第二話
だいぶたってから二人は家人に発見してもらえた。和彦が家にいないことがわかり、恒介に指示された若い衆の将造と、たまたま来ていたひとりの小作人が戸外へ捜しに出ようとした時、外の梯子の側に落ちていた番傘と女物の塗り傘が見つかり、おぶたに避難していたことがわかったのだ。台風は激しさを増していたが、食事を摂ってやっと落ち着いたゆうは華の部屋に呼ばれた。
彼女がこの屋敷に初めてやってきた時、二間続きのこの部屋の突っ付きに正座して挨拶したことはあったが、その頃は中の様子など見る余裕はなくて、ただ、暗く広い空間の奥から聞こえる老女の説教しか記憶になかった。それから毎日のように大奥様の指示を受けたり、外出から帰ったご挨拶をしたりはしているが、板廊下にひざまづいて障子の半間分から見えるほの暗い部屋の印象だけだ。今、改めて奥まで通されると、北向きで陰気ながら凝った道具の数々や、趣味のよい布製品が目につく部屋だった。そこは江戸時代に「本陣」として使われていた部屋だったので、ちゃんと東の「御成玄関」から廊下が続き、広い二つの部屋の境の鴨居は見事な彫刻の欄間で飾られている。それは室町期の京の様子を模した木彫製品で、この家の言い伝えでは目が飛び出るほど高かったらしい。それに加えて舶来もののシャンデリアも人目を引いた。新し物好きの先々代が、いの一にこの家に電気を通して周囲を圧倒させた伝説の照明道具だった。
そして、窓際の、これも凝った文机の下に、春先にゆうが縫った薄綿の膝かけが置かれていた。加代子が嫁入り道具で持ってきた着物が、大して着てもいないのに派手になったので、ゆうの羽織に仕立て直しなさいとくれたのを、余った裾半分を使って作ってある。紅色の友禅に少女は感激し、器用で丁寧な仕事をして作った自分の羽織と、華と加代子に許可を得て大奥様の防寒具になっていた。孫娘のように可愛がっていたゆうが、自分に仕立ててくれたのを、老女は素直に喜んで夏場の今でも愛用している。
それらの伝統あるものや愛用品に囲まれた空間の真ん中の卓を挟み、彼女は向かいにゆうを座らせた。「なにか叱られるのでは…」と緊張している様子を、目を細めて見ている。
「なんや怒らんけん心配せんでええ。無事によう帰ってきた。ほんまはわてらがお前のことを迎えに行かなならんかったのに、さぞ怖かったことやろう。かずが気ぃきかしてくれんかったら、大変いことになっとったかもしれんでなぁ。」
お豊が運んできた食後の渋茶はとうに冷めてしまっていたが、ひとしきり喋って、それをごくりと音を立てて飲んだ。それからちょっとゆうを見た。ねぎらいの言葉にただただ恐縮する小さな娘から視線を外して、さらにトーンを落とした声で、
「かずはよっぽどお前が心配やったんやなぁ。」
と独り言のように付け加えた。ゆうは、
「すんません、ご隠居様。うちがように考えもせんとてんごしてしもて、坊にお怪我でもさせたら申し訳ならんことでした。皆様にもご心配をおかけして、ほんまにすんませんことでした。」
と膝に届くほど頭を下げているのを、首を振りながら見ている。
「いやいや、誰もゆうを責めとるんやない。わてらこそ、余所からお預かりしとる娘に、なんぞあったらあかんこっちゃ。ほんま、安心したんやで…。」
と優しく微笑んだ。しかし、すぐ次に浮かんだ表情はどこか厳しい。
「わてはお前が一生懸命奉公しとるのを知っとる。いつも言うようにええ子やと心底思うとるで。行儀や家事いっさいを仕込んで、年ごろになったら、ちゃんとええ嫁入り先を捜してやりたいし、はずかしゅうない支度もしてやりたい。」
何度も言われていた言葉なので、ゆうも素直に頷いて感謝の気持ちを示した。
「かずもええ子や。家業よりも絵ぇが好きなんはどうも塩梅が悪いが、性格は、甘やかされて育った余所の坊とは違うて、思いやりがある情の深い子や。…あの子は、…ゆうを好いとんと違うやろか。」
虚を突かれてゆうは首をはね上げた。元々大きな目を見開いて、そのまま横に頭を振り続ける彼女を見ながら、華は言葉を続けた。
「わては、お前が望むなら、どんな屋敷の若奥様かて務まる娘ぉとして、ええ嫁ぎ先を捜したるつもりや。そやけど、かずがお前を望んだら賛成はでけんやろな。」
言われていっそう強くかぶりを振るゆうだが、驚きのあまり声を発することはできなかった。やっと息が絶えそうなくらいの声がゆうの口から出た。
「滅相もない、御隠居様。うちはそんな大それたことは思うとりません。かずさんもそんなお気持ちやないです。もし、なんや見間違われることでもあったんなら、それはうちが不注意やったんです。身分を弁えんことでした。どうぞ、堪忍してください。」
年が近い者同士の日常の親近感や、絵画や学校のことでよく話していた覚えがある彼女はひたすら頭を下げた。和彦とのことをどうこう詮索されることはないにしても、敬愛と信頼感を持っている華からそんなことで釘を刺されること自体がつらかったのだ。
