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第三話

 大正四年、ゆうは京都の中京区にある紺屋「丸伊」に住み込みで働いている。当時、京には、有名な西陣や友禅の作業場以外にも、特定の名称はなかったが、紺屋町が中京(なかぎょう)から下京(しもぎょう)にかけてあった。「紺屋町」という名前は各地の中心都市には必ずというくらい存在し、今でも地名として残っていることもある。ただ、京都は伝統文化の中心地であるから、全国のどこよりも多いと考えてよい。他にも紅屋や紫屋といって、専門の色ごとに染め物屋が数多く存在した。東京がいち早く海外の物心を取り入れ、より合理的でモダンな文化を誇ったのに対して、むしろ意固地ともいえるぐらい日本の伝統保持にこだわった。

絵画も、東京画壇に対抗して伝統画法を主張したほどだから、京都ではなかなか洋画が浸透しなかった経緯はある。それでも、産業は時代とともにどんどん西洋化していく中で、古くから受け継がれた手作業の物の良さを守り伝える努力をし続けていたのだ。

十八歳のゆうは、そんな難しいことはわからないながら、かつて西澤屋敷で見ていたスクモの生成過程から、天然染料としての「藍」がどういう工程を経て反物に使用されていくのか、大いなる好奇心と意欲を持って修行していた。

「初めてここで会うた時の親方は怖かった。」

主人の伊蔵は、今思い出しても、子どもの自分には経験がないほどの威圧感だった。まず、商号で驚かされた。年の始めと修行開始の挨拶を兼ねて前に座った時、その髭面と鋭い目つきに委縮した。小柄な田舎者の娘をじろっと見て、

「あんた、ここの名前の由来を聞いてきたんか。」

とダミ声で聞いたのだ。その低い声だけでもゆうを怯えさせるには十分だった。他のことは事前に華からいろいろ聞かされていたが、店名については聞いたことがなかったので、正直に知らないと答えた。また、じろっと見て、フーンとゆうの様子を探っていたようだったが、

「昔な、幕末におった坂本竜馬っちゅうお侍の用心棒に『人斬り以蔵』ゆう名ぁの荒くれがおったんや。この店始める時に、わしの気性と風体が似とるゆうて、師匠につけられたんや。」

今から思えば、単に子どもの自分を脅かしたり、軽く圧力をかける程度の話だったのだろうが、ゆうは泣きそうになった。後で聞いたお上さんの話を総合すると、藍の製造元として長い付き合いがあった、阿波の西澤の御料ンさんからやや強引に弟子として引き受けさせられたものの、伊蔵にとっては戦場のような染め元の作業場に、年端もいかない、しかも女子の弟子を取ることには不本意だったようだ。お民の言い方では、「世間知らずの小娘なんかに、こんなしんどい作業場が務まるもんか。」とか「弟子ゆうたって、皆、海の物とも山の物とも付かんのばっかしで、五年十年経って初めて見込みがあるかどうか…っちゅうもんや。数はようけはいらんのや。」というのが愚痴だったらしい。当時、藍の染め元としては定評があり、安定して注文をこなしていた「丸伊」では、熟練の職人の手を煩わしたり、ずぶの素人に(そこには必ず『おなごの』という言葉が付加された。)一から教えている余裕はなかったと言ってもよい。

また、その次に出た言葉にもゆうは泣きそうになった。彼女は初めて主人や染め場の一同に挨拶するというので、西澤屋敷での奉公明けの際に華が持たせてくれた一張羅の着物に、藍染めの新しい前垂れをしめてそれなりに気概を示したつもりだった。しかし親方の言葉から、それは逆効果だったと思い知らされたのだ。

「ほんでな、あんた。そんな、仕事しよって尻でも見えそうなカッコで働けんのか。ここにも女の職人はおるけど、そんなちゃらちゃらした性根では働いとらんで…。」

横で気の毒そうに見ている多くの弟子たちの目線の中で、彼女は震えながら頭を下げた。

「ほんまにすんませんでした。すぐに着替えてきますよって…。ほんでも、何を着たらよろしいんでしょうか。」

半泣きでやっと質問した娘に、主人は黙ったまま作業場の隅に視線をやった。そこには、職人たちが日常的に着重ねる法被や袴やらが無造作に畳まれていた。昔から「紺屋の白袴」とはよく言われるが、お世辞にも白くも清潔でもなかった。ゆうは半べそ顔のまま、その中からなんとか自分でも着られそうな物を探し、お上さんの指示を受けて急いで着替えたのだ。それが、ゆうの京都生活のスタートだった。

その後も、初歩の作業を仕込んでもらいながら、2~3年先輩の男性に叱られることも多かったが、たとえば藍甕の染液の調合(藍建(あいだ)て…という)について、忙しい中ぶっきらぼうで早口に説明されてもよくわからないこともあったので、

「あんのう、すんませんが、もう一度言うていただけませんか。」

と遠慮しつつお願いすると、こちらをじろっと見てわざとらしく溜め息をついてから再度言ってくれた。しかし、その後には必ずと言っていいほど「軽い侮蔑の表情」を感じた。休憩時間になった時、厠から戻って先輩たちが気付く前に部屋に入ると、

