第一話
八月の晴れた空は真っ青だ。ところどころ積雲が盛り上がり、特産のしじら織りの模様にも見えた。四国でもこの辺はやや内陸に入りかけていて、吉野川沿いの風がわたる時以外はうだるような空気が滞留する。
徳島県 藍薗村、旧阿波藩から徳島県になって半世紀がたつが、ここは江戸期と変わらず 「 藍の里 」の景観が広がっている所だった。
ゆうは畑にしゃがんで藍草の刈り取りをしていた。五月末の麦の刈り入れが終わるまでは、この畑は黄金色の麦穂と緑の藍が一畝ずつの縞模様をえがく、見事なコントラストを示していた。今は、その麦の株も掘り起こされて無く、ただ濃緑の葉が生い茂る一面だ。暑くなる前にと朝飯の片付けが終わってすぐ屋敷を出、他の使用人数人と「 かみ 」の畑に来ていた。「 しも 」の田んぼの方にも草取りの数人が出ていて、用水路からの水音とうるさいほどの蝉の声の中、黙々と作業に勤しんでいるが、地付き者本来の律儀な性格と土用の暑さのせいで、無駄口を叩く者もいなかった。三時間ほど藍草を刈りながら畝を往復し、昼前の茶の時間になって、木陰に集まると途端に話が弾む。一人の作男が汗を拭いながら口を開いた。
「 こりゃあまた、どうぞこの暑さは…。今年は一段とあつうなっとるのう。」
女衆が広げた茶をすすり団子を頬張りながら、他の男衆も揃って暑さの感想を述べ合うのだった。
シラカシの大木の幹の近くに控えるように座って、ゆうは微笑んで相槌を打つだけだ。勘じいと呼ばれている最年長のタバコが終わったら、皆申し合わせたように立ち上がってそれぞれの持ち場に戻り、また寡黙な作業が再開する。
「 ゆうちゃん、そろそろきよぼんが帰る頃やで。一足先に戻んてええよ。」
斜め後ろから姉さん分のお豊に声をかけられ、ゆうは頷いて立ち上がった。午前の作業が終わったら、昼過ぎにはみんな揃って屋敷に戻って昼飯となる。その準備の手伝いもあるので彼女は遠慮しなかった。
「 ほんなら、一足先に帰らしてもらうわなあ。」
明るく笑みを返して茶道具を片付けに移動した。明るい陽射しの下で、十六の娘の肢体は弾けるように輝いている。襷でめくりあげた浴衣の袖口から伸びた腕は、他の女衆のように手覆いを付けずにそのまま陽にさらされて、しなやかな筋肉が汗で光っている。無造作に結んだ帯の下で、肉付きのよい臀部は歩く度に柔らかな振動を伝え、しっかりした腿が支えているのがよそ目からでも見てとれた。いつもの下駄ではなく畑仕事用の草履に泥が付いた足も、年齢相応の太さと健康に日焼けした肌色が何とも愛嬌があって、この娘が主人一家にも使用人たちにも可愛がられている雰囲気が読めるようだった。大風呂敷の結び目を肩に掛けて麦茶のやかんを持つと、ゆうは振り返ることもなく、四半里先の西澤家に向かってとっとと歩き出した。
七月からの田の草取りや藍の刈り取りは、主家である西澤の恒例で、使用人は前後十日ほどずつほぼ全員で手分けして行う。毎年そうやって河畔に広がる広大な田畑の手入れをして、小作の土地以外の地所を守ってきたのだ。特に「かみ」と呼ばれる藍畑は、藍産業が廃れた今でこそそれほど重要ではなくなったが、以前はこの辺り一帯のシンボル的な場所として、西澤の富を生んだ源だった。今ではかなり縮小されているが、それでも五町歩もある畑から取れる良質の藍草で、今でも京阪神の高級染め物問屋の材料を提供し続けているのだ。
昔造りの構えが偉容を呈している正門をくぐって、姉さんかぶりを外したゆうは、そのまま脇筋へ折れて厨屋の方を目指した。屋敷を覆った鬱蒼とした木立からは、短い命を惜しむように蝉のヒステリックな鳴き声が降り注いでいる。毎日のことでそんなもの気にもせず、彼女は開け放った台所の土間に入り、茶道具の包みを下ろした。飯作りは主に三人の女中が受け持っており、中心は古参女中の滝さんだ。五十半ばでここの古株でもあり、彼女の指図は奥さんの加代子より絶対だった。ゆうたちにとっては、めったに会わない主人よりも、隠居の華やお滝のほうが怖い存在でもある。
「 お疲れやな。まず井戸端行って足から洗いで。そんな汗みずくでは所帯もでけんけんな。行水してきいや。」