「いやいや、何度も言うが、わては怒っとるんやないで、ゆう。正直、お前にもかずやきよにも幸せな未来であってほしいと願うとる。そやけど、それと、この西澤のことは別もんや。これは一人の人間の問題やない。ぎょうさんの使用人や近隣の小作のためにも、この家はきちんと継がれていかなならん。その跡継ぎにかずが向いてないならきよでもええけど、縁談は力のある筋と組まないかんと思うとる。きっとあの子はまだそこまでわかっとらんやろ。」
見開いた目線を外せず、じっと見つめるゆうにしばらくの間を置いて、また華の言葉が続く。
「ゆう、わてはお前が可愛い。このままうちで奉公を続けてほしいのは山々じゃが、かずがお前を好いて、そのことで二人が苦しむようになるのは不憫やと思う。世の中、身分違いや道の踏み間違いほど不幸なことはないやろう。わてかて十五で嫁いで、勝手な先代によう泣かされたもんじゃけど、自分の出自と誇りに支えられたけんやってこれたんや。」
話の主旨がよく理解できないゆうはひたすら聞いている。
「たとえ不本意でも、もしお前がかずに望まれたら人はなんと言うかわかるか。年が上で、ええように若いぼん坊をたらしこんで玉の輿に乗ったんやと、みなに陰口をたたかれるのが落ちや。真実なんぞお構いなしにあばずれやて言われるで。それが世の中の常や。なんもそんな話は掃いて捨てるほどある。」
やっと理解できたゆうは、自分と和彦の友情はそうではないと、心の中では反論していたが、もちろん華の言葉の説得力にかなうはずもない。
「ゆうや、わてはお前の人柄には反対せん。そやけど、一人の女としての生き方はしっかり考えてほしいと思うとる。ほんまにお前とかずが思い合うなら、世間体や立場やなしにそれに相応わしい女になってくれればええ。そうでないなら、あの子に誤解させたり、二人とも苦しむような道は避けてほしい。かずはまだまだ子供や、これからなんぼでも女子に会うことじゃろう。その前にきちんとお前が自分の価値をわからせるような女になってほしいのや。わかるか、ゆう。」
本当はよくわからなかったが、彼女は必死で頷いた。
「なあ、ゆうや。今、お前がやりたいことは何や。このまま行儀見習いを続けてええ家に嫁に行ってもええし、今からでも裁縫学校や女学校やへ行ってもええ。」
話しながら、華は立ち上がって、奥の間の茶箪笥の引き出しから通帳とハンコを持ってきた。
「これは、ゆうがこの家で働いた分の積み立てや。けっこうな額になっとる。良蔵に頼まれてお前を預かってから、あんじょう計らうつもりやったから、あと二年も辛抱すればそこそこな嫁ぎ先にかたづいて安楽な一生も送れるやろ。それもよし…新しい時代の女の生き方もよし…。どうや、お前は自分が何をしたいか考えたことあるか。そのためにこのお金が生きるんなら、わては何ぼうでも援助したるで。今時の女は、年寄りの助言は聞いても言いなりにはならんでええ。わてらの頃とは違う。親が望むことと自分が思う幸せは違うとることもある。わてはゆうが納得する道を選んでほしい。」
長い華の話はなぜかゆうの心を打った。
「しんどい日にごちゃごちゃ言うてすまんかったな。ええんで、時間かけてゆるりとお考えな。ゆうが自分でお決めな。お前が決めたことなら、わても賛成してやりたい…。ほんまにそう思うとるんやで。」
それが終わりの合図だった。賢いゆうは、華が言いたかった真意を理解していた。結論は急がない、ここ以外でよりよい道を選べ…と。静かに頭を下げて、なんの弁解もせず華の部屋から退出しようとして、障子際でまっすぐ老女を見つめた。
「ご隠居様、おおきに。うちのためにそこまで言うてくださって。ほんまにありがとうございます。」
それから、秋は静かにやってきた。台風の日に心が通い合い、双方とも打ち解けたと思っていた和彦は、二学期の忙しさに取り紛れてゆうの微かな変化に気付かないでいたのだ。彼女は、普段の家事仕事の最中などなんとなく物静かな態度が身に付き、一番忙しい朝飯や夕食時でも、滝の指示や家人の呼びかけに大声で返事するようなことが見られなくなったのだ。その代わりと言ってはなんだが、それまでに増してこまめに身体を動かし、言われるより先にさまざまな用をこなしていっていることは、先輩女中たちには好感をもって見られていた。
「滝さん、こん頃のゆうちゃんはなんや大人っぽうなってきたように思わへんか。」
晩の片づけが全部終わって、ゆうが台所のふきんや手ぬぐいの類を洗いに井戸端へ向かう姿を見ながら、お豊がしみじみと言った。老女中は、かまどの火で一服つけてから、
「ほら、あんた、あの子やてもう十六やで。いつまでもはっちゃけやない。ちっとは女らしゅうもなる頃や。おまはんも何年か前はそやったで。」
と笑うだけだった。滝はその程度にしか感じなかったが、若いお豊は、どことなく沈みがちなゆうの動作や、寂しそうな眼の色を浮かべる表情の変化に敏感だった。一緒に板戸を拭きながらふと手を止めることや、かまどや風呂の火炊きの途中でぼんやりする彼女の様子を時折見咎めた。ある日、滝に言われて二人で大量の野菜を洗いながら、ちらっと横の少女を見て言った。