「納期が近づいて仕事が立て込んだらここは戦場や。あんななよなよした小娘の相手なんぞしとれるか。飲み込みが悪いと頭はたきとうなるわな。」

などと愚痴っているのが聞こえて、ゆうはそっと部屋を出ることもあった。それは単に職場に慣れない新人だからとか、田舎から出てきて行動のテンポが違ったり、機転が利かないというような「ズレ」ではないように思える。その人たちの意識の中にある、男性社会に飛び込んだ異質のもの、つまり女である同輩に対する拒否反応だった。

作業場とは通路を隔てて、染めの型を作る「型紙作り」の部屋や、「絞り染め」の絞りを行なう糸場もあって、そこではお民を中心とする女性職人達が働いていた。しかし、そこの面々はそれなりの専門知識や技術を持っていて、他の男性従業員からも認められ尊重されているようだ。男の職人から文句が来たり、陰で悪口を言われるようなことはない。

ゆうが志した、「藍染め」の染液の精製から、製品となる反物に仕上げる過程は、長い修行期間とそれなりの感性が要求される「男の職人」の職域だった。お得意さんにも相当する華から、ぜひ良い職人に育ててくれ…という依頼は、伊蔵をはじめとした男性職人の誇りと独占意識を侵害するものだった。口には出さなかったが、1~2年義理にでも置いて、そのうち自ら断念してくれれば…ぐらいにしか思ってはいなかったのだ。ゆうが一番悲しかったのは、誰かに怒鳴られたり嫌味を言われている時、露骨に笑ったりはしないが、明らかに知らんふりをしながら表情を見せないように目配せしあっているのが分かるときだった。

十数人いるそこの人々の誰も彼女を庇う者はいなかったのだ。ゆうはたとえどんなにキツくても、ここでやっていかなければならない覚悟を強いられた。ただ、彼女は華からの紹介でもあり、半分は藍染の仕事と、半分はお上さんに付いて家事もさせてもらえたので、時々のお民の励ましや慰めが支えになった。

「ゆうちゃん、親方は言い方はキツいけど、お腹の中は剛毅でええ人や。あんな言い方をするんも、あんたをしっかり仕込もうゆう腹積もりやからで。つろうても辛抱して頑張ってれば、きっとええ職人に育ててくれはるえ。」

それから二年、まだまだ下っ端の一人で厳しい仕事が多いが、ゆうはお上さんの言葉を通して、伊蔵の本音も理解し始めていた。世の中は第一次世界大戦の戦争景気に沸いていたが、ただただ忙しい職場で、ゆうは不満というのではなく親方に質問したことがある。

「親方、うちらはいつ染めの工程を教えてもらえるんでしょか。」

素直に伊蔵の表情を覗き込んだゆうに、彼は衝撃的な言葉を投げ返した。

「ふん、まだ二年や三年でなんぞでけるとでも思うてんのか。職人は十年やって初めて一人前や。お前ごときが今の腕で何がでけるか。…そやけど俺の情人(いろ)になるなら話は別や。」

小指を立ててうすら笑いを浮かべた主人に、ゆうは何を言われたのかわからずに戸惑っていた。

「わしの妾になるかと言うとんのや。そしたら特別に早う教えてやってもええで。」

意味を理解して、ゆうは言葉もなく工房を飛び出した。まだ、女性の社会進出が遅れ、男性から見れば立場が弱い時代ではあった。しかし、仕事はどんなに厳しくても辛抱できるが、人間としての誇りを傷つけられることだけは我慢できない。周囲への信頼や仕事への情熱が崩れそうな出来事だった。悔しくて、何を言い返す気にもなれなかったのだ。

「うちはけして親方を嫌いやない。尊敬もしてる。ほんでも、たとえ冗談にでもあんなこと言われるやなんて、うちの何がいかんのやろう、うちは人間としてあかんのやろか…。」

ゆうは部屋に飛び込んで泣いた。かつて華から、自分の立場でもし和彦と噂にでもなれば、それはゆうが少年を(たぶら)かすことと同じだと世間は判断すると言われた。そのことは迷いなく否定できる。だが、伊蔵のような大人の男から、からかいでも厳しさでもなくこんな言葉をぶつけられるとは思ってもいなかったのだ。それまでの二年間、民だけでなく職人仲間からも徐々に思いやりは感じるようになってきた。彼女が真剣に修行に打ち込むうちに、最初の(わだかま)りはいつのまにか消え、染めの仕事はもちろん賄いの世話など、ゆうの真摯な仕事ぶりは好感を持って見られるようになっていった。

「京へ来てから、いろいろびっくりすることも多かったけど、うちは周りに馴染めるように、迷惑かけたり心配させんようにと自分に言い聞かせてきた。そやから洋平さんも他の人も何かにつけて庇うてくれはる。」

洋平はゆうより二歳年上の若い職人だ。ゆうがこの店に馴染んだ頃、ちょうど他の染め場から回ってきて同じ立場として仕事を教わってきた。それまで最若手で一番厳しくされてきた同情からか、職人仲間では特にゆうに親切な一人だった。何かにつけて叱られたり罰をくらったりする後輩の姿を人知れず心配し、女性だからというだけでなくいろいろ気配りをしてくれる。藍染めの技術でも、自分が分かる範囲で細かく説明してくれた。また、ゆうだけが雑用ばかりしなくてもいいように、わざと残って一緒に仕事をしてくれることもあった。親方はそんな若者の様子を、