言い方はきついが愛情のこもった滝の指示に、彼女は素直にうなづいた。サンショやナンテンの低木に隠れるようにある井戸の端で、ゆうは上半身を露わにして濡らした手 ぬぐいで肌をこすった。浴衣の上半身を胸の回りに巻き付けているので、乳までは見えない。誰が見ているわけではないが、年頃の少女の恥じらいが屈んだ丸い背中からも匂い立っている。最後に顔を洗ってほつれた鬢の毛を整えて、盥の水を捨てた。十分ほどの要領のよい動作に、いつもの慣れと次の仕事への誠意があふれている。立ち上がって着物を直し、持ってきた下駄に穿き換えて、台所仕事用の前垂れを締めた時、ゆうの後ろで甲高い男子の声がした。
「 ゆう、兄さんに本買うてもろたよ。」
それは、三つ上の和彦に町場の商店に連れて行ってもらった、次男の清彦の弾んだ声だった。麦藁帽子を揺らして駆け寄って来た末の坊は、小学六年にしては幼く見える。手に本屋の包みを持って、嬉しそうに自分の守り役に説明した。和彦が夏休みの宿題を描くための絵の具を買いに行くのに、今朝方どうしても‥と甘えてついて行ったのだ。
「 へえ、ええなあ。きよぼんは本読むの好きやもんな。何の話の本やの。」
外国の冒険ものの翻訳本とかで、内容も挿絵も子供心をそそるらしく、清彦は夢中で話しつづけている。中学三年になった和彦は、そんな弟の様子と、自分とあまり違わない年齢の少女が、大人の女のように子供の話を聞いてやっているのを黙って見ていた。清彦が浮かれてまといつくので、台所の仕事も気になるゆうは前屈みになって、自分の守としての責務を果たそうと、
「きよぼん、もちっとしたらお昼じゃけんな、お部屋に戻って本置いたらおだいどこへおいで。話はなんぼでも聞くけんな。御飯食べたらまたそれ見して。」
と言い聞かせた。和彦はその様子を見ていてはっと目をそらした。ゆうが屈んで清彦に手を伸ばした拍子に、浴衣の胸元が緩み、その乳房の膨らみの一部が見えたのだ。
「きよ、ゆうさんは忙しいんやで。お母さんに帰った報告せなあかんやろが、はよう家に入るんや。」
少年は赤らんだ表情を悟られないように、弟を促して屋敷の玄関方向に去っていった。
西澤家は市内の両替商( 銀行 )を営むほどの豪農だ。江戸時代に阿波藍の生産大手として莫大な富を得、それを元手に、商才に長けた先々代が市内に進出して両替商を起こしたのだ。明治になってから藍商としては低迷しているが、今ではそれに代わる利益を上げている。ご維新前と後ではずいぶんと様変わりした商人たちが多い中、呉服屋から百貨店経営に移行した藤巻家と、藍商から金融業に移行した西澤家は、徳島の財閥に数えられる両頭だった。
主人の恒介はほとんど会社がある市内の屋敷で過ごし、たまに藍薗に帰る生活をおくっている。今でも広大な稲田と、野菜栽培などに切り替えはしているものの、かつての藍畑を含む耕地は、留守を守る老主人の華と、やはり浦庄村の名家から嫁いだ嫁の加代子が仕切っていた。ただこの時代の男の常として、恒介には市内の芸者上がりで十年来の仲になる妾がいた。田舎のお嬢さんで育った加代子は、のほほんとした性格からそれほど気にせず、むしろ自分が夫の世話に通い詰めなくてもいいので、楽だぐらいにしか思っていないようだったが、母の華は、外聞を気にしてと多感な二人の孫息子に妙な影響があるのを心配して、しょっちゅう息子に小言を言う状態だった。老母は、
「あんさんや加代子は納得しててええかもしれんけど、知らんとはいえ子供らには悟られるもんや。特に男の子は父親のおなご関係に敏感や。あんたが親としてしっかりしとらなんだら、西澤の跡継ぎとしてきちんとした男に育たんかもしれんで‥。そないなったら、私は御先祖様に申し訳のうて、死んでも極楽往生でけんようになってしまうで。」
と、脅迫めいた説教をするのだった。
井川ゆうは、そんな主家筋の西澤家に一年と少し前から行儀見習いとして奉公している。父親の良蔵がかつて西澤銀行の社員だったツテで、小学校を卒業して二年間の和裁修業を終えた後、頼み込んで、花嫁修行のための見習い奉公ににあげてもらったのだ。だから、使用人ではあるが他の女中とは格が違い、まだ甘えたい盛りの清彦のお守り兼奥様の加代子付きの雑用係として一目置かれてはいた。給料はもらっていないが、華の言葉では、それに代わる預金が彼女の名前で積み立てられているらしい。いずれ十八頃に良縁があれば、華や加代子の世話で嫁入り支度もしてくれる約束になっていた。
「お前のことは親戚の娘同然と思うとる。気立てがええ子やし、仕事も人一倍まじめにようやってくれる。お前には、とにかく良縁を探して、あんじょう計ろうてやるつもりじゃけん、しっかりうちで行儀を見習うんやで。ように言うことを聞くんやで。」