「なあ、ゆうちゃん。あんた、好きな人でもでけたんか。」
からかい半分に言ったつもりが、お豊は相手の過剰な反応にかえって驚いた。
「いやー、豊さん妙なこと言わんで。そんなんちゃいます、そんなん言われたら困ります。」
ゆうの大きな目と語気の強さに圧倒されて慌てて謝ったが、豊は逆に何か特別な感情を感じた。その日はそのまま話はできず、気まずく忙しさだけが続いたのだ。ゆうは、華に考えろと言われてから、心してなんでもない振りを装っていたが、自分と和彦が誰かから誤解されることがないように細心の注意を払って行動していた。お豊は、他の女子衆もここで働きながら夫婦者になったり、主人の世話で余所へ嫁いだりする先輩を見てきているので、特にゆうは華たちの肝煎りでまもなく良縁に片付くのだろうとは思っていた。だから、もし変な噂があったり彼女に色目を使うような者がいたら、なんとかしなくてはと、むしろ姉さん分らしい心配からの発言だった。
「ゆうちゃん、さっきは堪忍な。なんも深い腹があって言うたんやないんで。あんたがこの頃元気ないけん、うちら心配しとったんや…、それだけなんや。なんぞ辛いことでもあったら、遠慮せんと言うてや。」
その夜半に風呂の出口で、時間を見計らったように寄ってきて、豊はゆうの手に饅頭の包みをすべりこませ、そのまま照れ笑いを浮かべて女中部屋に帰って行った。ゆうは言いようもなく悲しくて、突っ立ったまま涙をこぼしていたが、それは誰にも知られることはなかった。
また別のよく晴れた日、ゆうはひとりで広大な庭を掃いていた。落葉樹の梢から陽射しがこぼれ、思い出したように散る木の葉を静かに照らしている。学校が土曜の半ドンで早く帰ってきた和彦は、玄関への道なりで、遠目に、じっと立ちつくしているゆうを見つけた。しばらくその姿を不思議そうに見ていたが、彼女はまったく気づく様子もなく、ただ俯くように立っていた。
「ゆうさん、掃除やら怠けたらあかんで…。」
斜め後ろから笑いながら近づく少年に、彼女は驚いて顔を向けて思わず周囲を見回した。
「かずさん、びっくりしたぁ。うち、怠けとんやない、ただこの葉っぱの色が綺麗で…。」
誰もいないことを確認して安心したかのように、ゆうは自分の掌に乗せたかつら桂の大きな葉を和彦のほうへ差し出した。何が彼女の気を引いたかはわからないが、自然の作り出す色合いの美しさは、もちろん彼の共感するところだったので、和彦は臆面もなくその手首を捕えて覗き込む。反射的に手を引っ込めた彼女は、
「かずさん、あきません。そんなことしはったら、誰かに見られでもしたらうちが困ります。」
と、小さな声で彼を叱責した。その反応に違和感を感じたが、和彦は素直に謝った。
「あ、堪忍な。俺、変なつもりやないんで。ほんでもびっくりさせてすまんかったな。」
やっと表情が和らいだゆうは、逆に自分の態度を詫びた。
「いえいえ、うちも大仰に言うてすんません。かずさんに失礼やったわなぁ…。」
それで二人ともやっと気分がほぐれて、それからは自然に話ができるようになった。ゆうは自分の作業を続け、和彦は彼女を手伝いながら暫くぶりの会話だった。彼女は落ち葉の端からのグラデーションがなんとも言えず美しく、布の染めなどで「ぼかし」をどうやって出すのか疑問に思ったと言った。和彦は、油彩で微妙な色の変化や筆遣いの巧妙さの例など話した。外国の昔の絵では、衣類の絹の光沢が本物そっくりに描かれていたことで王侯から下問があったことや、画家の自画像の髪の毛の一筋一筋が、数えられるくらい細かい筆が使用されたなどのエピソードがたくさんある。彼が以前授業で聞いて知っていた話のいくつかを、ゆうは楽しそうに聞いた。裸体の彫刻や絵なども、ルネサンス期に、人間の本来の美しさが見直された証しとして、数多く制作されたことを話すと、彼女はいっぱしの大人のように頷いて聞いていた。
「ほんにそうやと思います。古い道徳やら宗教やらの考え方で、いろんなもんの値打ちを歪めていくのはようないことです。心にうつくしと思うたもんを、自由に作っていくことはええことやと思います。うちやらむつかしことはわからんけど、かずさんがお持ちの本の絵ぇは、このうえのう綺麗でなんも嫌やと思わんかったです。」
饒舌に語る少女はどこかおかしくて、だが和彦にはとても好ましかった。
「ほんなら、ゆうさんも俺が頼んだら裸体画のモデルになってくれるか。」
冗談で言ったのだが、彼女はまた表情を強張らせた。
「かずさんはすぐそやっててんご言う。そんなんあきませんで。うちやら、坊にそんなんでけるわけがありません。」
早口で言い置くと、ゆうは素早く道具を片付けて走り去った。呆気にとられて、和彦はどう考えていいかわからなかった。ただ、手に何片かの桂の葉っぱが残っていたのを、視線を落として見て、また、ゆうが去った方向に目をやった。