「てめえも半人前のくせに、なに偉そうに教えとんのや。」

と叱り飛ばすことがあったが、お上さんの民はそんな二人を微笑ましく見ていた。

「あんた、ええやないか。今は未熟でも二人ともやる気があるし、あんたかて筋はええて言うてたやおへんか。お互いに助け合うて、将来ええ職人に育ってくれたらこんな望ましいことはないで。うちら子供もおれへんのやし、あの子らが夫婦養子にでもなってくれたら、うちは嬉しおすわ。」

妻の得々とした表情に、苦虫を噛み潰したような伊蔵は何も返事をしなかった。

 藍の媒染場は四季を通じて一定の温度管理が重要だ。染色は、まず乾燥した粉葉の塊の状態から、水や灰汁(あく)などのさまざまな調合物を添加することによって、その店独特の媒染液ができあがる。紺屋によって伝統の調合技術を持っており、日本酒や昔からの植物性の添加物などが企業秘密になっていた。そして、それらの微妙な調合と熟成状態が、染め液の発酵過程で微生物の作用を助け、それぞれの店独特の色を生み出してゆき、そこの親方をはじめ職人集団の作る製品となる。その適温が、年間を通して二十度から三十度の間で、夏暑く冬寒い京都では温度調節が重大な仕事の一つだった。たとえ自然現象のせいでも、数度の温度差からその一年分の媒染液をすべて無駄にしてしまうこともありうる。


挿絵(By みてみん)


ゆうが入って毎年の「(かめ)始め」の親方の言葉は、まず怒鳴らんばかりのその戒めからだった。

「ええな、お前らにとってはちょっとした手抜きや気の緩みでも、それが高価な藍のすべてを『わや』にしてしまうことになるんやぞ。『わや』にまでせんでも、色目やでき上がりにも必ず『えかげんさ』は出る。この『丸伊』の製品は、師匠の代からお公家様にも買い上げていただいた高貴な品もんや。他の店には出せん色と丁寧な仕上げが、長い間この店の信用を支えてきた。お前らもしっかり肝に銘じて仕事してくれ。ええな。」

二度三度の念押しにも、皆、真剣に頷いて作業に取り掛かったものだ。それほど、染め液の作成と温度管理は「すべて」に通じる「藍染めの命」とも言えた。だから、たいていの店の作業場では大型の甕が土中に埋め込まれていて、その土間の夏の暑さや冬の底冷えの中での作業が要求される。洋平やゆうのような下っ端の職人は、藍甕の扱いと管理や染液を出した後の洗いから仕込まれた。それは夏冬の気温差や作業の大変さはもちろん、作業場全体の匂いと大甕の扱いからも重労働だったのだ。

だが、スクモが染色液となった時の見事さは、言葉には表現できないほどだとゆうは思う。その過程を「藍建て」というが、見た目には特に激しい変化はなく、薄暗い藍場の中で三日かかって静かに染液に育ってゆく。そして、発酵が完了した時、表面に浮かぶコバルトブルーの泡がそれを知らせるのだ。そのことを「藍の花が咲く」というが、ゆうには、まさに単なる植物の塊のスクモが、水やいろいろな栄養をもらって、これから製品としての実を結ぶ前の「花開いた」印象だった。

江戸期にスクモの製品化が実現するまでは、奈良時代以前から、藍は(なま)()染めにしか使用されていなかった。大昔には木綿繊維はなく、貴族の絹か、庶民は麻や苧麻からむししか着なかったので、一般人の間に染色はほとんど使用されていない。高度な技術ではなかったが、一部の有力者や為政者は、草木染めに属する草の葉を用いた「みどり」、藍の生葉で染めた「はなだ」、ムラサキの実から染めた「むらさき」、茜草の根を用いた「あか」「しゅ」、ウコンなどの根や木の実から染めた「きいろ」「だいだい」を衣服に使用した。位階を分ける色使いもこのようにして開発されたのだ。しかし、生の葉や実は腐敗しやすく、色も長持ちしにくい。それぞれの貴族が所有する荘園内では可能でも、後世のように大量の衣類を染めたり、製品として広範囲に流通させるのにはそぐわなかった。

江戸時代になってから、幕府の奨励もあり、全国的に綿花が栽培され木綿が紡ぎ出される。そして織られた綿製品は安価で丈夫で、日常着や作業着に向いていると庶民に広まっていった。その木綿によく染め付く「藍」が、一番の需要を受けるようになったのだ。しかも、生葉染めでは染料としての保存が利かず、流通も色合いも限られる状態だったのが、スクモという広い範囲での売買に耐えられる製品として、全国に広まっていった。藍には薬効もあり、藍染めの作業着は皮膚病の予防に効果があったり、虫や蛇が寄り付かないので「まむしよけ」とも言われた。加えて、何度か行われた幕府の贅沢を禁じる政策の中で、人々は木綿製品を、できるだけお洒落に実用的に身の回りに使用する工夫をしたのだ。それが後に、開国下で訪れた外国人が日本の印象を「ジャパンブルー」と表現し、小泉八雲が「青があふれる国」と言った由来となる。

藍草という植物に含まれるインディガンは、そのままの状態では青くなく染め付きもしない。スクモは、インディガンをいったんインディゴホワイトに変化させ、さらに藍染め液に建てることによって、木綿などの布に染め付きやすくさせる。しかし、その液は青色ではなく茶色がかった緑の液体にすぎない。布を浸すと染液の中のインディゴが緑の色を付けるが、さらに空気中の酸素や太陽の光で鮮やかな青へと変化していくのだ。しかも何回か漬ける過程を繰り返すことで、さまざまな濃淡の色の差を作れることと、一部に高価な「べに」や「きわだ」を入れて、(かすり)模様などの工夫ができることで庶民の衣服文化の中心となった。また、藍は、その需要の拡大から、麻・綿花とともに「(さん)(そう)」として、江戸期の重要な農作物でもあったのだ。

