじゃ、だめ」
その一言が私を生かしている。
あまり仲良くなく、話したこともあまりない彼が、私の為に走り、そして救ったのだ。それから私は彼の為に生きようと決めた。彼がよりよく生きていける為に。彼が生きやすいように。全ての不幸は私に、全ての幸福は彼に。そうしたのだ。それは私が決めたことだ。
「ここに、いたんだね」
あの頃よりも低くなった彼の声が耳に届く。振り向けば、学ランを着こなした彼が立っていた。
彼はゆっくりと歩いて、私を見据えた。けれど、視線が混じり合うことはない。私がそらしているからだ。
「どうかしましたか、生徒会長」
「ずっと探してた」
「ずっと、とは大げさですね」
こんな風に会話したのも、数年ぶりだ。彼と私の関係はとても薄いから。
「本当にずっと、なんだよ」
彼が泣きそうな顔をしながら、私を抱きしめる。私はされるがままになる。耳元で、彼の心音が聞こえる。一定の速度で鳴るそれは、とても心地よい音だ。目を閉じて耳を澄ます。
「同じ学校にいるはずなのに、会うこともなければ姿を見ることさえない。君を見つけたいと思って生徒会長になったのに、君はどこにもいなかった。名前はあるのに、姿が無くて、この二年間ずっと幽霊を追っているような気持ちだったよ」
彼は、まるで生徒会長になったのは、私のせいだと言っているようだった。彼は、周りに押されてなったのではなかったのか。自ら、立候補したのか。それはあまりにも予想外だった。そして、私を捜しているということも。
「僕は知っている。君が僕のために女の子たちを遠ざけてくれていたことも、僕の悪口を言っていた生徒を痛めつけたことも、僕のために、全て動いていたことも」
気づいたのは、最近だけれど。と付け足して、彼は私の顔を覗き込んだ。嫌でも目線が合う。彼の目はキラキラしていて、私はまた目をそらした。
「不安なんだ。僕の目の届くところにいないと、君が知らないうちに消えてしまいそうで、怖いんだ。お願いだから、僕の目の届くところにいてよ」
彼は懇願するように、私の肩を強く掴んでいる。彼のこんなにも焦っている顔は初めて見る。私はいつでも彼の近くにいるのに、彼はそれに気づいていないだけなのに。けれど彼をこんなに憔悴させているのは私なのだ。それがどこか優越感で、けれど申し訳なさが勝った感情に、支配され始めていた。彼はいつだって真っすぐだ。それが私には少し毒で、じわじわと犯されていく。
「そばにいてよ」
返事をするよりも前に、彼は私の唇を塞いだ。あまりにも近くにある彼の目からそらすことなんてできなくて、私は目を閉じることさえできずに、彼と何分も目を合わせていた。体の体温が上がり、顔が火照る。彼が離れたときにはもう、私の心拍数は血管がはち切れそうなくらい、上昇していた。彼もそれは同じようで、手で顔を覆ったまま、うつむいている。恋人同士でもないというのに、甘ったるい空気が流れる。その相手が彼だから、私は少しばかり嬉しい。彼にとって、私は特別なのだろうか。私はどんな存在なのだろうか。でもそんなことを聞くのはやめよう。
先ほどの問いに遅れて返事をした私に満面の笑みを浮かべる彼を見ただけで満足だから。
私にとって世界が彼だけだったように、彼の世界も私だけだったようだ。
お互いだけが存在できる世界。それはとても浅はかで、けれど、とても素敵だ。彼が私を掴んだあの日から、私たちの世界は互いだけのために存在していた。これからはそれを共有するだろう。まるで白磁のようだった世界は色あせることもなく、彼の周りだけが色を放ち、私たちは幸福に笑うのだ。