何日か後の夕刻、ゆうは少し自分の時間が持てた時、そっとおぶたにやってきた。この頃は、昼間は藍の寝せ込みが続き、勘じいたち水師の観察や指示のもとに藍粉の熟成作業が進んでいるので、ここは喧騒の場だ。ゆうなどおぶたの仕事に加わらない使用人にも、中からの様々な作業の声や、時には声をそろえた「藍粉成し唄」が聞こえてくる。厳しい仕事の辛さをうたった哀愁の漂う民謡だが、なぜか、声を合わせた団結感と元気が伝わってくる気がする唄だ。西澤では男衆がサビを歌って女子衆が合いの手を添えるが、作業に合わせると結構アップテンポで最後に笑いが起こる。そういう様子を感じながら、ゆうたちも日々元気づけられていることもあった。
「勘じい、おじゃましてもええか…。」
ゆうは薄暗い内部の中央付近にうずくま蹲った、見慣れた背中に静かに声をかけた。熟成の様子を見にきていた勘兵衛以外は誰もいない。広い板敷きに間を空けて、大きな鏡餅状のむしろ筵で覆われた藍の寝床が見える。藍葉の発酵する強烈な匂いと埃のような蒸気のこもった中で、勘じいはひとつの寝床からつまみ出した藍粉の少量を口に入れて噛んでいた。右手は「ふとん」と呼ばれる筵の中に突っ込んだまま、ちょっと斜め後ろを見た。
「おや、こりゃ珍しいこっちゃのう。おゆうちゃんが今時こんなとこへ来るとは…。」
発酵途中の赤茶けた葉の汁で口を染めた老人は、ただでも細い目をさらに細めて彼女を振り返る。
「入ってこいや、ええ具合に藍が寝込んでくれとるで。」
入り口の大戸の端でこくんと頷き、庭下駄を脱いで、ゆうは勘兵衛の傍に近付いた。彼の仕事の邪魔にならないように、ちょっと離れた所で様子を見ている。老人は作業を止めずに、
「なんぞあったんか。お豊ちゃんらが、ゆうちゃんが元気ないんやないかってえろう心配しとったぞ。」
と、寝床に差し込んだ手で熟成の温度と藍葉の湿り具合を確かめながら聞いた。秋口から数カ月をかけて、彼ら水師や玉師と言われる職人の指示で、二十回以上の水打ちと藍搗きによって藍玉が仕上がっていく。熟成に時間がかかり厳しい作業が続くわりには、ちょっとでも水分量が狂うと腐りやすい、リスクが大きい仕事だ。ここの藍は専門業者の間では、長年グレードの高い製品として信用を得ている。ゆうは周囲が心配してくれている雰囲気を知っていたので、勘じいの問いかけにも特に動揺しなかった。
「あのう…、勘じいは長いことこの仕事してきたんやろ。なんで藍師にならはったん。」
唐突な質問に、彼は思わず作業の手を止めて、斜め下から少女を見上げた。おでこの皺が持ち上がり、見開いた眼がいつもに似合わず大きい。
「どしたんじゃ、急に。なんでって言われても、ごっつう昔のことでもう忘せたわのう。」
また何事もなかったかのように作業に戻って、話しながら手を動かし続ける。
「わしらは、こうなりたい…や、こうせな…や思うてなったんとちゃうけんのう。気がついたら、この仕事しよっただけじゃ。」
勘兵衛はもともと藍作農家の小作の生まれで、物心ついた時には畑に出て一日中働いていた。まだ江戸時代のこととて、ろくに学問もなく、小作農の大変さもそんなものとしか認識してなかった。父親に付いて主家に農作物を納めに来る時に、自分たちが苦労して作った作物が、その後の家内労働でスクモや藍玉に加工されることは知っていた。そして、まだ十歳になるかならぬかの年から、当時西澤にいた腕のよい藍師のもとで仕込まれる。本質的に向いていたせいか、藍の工人の中で数十人にひとりぐらいしかなれない「水師」になれたのだそうだ。
「わしゃ、なりたいとかなりとうないとか考えたことはないで。ものもわからん頃からこの仕事するしかなかったんや。」
錆びた低い声で語る老人は、小さな背を向けたまま淡々と語り、その語調にはどこか悲哀も味わいもあった。ゆうは黙って頷きながら、じっとじいの手元を見ていた。
「ほんでも、大きゅうなって、嫌やと思うたり向いてないんやと思うたりはせんかったんか。」
ちょっと考え込む様子を見せて、老人は鼻で笑った。
「向いとろうが、向いとらんだろうが、人間おまんま食うためには働かなならん。わしやは、すんでのこと嫁もおらんし、このまんま一生ここで仕事さしてもらわんとのう…。ほんでも、師匠がわしに質があると見込んでくれたんはあったやろうか。そうでなかったら、誰でも水師にはなれん。」
ゆうはちょっと微笑んで、語り続ける勘じいを見つめている。
「ほんなら、やっぱりじいの選んだ仕事やなぁ…。」
見上げた老人と目が合って、互いに声を出して笑った。
「まぁ、選んだっちゅうよりもそれしかなかったんじゃがのう。」
帯の後ろで手を組んで、少女は少し首を傾げた。
「うちは何に向いとんのやろ。何してったらええんやろ。」
また、じいの額の皺が一段と持ち上がった。