 ゆうは、修行の折々に先輩からそのような知識を得つつ、かつて故郷の阿波で知った藍草の素朴さやたくましさを思い出していた。洋平も高等教育は受けていないから、学術的なことは解説できないにしても、職人としての熱心さから学んださまざまな知識があり、ゆうにいろいろな藍の話をしてくれた。伊蔵の工房には女性職人も多くいて、彼女たちの型染めの技術や細かい手作業による絞りの加工なども見事なものである。ゆうは、それらの男性・女性を問わない先輩職人の繊細な仕事内容に感動した。

型染めの工房では、その技術をお民自らが先代の師匠から受け継いだという、伝統模様の型紙には数多くの種類があった。昔から繰り返し使用されている、楮紙(こうぞ)に柿の渋を塗った型紙が何百枚も使われており、江戸小紋などの模様が鮮やかに染められていく。一般的な「麻の葉」や「青海波」「唐草紋」だけでなく、「雪花」や「変わり七宝」「雪持ち笹」「瓢箪」「菊唐草」などが複雑に組み合わされた模様にゆうは驚嘆した。なんと繊細で深みがある柄や文様だろうと、それは以前の和裁修行でも知らなかった驚きだった。それから、お民の直弟子の幸江(さちえ)が中心となっている数々の「絞り」の過程でも、その作業の段階の多さと細かさで、一反の布が手間も暇もかかる芸術作品であることを知った。

親方は、特に絹の高級品に拘り、もちろんだが、ベテランの職人にも気を抜くことも手抜かりも許さない。少しでも言いつけどおりでなかったり、気に入らないことがあると、容赦なく平手や拳が飛んだ。それはどんな先輩職人に対してもそうだった。ゆうは、目の前で何度も、洋平や他の人が罵倒され叩かれるのを見てきた。自分が本格的に作業に加われば、当然そうなるだろう覚悟はとっくにできていた。しかし、不思議とこの頃は女性である負い目や差別は感じなかったのだ。もし、仕事の上で親方に罵倒され平手打ちされるなら、それは洋平たち男性の職人と同じ扱いだから、と自負できた。

あの時、親方が口にした「情人」という意味はなんなのかと考える。お前には素質がないから「やめろ」と言ったのか、しょせん女は男のような「職人にはなれない」と言ったのか、今でも彼女には判断がつかなかった。あの日、泣くだけ泣いて出した結論はこうだった。

「それなら、それでもよい。自分自身、特別な扱いを望んで言ったのではないのだから、教えてもらえないのなら、自分で学べばよいのだ。」


               挿絵(By みてみん)


 ゆうは、それからは年配の職人の仕事に、より一層の関心と注意を払った。そして、それと同時に、どんなに夜遅くてもどんな大変な雑用でも、彼女は進んで引き受けた。一見無駄に見えても、細かい作業のひとつひとつにきちんと意味と効果があることを知り、過程を確認しながらいろいろな知識を身につけている。そばで長い間ゆうを見守ってきた洋平は、そんな妹弟子を徐々に好ましく思い始めいたようだった。

「ゆうちゃん、今度の休み、ひまやったら東山の方でも案内したろか。ずっと忙しかったから、まだ清水さんやら行けてないやろ。」

二年の間、休みも惜しんで自分の課題をこなしたり、民の手伝いに明け暮れたゆうは、その申し出を喜んで受けた。

「おおきに。洋平さんは京のお人やけん、いろいろな所知っとられるんやね。」

次の、親方から「休んでええ」と言われた暖かい一日、二人で出掛ける姿をお上さんの民はほほえましく見送った。春の京都はどこも人出で賑わっている。東山辺りは特にそうだった。中京からは市内電車ですぐに行けた。

「いやあ、清水さんも、高台寺さんも、こないに近いとこじゃったんねえ。」

と驚嘆するゆうに洋平は優しい目を向けた。

「そのうちには、金閣さんも銀閣さんも、行きたかったら北山や鞍馬も連れてったる。」

彼はこころなしか浮かれているように見えた。日常の作業の中では、個人的に会話したり特定の人と組んで仕事することもない。まして、洋平は通いでゆうは住み込みであるうえ、彼女はほぼ毎日、一日のほとんどを仕事に忙殺されたきたのだ。洋平がどこかでゆうに話しかけたくても、ゆうの状況なり心情なりを知りたくても、ゆっくり話したりお互いを知るような時間はなかった。

二人で肩を並べて歩きながら、京へ来てからのことや仕事場のことなどを話した。清水寺の境内の一通りを見てから、産寧坂(三年坂)を下って高台寺方面に出た。茶屋で一休みしたあと、ついでにと丸山辺りまで足を延ばす。祇園が近いのでちらほらと舞妓の姿を見かけたり、ゆうは初めて京都らしい雰囲気を味わっていた。

「日本の着物はやっぱり綺麗やねえ。」

ふと足を止めて、会釈しながら行き過ぎていく舞妓に見入るゆうに、洋平は不思議そうに尋ねた。

「ゆうちゃん、女の子やったら友禅のような模様染めの方が華やかで好っきゃろうに、なんで藍染めにしたん。俺は好きやけど、どしても藍は地味に見えるやろう。」

ゆうは、聞かれてやや嬉しそうに振り向いく。それは、彼女の心の奥の懐かしい部分を刺激する言葉だった。

「阿波で、藍商のお屋敷に奉公させていただいた時、藍葉がスクモになるんが想像もつかずゆかしかったんです。うちは、ご隠居さんが好んで着てはった着物やら、えも言われん青の濃淡で染めてた布団やらの綺麗な柄が好きでした。彩りが華やかなんも好きやけど、藍の方がえっと深みがあっておもしろいと思いました。」

遠くに思いを馳せるようなゆうの視線と、頬を染めて語る正直な意見は洋平に好感を抱かせた。

「ほうか、ほんでも藍にも派手なんのもあるんやって。俺もまだ見たことはないけど、親方が(おお)師匠の所で見せてもろた『藍型』ゆうんは一段と華やかなんやと聞いたことがある。」

また耳新しい言葉を聞いて、ゆうは目を丸くした。洋平の説明に心躍る様子を隠さない。

「琉球に『紅型(びんがた)』ってあるやろ。あれの藍を使うた型染めやて。そやから、あっちでは『えーがた』って言うそうや。」

聞きながらゆうの瞳がきらきらしてくるのがわかった。洋平も話に聞いただけなので、そのイメージがいま一つつかめないが、ゆうには、見れるものなら見たいという思いでいっぱいだった。「紅型」の色差しはそのままで、地染めや部分染めが青の濃淡だったらどんなに素晴らしいか…とわくわくしてくるのだ。

「へえ、聞いただけで目ぇに浮かびます。なんや異国の模様みたいな気がします。うち、本物の藍型やら見てみたいわあ。」

子供のように顔をほころばせるゆうを、じっと見ていた洋平がいつの間にか黙り込む。人で賑わう丸山公園の桜の下を歩きながら、しばらく迷ったようだが勇気を出して口を開いた。

「ゆうちゃん、あんた好きな男いてるんか。」

歩きながらの小声なので周囲の人間には聞こえなかったが、ゆうには聞き取れた。はっと立ち止まる彼女に自分の思いをポツリポツリと語る。

「俺はまだ半人前やけど、親方にもまだまだ認めてはもらえてないけど、この道で一生懸命仕事していって、いつかは一人前になるつもりや。あんたが、もし将来を考えるような男が誰もいてへんのやったら、俺のこと相手として考えてくれんやろか。」

彼は、お上さんから将来ゆうと所帯を持てるかと聞かれて、自分の気持ちを確認したことや、ゆうの強さ優しさ、困難にも明るく対応する姿を見ていたことなどを話した。

「・・・。」

ゆうは表情を曇らせてうつむく。三好を出るという話の時、父の良蔵は怒り母のお峰は泣いた。長女のゆうをやっと年頃に育てて、旧知の名家に奉公に出したのも、できれば良縁を得て生涯苦労しないようにという親心からのことだった。それが、一年半を経て主家から戻った娘が望んだのは、女ながら染め物職人を目指して修行に出してほしいということだった。ゆう一人が言うことなら閉じ込めてでも反対しただろうが、恩ある西澤の華が後押ししていては無下に断ることもできない。正直に言えば、実家の親の気持ちとして、早く挫折して故郷に帰るか、京都で縁でもあれば嫁に行ってほしいところだろう。

「洋平さん、うちな、男の人のことは考えんと、染めの世界で早う一人前になりたいと思うてますんや。」

きちんと彼の方を向いて、丁寧にしかしきっぱりと言い切った。

 ゆうには、心の中に宝とも言える二つの風景がある。一つは実家がある美しい山川の景色と、もう一つは、夕焼け空に舞う赤トンボを背景に寂しそうな表情を浮かべた和彦のシルエットだった。あのままいられるなら、加代子や清彦のためばかりでなく、和彦が希望を叶えられるようにずっと見守っていたかったことは事実だ。だが、少女の淡い感傷は、幸か不幸か大人の判断基準で現実を見ざるをえなくなった。彼女が決断した時は、同時に和彦にも現実を突きつけたことになったのだ。二人ともいつまでも子供時代の優しい真綿の中にくるまれてはいられなかった。それなら、互いに、自分が望むことのためには思いを犠牲にするくらいの開き直りはできる。彼女がここまで頑張ってこられたのは、あの時の和彦の哀しみが心に染みついていたからとも言えた。

「かずさん、うちのこといつも純粋に見ててくれはった。うちがお屋敷を出て遠くに行くって言うた時も、怒ったりすねたりせんと『応援する』って言うてくれはった。きっと、かずさんも絵ぇの道を目指して頑張ってるはずや。」

細かい事情は洋平には伝えなかったが、恋や生活の安泰よりもゆうには叶えなければいけない、あの時の和彦に対する思いがあったのだ。それが、ある意味彼女の「愛」だった。

「ほうか、残念やけど、まったく望みがないわけではないんやな。ゆうちゃんに他に好きな男がでけるまでは、一応覚えてくれてたらええんや。ほんで、もし俺と一緒になって仕事してもええて思うたら、その時は必ず言うてな。」