「こりゃ、面妖なことを言うもんじゃ。お豊ちゃんやおゆうちゃんはちょうど年頃やし、もうすぐ嫁に行ってええおかみさんやらおっ母さんやらなって、一生安泰なんのとちゃうんか。ええ旦那見つけてもろて、後生大事にしてもらえるんとちゃうんか。」
そこで、ゆうは小さな溜め息を突く。この頃は溜め息を突くことが多いのだ。
「ほなけんど、うちやらは自分で嫁に行きたいと思うとるわけやない。親もご主人もそない言うてくれるけん、そんなもんかと思うてきただけや。」
暗い表情で俯く娘を、心配そうに見て勘じいも溜め息を突いた。
「今時の若い娘ぉはほんなことを考えるんかの。わしゃぁ、女子っちゅうもんはなんぞしたいことや考えんと思うとったわ。こんなご時世で、女が食うていくのはなかなかに大変なこっちゃで…。」
再び作業に戻った老人の背中は、さっきよりもいっそう小さく見えた。ゆうは黙って頷いて、そのまま彼が仕事を終えて母屋に戻るまで、ただ静かに傍にいた。
夜はだいぶ冷え込むようになった頃、和彦の部屋の入口を小さく叩く音がした。しばらく勉強に没頭していた彼は、はっと我にかえって意外な気がして廊下側の障子を開けた。薄暗がりの中に、団子とほうじ茶を乗せた盆をしっかり持ったゆうが立っていた。緊張で顔がこわばっているのがよくわかる。
「どしたん、ゆうさんがこんな時間に来るなんて。おやつ持ってきてくれたんか、入んなぁ。」
何度か訪れているので、いまさら遠慮はないが、なぜかゆうの表情が硬いのを彼は異様に感じる。自分から盆をもらい、そのまま彼女を卓の側へ促した。ゆうが口を開く。
「あんな、かずさん。こないだの絵の話やけんど…。」
ゆうの様子に自分も緊張しながら、和彦は話を聞いていた。
「もしうちがモデルになったら、かずさんはやらしい気持ちになるんでしょか。」
えっと、団子を持った手を止めて、驚きの目でゆうを見直した。ゆうの突然の言葉の意図がよく呑み込めなかったのだ。
「なんの話や、それ。あれは、ただゆうさんをからかっただけで、怒らしたんは悪かったと思うとる。」
罰が悪そうに話す彼を止めて、ゆうはさらに続けた。
「てんごで言うんやのうて、ほんまに絵ぇを描く時に、かずさんはモデルの裸を妙に思うことはないんでしょか。」
和彦は口の中の団子を急いで飲み込んで、今度は真剣に答えた。
「僕らはまだほんまの裸婦を描いたことはないけんど、もし描けるんやったら、それは一番うつくしもんやと思うとる。相手が誰だろうと、モデルは色恋やらの対象とは違う、とても神聖なもんやと思うとる。」
それを待っていたように、ゆうは勢い込んで次の話に進んだ。
「ほんなら、かずさんがちゃんとうちを描いてくださったなら、うちらの間に後ろ暗いもんはないと思います。」
彼は驚きよりも、ゆうの必死ともいえる様子が気になった。
「ゆうさん、君が描かしてくれるんなら、僕はお願いしてもぜひ描きたいと思う。」
それ以上は彼女は何も理由を言わなかった。ただずっと言葉を探しているようなそんな話だったのだ。和彦もなぜゆうが自らそんな提案をしたのか、それまで接点があまりなかったせいもあり、最近の彼女が何かのことで沈んでいたり一心不乱に仕事する様子なども見ていないので、特に不思議とは思わず、ただ以前の芸術に対する二人の共感や現代的な冒険心がそうさせたのかくらいに受け止めた。
その後、通算で五回ほどゆうは人知れず和彦の部屋を訪れた。彼の要望により、洗い髪を垂らして上半身だけ浴衣を取って、部屋の端の定位置に座った格好で、彼の水彩画が仕上がるまでの間だった。最初、さすがに緊張してゆうの方を見ることができないで、離れた所からいろいろと指示する彼に、戸惑いながらゆうは従っていたが、
「かずさんは絵ぇを描かはる時には妙な気ぃにはならんておっしゃった。ほんなら、ちゃんと形をつけてもろてもええです。」
と、意を決して告げると、和彦は一度ゆうの顔を見て口元を引き締めた。深呼吸をしてから、彼女の肩に手を置いて座る位置を決め、顔の向きや腕の置き方を自分の手で決めていった。最後に、彼女の髪の束を左肩に乗せるように置いたが、ゆうは付けられたポーズを崩さないようにしながら、彼の手が微かに震えているように感じた。それから、まるで別人のような和彦の作業が続く。面と向かって凝視しているわけではないので、彼の様子や表情はわからなかったが、部屋の空気そのものが気を許させない緊張感で固まっていたのだ。深夜、二人とも疲れ切った頃、和彦の手が止まり、ゆうを見ていた視線が緩むとそれが終わりの合図になった。彼は黙って手を置き、ゆうも同じく黙って部屋を出ていく。そしてまた何日後か、特に申し合わせたわけではないが、誰にも見咎められない時間に、彼女がそっと彼の部屋にすべり込んでいくのだ。和彦の方も、それまでは普段と同じに勉強机に向かっているが、廊下に人の気配を感じると、静かに入口を開けてゆうを迎え入れる。それはおごそかな神殿での儀式のように、静かに深まる秋の気配に沿って、密かに繰り返された。
十月末になった頃の昼食後、ゆうは自分から華に話を申し出た。お豊に代わって、三時の茶を届けにご隠居の部屋に行ったゆうは、そのまま座って話すように命じられたのだ。
「あの時はえろうきついこと言うてすまんかったな。滝やらがゆうがなんぞ悩んどるて心配しとったんで、わてのせいじゃとは思うとったんや。」
優しく微笑む老女の前に畏まって、ゆうは一度頭を下げた。
「ほんにいろいろご心配をかけてすんませんでした。」
今度はまっすぐ華を見つめた。
「ご隠居さま、うち、あれからちゃんと考えました。ほんで、これからしたいことは何か、いろいろ悩んで決めました。料理や裁縫や家ん中のことぎょうさんありますけど、お嫁に行きたいわけではないとわかりましたんや。…えろう生意気言うて。」
一息に喋って、はっと気づいて言葉を止めたゆうを、華は好ましそうに黙って見ていた。
「ええんで。遠慮せんと何でも言うてみ。お前が決めたことは、わては誠心誠意助けるつもりやで。」
老主人の言葉に安心して、またゆうは話し始めた。
「うち、小学校出てからずっと裁縫のお師匠さんとこに通わしてもろてて、うつくし反物をぎょうさん見ました。いえ実家の辺りがお蚕飼うとるとこが多うて、あんな糸からなんでこないな綺麗な反物がでけるんやと不思議でした。ほんでから、こちらのお屋敷に奉公さしてもらうようになってから、藍の不思議さにもっとびっくりしました。畑ではなんのこともない葉っぱが、長い長い工程の後に立派なスクモになって、まだ見たことはないけんどうつくし染め物に思うたら、どしてか自分もそれをやってみたいって思うたんです。そやけど、女子のうちにでけるかどうか…。もしでけるんなら、どこかで修業さしてもらえるならと心底思うとります。」
華は、ずっと考え込むように、視線を落としてゆうの言葉に耳を傾けていたが、ほっと溜息をついてしばらくの間を取った。
「ゆうがほんまにそう思うなら、わては京都の得意先に頼むことがでける。お前のことをきちんと面倒見てもろて、生活やらそれこそ嫁入りまで、仕事と一緒に考えてもらえる所を世話することがでける。」
ゆっくり語り始めたが、その目は鋭く、前に座った小柄な少女を見極めるような視線だった。
「おそらく三好の家族は了解せんやろ。そんなことをさすために、わざわざうちへ預けたんやないからな。ほいでも、わてが話して良蔵や嫁に納得させることもでける。しかしな、ゆうや、言い出しといてこんなこと言うのもおかしいが、お前はほんまにそれでええんか、後で悔いることはないんか。女子の身にとってはせこい道やで。これからの人生の中で、何の当てもないんやで。」
ゆうも真剣に華の言葉に相槌を打ちながら、要所要所「はい」としっかり答えた。
「こちらをおいとま暇いただいたらいったん実家に帰って、おっ父さんとおっ母さんには自分で話します。ちゃんとわかってもらえるようによう話してきます。ほんで、家から出してもらえるようなら、すぐにでもご隠居様のお知り合いやらに住み込みで修業に入りたいと思うております。」
その瞳の色の強さは、華ですら予想していなかった反応だった。
「…。」
無意識に腿に置いたゆう作成の膝かけを撫でながら、老女はしばらく考えていた。
「あいわかった。えっと時間がかかるやろけど、恒介にも相談して当たってみようで。加代子はお前を放したがらんやろから、すぐには言えんけど、決まったらわてからあんじょう話したる。ゆうが気持ちよう出発でけるようにな…。」
素直な眼に感謝の意を浮かべて頭を下げる少女を見ながら、華は言葉を継いだ。
「かずはともかく、ゆうはこの家を出て寂しゅうはないんか。わては、もしかしたら、お前もあれのことを好ましゅう思うとるんやないかって考えとったがのう。」
それにはゆうは明るい笑みを見せた。
「いえ、私は年が近いことでかずさんと親しゅうさせていただきましたが、決してそんな感情とは違います。学校のことやら絵ぇのことやら、うちが知らんことをいっぱい教えていただけて楽しかったです。」
絵のことを話題にするのはやや気がひけた。
「ほなけんど、それは同じうつくしもんに感じてのことで、男女のこととはちゃ違うと思うとります。」
華は少女から視線を外して、空を見て言った。
「わてが仕組んだことやけど、かずはびっくりするやろし悲しむやろな。ええ友達で、ゆうがおってくれて張り合いにもなっとったやろに。不憫やな…。」
「いいえ、ご隠居様。かずさんは見た目より大人です。女の友達のことはわからんけど、自分のことやら周りの人のことやら、ように考えてええ方法ででける人やと思います。決まったら、うち、ちゃんと自分で話しますし、そいで十分わかると思います。」
にっこり笑うゆうに、華はやっと振り向いた。そして、さらに静かな口調で、
「ゆう、お前はなんや大きゅうなってきたな。」