洋平は屈託なく笑った。それからも時々一緒に寺院や染めの展示会などに出かけたが、彼からも民からも二度とその話は出なかった。そして洋平が数え二十二歳になった正月に、彼はお民の姪と祝言を挙げて、親方の夫婦養子となって、余所で修行するために下京の他の店に移って行った。

「ゆうちゃん、俺、お上さんに言われたからやのうて、本心からあんたのことええと思うたんやで。ほんでも、仕事では仲間であり競争相手や。お互いに早う一人前になれるように頑張ろな。」

別れ際に僅暇を得て、彼はゆうに気持ちを伝えてから丸伊を出た。ゆうは、良い先輩を無くす寂しさを覚えたのだった。

 五年の修行期間で、彼女はずっと一番下の職人として、他の同僚の指示を受けねばならない。だが、伊蔵の言い方は最近どこか違うように感じることもあった。

「おゆう、お前こないだの藍建てのとき、わしの言うた濃度をちょっと変えたやろ。あれ、なんぞ理由があるんか。」

てっきり怒鳴りつけられるかと身構えたが、親方はそのまま彼女の返事を待っていた。ゆうは相手の表情を探りながら、勇気を出して自分の考えを言ってみた。

「一番甕と三番甕は調整で染めることが多いんで、こころもち薄めの方が加減がええて思いました。」

そして、また親方の顔を見ながら、遠慮気味に言葉を続ける。

「二番甕はたいてい一回で、臈纈(ろうけち)の模様付けや絞りの(しま)い染めが多いんで、こっちは濃い目やとできあがりの色がしまると思うたんですが…。」

黙って彼女の言い分を聞いてから、伊蔵は店持ちの反物の切れ端ゆうに手渡した。

「ほな、お前の言うとおりかどうか、これでやってみい。ええ色になるようやったら、このまま使うてええぞ。」

ゆうは親方の言動に驚愕した。彼のような頑固一徹の威圧的な男が、女である自分の言ったことを、試しにでも聞いてくれると思ってはいなかったのだ。もちろん、主人の指示に反抗したわけではないが、それまでの弟子達が絶えて言ったことがない色彩の分析に、彼はどこかで納得していた。

「ふうん、ええかどうかは好みやが、今までと違うた彩りにはなっとんの。面白いんとちゃうか。そやけど、それ以上濃うすると色が下卑るで。」

と、ぶっきらぼうに言い置いて、後を一番弟子に任せてから出て行った。その様子を隣の工房から覗いていたお民が驚いた。後でゆうが台所仕事に戻った時、

「うち、びっくりしたわぁ…。親方があんなこと言うの初めてやもの。お弟子に段取りを試させてくれたんは、ゆうちゃんが初めてやと思うよぉ。」

いつもと変わらない雑用をこなしながら、ゆうはどこか自信を持ち始めている自分を意識した。

「まだまだ一人で仕事はでけんけど、外来の注文でのうて、自分の練習はさせてもらえるやろか。材料や反物や、お金はかかるけど、うちが考えた作品をでけるかどうか、やらしてもらえたらええんやけど…。」

その後、ゆうは休みを使って自習できるよう、お民に相談してみた。それを妻から聞いた親方は、

「自分で金払うて準備する分には、誰にも迷惑かからんのやったらええんとちゃうか。あいつなら、藍甕も染め液もわやにするようなことはないやろ。」

とごく普通に言って、その後はなんとも言わなかったらしい。

「ゆうちゃん、ぼちぼち自分の考えてる染めをやってみてもええんやないの。今までのお弟子は、親方の言うたとおりに覚えて、職人として上手いや下手やはあったけど、あんたのようにこうしたいや試したいや思うとる人はいんかった。たぶん、あの人は、そういう気概のあるお弟子を楽しみにしてるんやと思うで。」

お民にそう言われても、すぐにはゆうは信じられなかったが、これは一つのチャンスだった。今まで、まだ藍染めのなんたるかも知らない頃、自然界のものの美しさや感動を何かに写し取りたい…と思った欲があったからだ。

「お上さん、おおきに。そやって後押ししてくれはるのは心底嬉しいです。ほなけど、ええ染めにはお金もかかります。ましてや、うちはまだ頭の中で考えとるだけで、それがうまいこといくのかはわからへん…。どこぞ、きつうても何か仕事さしてもろて、材料費にでけるようにしたいんですが、少しお勝手のことは調整さしてもろてもええでしょか。」

それを聞いて民も考え込んで、働き先を探してくれることや、家事のやりくりは気にしなくてもいい旨を答えてくれた。

「家のことはできる範囲でええんで。阿波のご隠居さんは、ゆうちゃんを女中で預けたんやない。藍染めを仕込んで、独り立ちできるように面倒見る約束や。うちも折を見て親方に聞いといてあげるよってな。」

その思いやりに、ゆうは感謝した。かつてお上さんが望んだ洋平とのことは叶えてあげられなかったのに、彼女はそのことは一切言わない。彼からゆうの気持ちを聞いても気を悪くさえしなかった。これから、いくらゆうの我が儘を聞いてやっても、その見返りは何もないのだ。いずれ一人前になったら、自分の手元にも置いておけない娘だった。だが、子供がいない民にとっては、本当の娘の希望を聞いているような、そんなほんのりとした錯覚のようでもあった。