と付け足した。自分の手や正座した腿を見ながら戸惑う表情のゆうをおかしそうに見て、華も微笑む。「ほうか…。」と溜め息のように言って、それ以上はもう話すことはない。縁側からガラス越しに差し込む夕日が華やかに照らす午後だった。
一週間後、藍薗地区の秋祭りがあった。この辺りはみなみがた南方の稲作地帯よりも農閑期が遅い。藍葉からスクモの作成上、どうしても回数が重なる水打ちと、丁寧な切り返しの寝せ込みの過程を経てからゆとりの時期になる。それでも一年中忙しいには違いないが、獲り入れの喜びと、新しい年への期待を込めてエネルギーを燃焼させる季節なのだ。例年、ここと隣の住吉村とで共同開催される住吉神社の大祭は、県北でも大がかりなものとして有名だった。装飾が素晴らしいだし山車やみこし神輿も見事だったが、境内を彩る紅葉がいかにも祭礼が遅い神社らしく、昼間から多くの人出と賑わいを見せている。早朝からの来客用の部屋の支度や料理がひとしきり続き、それが落ち着いた頃、お豊たち若い女衆には待ちかねた自由時間となった。それぞれに一張羅に着替えたり普段はしなれない化粧をしたりで、皆で慌ただしく出かけていく。今日は一日、帰りの時間も気にせずに過ごせる日なのだ。ゆうも早々に誘われたが、彼女にはある思いがあって、わざとしばらく家に残っていた。その日は、清彦は母親の加代子と、泊りがけで来ている親類たちと過ごすことになっている。部屋で片付けと荷造りをしていると、障子の外から和彦の声がした。
「ゆうさん、まだ居てるか。」
ゆうは手を止めて向こう側へ返事をした。
「はい、ここの片付けが終わったら、そろそろどっか出かけようと思うとりました。」
しばらく沈黙があって、和彦の小さな声が続く。
「もし予定ないんなら、俺、神社の庭園の方に絵ぇ描きに行くんやけど、一緒に行かんか。」
ためらいがちな彼に対して、ゆうははっきりしていた。
「はい。かずさんがよろしかったら、お供します。」
そして、先に出る和彦と一時間後に翠園で待ち合わせることにした。ここの辺りでは人目があるが、二里以上も離れた住吉の辺りでは子供の彼らを認識する人は少ない。例のモデルを務めてからしばらくはまともに話すことも少なかったのだ。ゆうが西澤の家を出ることは和彦たちには知らされていない。彼女には、どこかで自分の口からきちんと彼に意向を伝えたいという考えはあったのだが、なかなかその時間も機会もなかった。
ゆうは片付けを終えて、一年半以上を過ごした自分の部屋を見回した。使用人用の北側で暗く狭い部屋だったが、離れがたい愛着がある。明日の昼頃、父親の良蔵が荷物を取りに来てくれることになっていた。後は今着ているものや寝間着を明日になってしまえばいいだけだ。少ない本の間に挟んだ一枚の画用紙を、じっと見つめた末に大切に取り出した。それは水彩で描かれた自分の絵だった。和彦は大きなスケッチブックのいっぱいに彼女の裸体と、何分の一かに切った小さめな紙にもう一枚、着衣のゆうを描いていた。ポーズは同じだが、髪や表情はわざと変えて描いている。彼の説明では、以前から働いているゆうの姿を見ていて、その生き生きとした動作や表情に感銘を受けたのだそうだ。描かせてくれた礼と記念に持っていてほしいと言っていた。いつか自分が本格的に絵を習って、ちゃんと油彩で描けるようになったら、必ずもう一度ゆうの絵を描きたいとも言った。少年ながら、自分に対するその誠実な態度と絵画への情熱は、華の誤解に戸惑い、弁明をすることもなく将来を決めたゆうの誇りと自負心を満足させてくれた。
「かずさんは、けしてうちに妙な気持ちを持ってはったんやない。うちらは純粋に、友情と認め合いで話をしてきただけで、それがこの綺麗な絵ぇになったんや。」
それはゆうのプライドの証しでもあった。和彦の子供らしい素直さと時折見せるアンバランスな大人っぽさは、単に主家の坊ちゃんとしての存在ではなく、一人の異性が自分に見せてくれる未知の人間像だった。ゆうのような教育がない奉公の少女にとって、自分のことを見下げず、良識を持って正しく判断して見てくれた初めての異性である。彼女にとっては、数少ない、正面から向き合える世界観を持った少年、そんな対象だったのだ。
「かずさん、ちょっと待たせましたなぁ、堪忍。」
牡丹園のはずれで一心に写生をしている和彦を見つけて近づいた。ゆうが明るく笑っているのにほっとしたのか、和彦もその笑顔につられてほほ笑んだ。
「ゆうさん、この頃なんや考え込んで元気ないし、ちょっと心配やった。今日ももう来んかと思うた。」
彼が描きかけている牡丹はすでに花季を終え、ただの丈の高い植物の群像としか言えない。こんなのが絵の素材になるのかと不思議に思う。だが、和彦はそれでも描き続けた。彼の説明によると、花が美しいのは当り前のことで、古来、花鳥風月は多くの先人たちによって描かれている。自分は当り前の美ではなくて、自然に隠された潜在の美を見つけたいのだと。ゆうは少年の理屈に苦笑した。
「かずさんは、あまんじゃくやからなぁ。普通のことでは納得しいへんのやな。」
いろいろ話しながら、少し気分がほぐれ、以前のように冗談も交わした。夕暮れがとばり帳となって周囲を覆う頃、二人は翠園の閉門にしたがい、神社の方に足を向けた。賑やかな人の雑踏と廻り踊りの囃子や楽器の音が、二人のぎこちなさを誤魔化してはいたが、連れだって歩くのはどうしても意識される。ゆうは彼からかなりの距離を置いて歩いた。けっこう早足の和彦を見失わないように前を見続けながら、自分が持ってきた小さな包みを握りしめて歩いた。境内で彼に追いついて、二人でお参りをすませ、戻り道は、露店が並ぶ一番賑やかな参道は避けて歩く。住吉の周辺は特に細かい川が多く、旧吉野川とその他の支流の分岐や合流で小さな橋も多い。和彦は何も言わなかったが、正法寺川の下流になる辺りの沼地で、当時はトンボが繁殖するポイントを目指していた。
「ゆうさん、赤とんぼ好きやろ…。実家の方にはいっぱいいてるって言うてたもんな。」
橋のたもとで足を止めて、川上の方を指差した。もう、時期が遅くて多くはないが、夕焼けの空にぽつんぽつんと赤い影が移動する。かえって夢の世界のような雰囲気があった。
「綺麗やなぁ…。」
余計な言葉は何もないが、二人にとってはそれだけで心が通い合う瞬間だった。しばらくは黙ったままそれを見ている。
「かずさん、あんな、うち、明日ご奉公から上がるんです。」
トンボから目を離さずにゆうは和彦に告げた。彼の方を見なくても、その驚いた表情や何か言いたくても言えない様子はよくわかった。
「……。」
ゆっくりゆうは和彦の方に向き直る。
「ほんでも、お嫁に行くとか、余所に奉公するんとは違います。前に言うたことありますけんど、うち、ずっと染め物のことでなんかでけんかと思うてました。ほんで、一旦三好へ帰って、おっ父さんやおっ母さんに相談して、どこぞで働きながら修業やらさしてくれるとこがあったら、行かしてもらお思うとります。」
一気に喋って、そのまま和彦の様子を見守った。彼は茫然とはしたが、気を取り直したようだった。
「そうか、ゆうさんうちから出るんか…。それがゆうさんの夢やったら、叶えられるように応援せなあかんな。」
寂しそうではあったが、言葉はしっかりしていた。
「ほなって、ゆうさんは僕の夢も聞いてくれたもんな。ゆうさんが頑張るんやったら、俺も頑張らないかんと思う。」
努力して微笑むのがわかり、ゆうも表情を和らげた。
「かずさん、こないだの絵ぇのお返しやけど、うち、かずさんの絵の勉強がうまいこといきますようにって、お守り作ったんです。中は、さっきの住吉の神さんに入ってもろうただけなんで、ただの白い紙ですけど、絵の学校に行かはったら自分で神さんの絵ぇ描いてください。きっと叶いますよって…。」
明るい笑みを浮かべて彼の手にそれを乗せた。藍色の小さな守り袋に西澤の紋の五つ葉おもだかが手刺繍されていた。手触りで、中の折りたたんだ紙の感じがわかる。自分で神を描くというゆうの発想に苦笑しつつ、和彦は微かに触れたゆうの指先を温かく感じていた。
次の日の朝食時に、家族が居並ぶ中で、華からゆうの年季明けが伝えられた。主な使用人はすでに知っており、ひとり清彦が驚いてはいたが、何事もご隠居の胸ひとつで決まる習慣があり、誰からも異論は出ない。手短かに今後のことを報告し、その日の午後に彼女が三好に帰ることを言ってお終いになった。和彦が特には反応しないのを母親の加代子はいぶかしんだが、それも朝の慌ただしさに紛れて、彼が登校を急ぐのでそのままになった。朝飯の給仕で側に着いた時、言葉数が少なく強いてゆうの方に目を向けないような様子だったが、和彦は昨夜の別れで気持の整理がついていたのだ。
「かずさん、ご飯たんと食べてくださいなぁ。学校でお腹すきますよって…。」
とゆうがからかい半分に言った言葉にだけ、目を上げて少し笑った程度だった。その日、彼が夕刻に帰宅した時には、すでに屋敷内に彼女の姿はなかった。和彦は、夕食後は部屋に閉じこもったままで、加代子が気にしてのぞいたが、落ち着いて普段と変わらず勉強しているようではあった。清彦の方がずっと不機嫌で、今から新しい守りに文句を言って母親に駄々をこね続けていたので、加代子はそろそろ閉口してきていた。
「ゆうちゃんは自分のやりたいことがあって、お勉強のために奉公を終わるんやからしょうないやろ。それにもう会えんとは限らんのじゃし、三好のお家でしばらく手伝うとるんやったら、また、こっちにも遊びに来てくれるやろ。きよのことは可愛がってくれたんやから、顔見に来てくれるがな。」
いいかげん起こり出しそうに言っても、清彦は納得しない。変わらずぐずぐず言う弟を横目に見て、和彦は、
「ゆうさんの行き先が決まったら、挨拶に来るか、なんぞ連絡ぐらいはしてくれるで。」
と、確信がありそうに言い切ったので、加代子の方が驚いていた。しかし華はその後何も告げず、ゆうも西澤家を訪ねることはなかったのだ。