「ゆうちゃん、うちのこと京のお母ちゃんやと思うて、なんでも相談してや。」

と、笑っていた。

 それから、ゆうは、夜は祇園のはずれの料理屋「駒野屋」の下働きに出て、染め物の材料とするスクモ代や反物代を稼いでいる。夕方、本来の仕事を終えて、夕食の手伝いをすませてから、市内電車を乗り継いで知恩院前に向かう。ゆうを送り出す民は、娘の安全を心配する母のようだった。また、夜遅く疲れ切って帰る彼女を迎えて、次の日の朝、一日の仕事に就くのを見守るのだ。

「いくら若いゆうても、身体は壊さんよう気ぃつけるんやで。ゆうちゃん、もともと綺麗やのに、ろくにお洒落もせぇへんと。少しは楽しいことも考えなあかんえ。」

いろいろ気をかけてくれる民に甘えて、ゆうは以前から希望していたあることを聞いた。それは、当の洋平も見たことがなかった「藍型」を作ってみたい…ということだった。お民は、

「うちに置いてる材料でよかったら、使いぃな。親方はそんなん教えてはくれはらへんやろし、うちもそればっかりは見たことも聞いたこともないよって、試行錯誤でやってみるしかないな。」

と好意的だった。ゆうはお上さんにお礼を言って、自分なりのイメージで制作に取りかかった。

「『紅型』は友禅の工房で見たことがあるから、あれの似たようなもんで紋様を考えたらええんやろうか。」

自分の休みを使って、染め場に閉じこもって何かに打ち込む彼女を、親方や同僚は不思議そうに、お民はほほえましく見ていたのだ。


挿絵(By みてみん)


 (こうぞ)紙は当時、全国シェアのほとんどを伊勢白子で生産していた。その丈夫でしなやかな原紙に、柿渋を塗り重ねて、更に丈夫にしなやかにしてゆく。その後、丁寧に様々な意匠で細かく型を彫って、反物の場合は連続模様になるように柄にしていくのだが、ゆうは広巾の正方形の布に模様を付けることを考えていた。はなから、今の自分の力量で大物を染めることには無理があり、デザインと技術を試行するのには小物でまとまりがある物を…と考えたのだ。紙の下絵を描くにあたって、一尺半ほどの四方に、彼女は大小の波を描いた。そのそれぞれに、懐かしい阿波の風物をデザインして描き入れた。半分は棚田や空の風景と、あと半分はススキや紅葉のような植物をちりばめる。また、かつて藍薗で好きだった、藍草と藍の花、吉野川下流域の風景と、何より大切な思い出の夕焼けと赤トンボの紋様など。その下絵から型を起こすのだが、たまたま作業を見かけたお民が感心したほど、ゆうは器用で細かい彫りを実践していた。

「いやぁ、ゆうちゃん、細こうてようできた(がら)やないか。ここんとこトンボなん、かいらしいてよう彫れてるえ。なんやどれも懐かしい気持ちになる柄やねぇ。」

型染めの専門家の民から褒められて、ゆうも嬉しかったのは事実だ。だが、妻から話を聞いた伊蔵は、表向きは興味なさそうにしていたが、他のことで作業場を通りかかったついでのように、ゆうの作業の進み具合を見て、

「おゆう、お前は本来の紅型模様で考えとんのやろが、それをそのまま色付けしていくのには無理があるで。仰山な色は米糊では止めにくいのと、お前の考えてるもんは細かいだけにそれぞれの染料がみな違うゆうこっちゃ。媒染も色止めも差があるのをいっぺんに処理することは、時間の差をつけなあかんし、そんだけ失敗も増える。」

と、いきなり忠告したのだ。まだ、染めに入る前で、どうしようか考えていたゆうは、叱られるのを覚悟で聞いてみた。

「ほな、色数を抑えて華やかさを出していくには、なんぞ方法がありますやろか。ただに藍の重ね染めでは、暗うて単純な模様になってしまうように思います。」

親方はそのまま足を止めて、ゆうの目を見つめたまま考え込んだ。

「わしが見たことのある『藍型』はただの青の濃淡やったけど、お前が考えとんのは、もちっと女好みの明るいんがええのんやろ。…、一枚型やのうて二枚型で伏せ糊を使えば、色の変化は大きゅうなるんやと違うか。」

そして、彼は、ゆうに二枚目の型紙の起こし方と、糊と色差しの順番をアドバイスしてくれたのだ。ゆうは素直に新しい技法を学び、段階ごとに、伊蔵の確認を得ながら作業を進めていった。通常の仕事の合間に時間を取ってやるので、一枚の試験作品ができるのに、実に二ヶ月ほどもかかる。ゆうはもちろん、師匠である彼も「本来」ではない仕事を投げなかった。伸子(しんし)で張った平絹の一枚に、緊張して筆を入れようとするゆうに、

「先にこういう所を糊で伏せといて、その周りの薄色で出したいと思うところに浅藍を入れな。筆では染め付きが悪いよって、繊維に染むように裏を確認して入れるんやで。それから、花のしべや赤トンボの一部やら紅を入れとく。全部べたべたに赤うしたら、紋様の深みが無うなる。実際の風景を見た時、光の加減や角度であんじょう映る程度の色を入れるんや。…わかるか。あと、ものによっては、黄色もええな。きはだやのうてクチナシにした方がきっちりする。ほんで、上からもいっぺん糊で二度伏せすんのや。一回目は浅藍で。加減見て、二回目は浅か中にしてみい。」

口だけではわかりにくいところも多かったが、ゆうは理解して実行した。伊蔵にしては辛抱強く見守りながら、彼女の感性や仕事の確かさを再認識していた。

「親方がここまで教えてくれはるんは初めてや。元々の藍染めの仕事では自分で考えぇゆわれたのに、うちの、いわば余技にここまで力入れてくれるなんて…。うち、ええもん作らな(ばち)があたる。」

その時のゆうは、女も男もなく、また世代を超えて気持ちが一つになるという充実を感じていた。

「親方、こことここの色に差を出すのに、筆で深藍を後差ししたらあかんでしょうか。」

作業の終わりに近づき、ゆうがもう一技を聞いた時、伊蔵は初めて相好を崩した。

「ええんやないか。練習なんやから、お前が思うとおりにやってみたらええがな。あかんかったら、も一回一からやればええ。うまいこといったら、その型で同じもん何枚か、小風呂敷でも作ってみぃや。ええもんがでけたら、得意先に商品になるかどうか聞いて、なるようやったら店に並べてもらうように頼んだる。」

彼の申し出に、ゆうは信じられない思いだった。

「親方、ええんですか。うちが考えて作ったもん、お店に上げてくださるんですか。」

震える声で確認するゆうに、伊蔵はぶっきらぼうに答えて去った。

「一生懸命作って、それがええもんやったらええんや。それこそ職人の仕事や。」

 春の吉田界隈は、新しく入学した学生が往来したり、それぞれの下宿屋が人の入れ替わりで活気づく季節だ。ここには、帝国大学や三高、一中、高等工芸学校、美術工芸学校などが集中してあった。ゆうは、その日、仕上がった二十枚ちょっとの作品を持って、お上さんの民と東天王町の問屋に見本として見てもらいに来ていた。この店は江戸時代から小物の卸をやっていて、「丸伊」との付き合いも長く主人の目利きが厳しいので有名だった。

「丸伊の秘蔵っ子の職人やゆうて、親方が『若いけど筋がええ子やから…』と言うてはりました。」

女の子やったんやなぁ…と、ゆうをしげしげ眺めて奇妙な笑顔を作った。お民にはその理由がわかるので苦笑していたが、ゆうは自分のことがどうとらえられるかよりも、小風呂敷の仕上がりが気になってそれどころではなかった。

「意匠はなかなか斬新でおもしろいんとちゃいますか。まだ、技巧に荒いとこもおすが、最近のお土産屋なんぞでは、こういう女の客が好みそうなのは喜ばれます。売りもんになるかどうかは保証できんけど、この手のもんでええのができたら、まとめて持ってきてもよろしいでっせ。」

中年の細身の男性ながら、なかなかに眼光は厳しく、自分の未熟さを一つ一つ指摘されてゆうは冷や汗をかいた。しかし、それでも全面的に否定されなかったことで、彼女には今後の希望が広がったのだ。帰りに、他の商品を納品した民と語り合いながら、平安神宮辺りまで歩く。

「ゆうちゃん、良かったなぁ。苦労して作った甲斐があったやんかぁ。親方が、あんなに丁寧に教えてくれたり、問屋に推薦してくれはるなんてほんまに滅多にないこっちゃ。」

と、お民はいまだに可笑しそうに思い出し笑いをした。

「あのご主人、うちの人の偏屈よう知っとるさかい、あんたが女の子ぉやゆうてえらい驚いてはったな。うち、もう可笑しゅうて可笑しゅうて…。」

ゆうも、この数ヶ月の伊蔵の自分への対処には驚くことが多かった。決して自惚れてはいないが、やはり嬉しい。

「うち、親方は怖うて、ずっとうちやらの言うことは聞き入れてくれへんと思うてました。ほんまは優しいお人やったんです。やっとわかりました。」

民が修行の初期に言っていた言葉を、今思い出していた。

「ううん、厳しい人には違いないけど、一本筋は通ってはる。納得できんことには絶対譲らん人や。そやけど、きっとあんたの熱心さと、女の子ぉには珍しく素質があるてわかったんで、育ててくれようとしてるんや。見込みがある弟子には理不尽はせえへんえ。」

ゆうもその言葉に頷いた。二人で電車に乗ってすぐ、ゆうは窓の外の桜の中に何人かの中学生を見つけた。真新しい学生服にぴんと張った丸帽をかぶって、楽しそうに談笑しながら過ぎていった。ああ、四月や…と思うと同時に、胸の奥の甘やかな思い出がよみがえる。

「かずさん…。もう高等学校は卒業しはったかな…。大学はどうしたんやろ。おうちの跡継ぎなんやから、きっと大阪か神戸の商業学校か大学に行ってはるんかいな…。」

阿波を離れての数年、実家への里帰りはもちろん、西澤の屋敷がある方向にも行ってはいない。正直、ゆっくり過去を懐かしんだり感傷に浸る余裕もなかった。日々の修行や慣れない他所の生活の中で、年端もいかない少女が一人で周囲と馴染む努力や、厳しい仕事を覚え実践しやっとここまで来たのだ。その長い時間の中で、女らしい思いや思い出はむしろ邪魔にさえ思えた。そして、半人前ではあるが、自分の居場所と仕事への自負が確立する中で、敢えてゆうが胸の奥に押し込めてきた和彦との友情が、あらためて彼女の密やかで柔らかい感情の波をよみがえらせていた。ゆうは、民に気取られないように心の中で思った。

「かずさん…、うちらまたどこかで会えるんかなぁ…。」


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