厳しいが包み込むように言い聞かす華に、全幅の信頼を置いた瞳でうなづきながら、ゆうはみのり多い多感な思春期を過ごしていた。老女主人を中心に、使用人仲間も皆ゆうには優しく、子供たちもよく彼女に懐いてくれていて、この家に来てからつらいと思ったこともなく仕事に誠意を尽くす少女だった。まだ十五になる前の、言葉遣いもろくに分からなかった頃、大きなお屋敷奉公に緊張して、精一杯に周囲の口真似をしていた時期がある。老女中のお滝はじめ皆が、坊たちのことを「かずぼん、きよぼん」と呼ぶので、学校の休みの日になんの気もなく和彦の部屋に掃除に入り、弟坊に言うのと同じ調子で声をかけたことがあった。
「お勉強 中すんませんが、ちょっとハタキと箒かけさしてもろてもええでしょか。」
断って上の坊ちゃんの部屋に入り、作業の後、終わった報告をしようと和彦を振り返った。彼は普段から使用人のことはあまり気に止めない性格で、他の女中たちも「 かずぼん」は何やら難しい勉強を熱心にしているくらいにしか思っていなかった。皆よく分からない難解な書籍類には興味も示さなかったから、作業が終わってもただ黙って出ていくのだ。いつものことで、ゆうのハタキの音も意識していなかった彼は、一心に洋画集を見ていて、彼女が自分の傍に来ていることに気付かなかった。
「 あの …」と言いかけても気がつかない和彦を見て、ゆうは、
「 何の本ですの。」
と彼が見入っていた本を覗き込んだ。それはゆうなど見たこともない外国の油絵の画集で、透明で繊細な筆遣いの裸婦がまっすぐ立っている絵のページだった。和彦は、肩際からのいきなりの声に、慌てて次の風景画のページを繰ったが、内心の動揺は隠せなかった。そして分を弁えない新参の女中を睨んだ。ゆうは人の心理に疎い性格でもあり、そのような時、年頃の男の子がどういう思惑を持つかなど考えないし、自分が初めて見る美しい絵の数々にただ魅了された。
「 これがヨーロッパの風景ですか。へぇ、『 糸杉 』ゆう木ぃなんですね。 」
無邪気に感動するゆうに、和彦の怒りは次第に解けていった。いろいろなページを見ているうちに、再び先ほどの裸婦像のところに戻っていく。彼は今度は動揺せずに、
「 ゆうさんやは年頃の女で、こういうのをいやらして思うか。」
と、てらいもなく質問した。まだ屋敷に上がって間もない身で、坊ちゃんたちともそれほど親しく話していなかった時期なので、ゆうも戸惑ったが、同世代の男子から忌憚なく質問されたことはどこか嬉しくもあったのだ。
「 ううん、うちやはこんなん見るの初めてやけんど、すごう綺麗やと思うわ。人間のハダカやってこやって描くとうつくしもんなんやなあ。」
思春期の少年にとっては、自分の志向を誤解されてもしかたない状況で、ほとんど初めて話らしい話をした少女からの期待通りの答えに、彼はある満足を覚えた。しばらくヨーロッパの絵の話が弾み、最後にゆうが微笑みながら質問した。
「 ほな、かずぼんは絵描きさんになりたいのんか。」
それまで和やかだった会話が途切れる。しばしの間の後、
「 絵は好きやけど絵描きになるのは家族に反対されとる。それに僕はもう子供やない。ぼんとか呼ばんでほしいな。」
と、和彦が拗ねた表情を見せて空気が止まった。不機嫌に見える彼に、ゆうはなぜとも分からずに、ただ「 すんません 」と謝って部屋を出た。それ以後、彼のことは" かずさん "と呼ぶようになった。また、華を筆頭に当時の厳しい道徳観に縛られた旧家では、同じ十代の男女が親しく同席したり会話することに危惧があり、その後上の坊ちゃんには関わることも少なくなる。彼の部屋の掃除を頼まれることはあったが、個人的な会話をすることはめったになく、食事時のお給仕で傍にいることはあっても、清彦とはよく喋り彼にはどこか遠慮していた。だが、二人の意識はともかく、周囲の認識はあくまでも主家の坊ちゃんと奉公の少女の関係で、誰かが心配するような要素はなかったから、家族や使用人はそれなりに温かく見守っていた。
和彦は幼少の頃から美的なものに強く反応する子供だった。清彦が生まれる前の夏、まだ二歳半くらいだったが、加代子が妊娠障害が激しくて長男にかまけてやれない時期があった。その時の守は、奉公に来たばかりの弓という少女だったが、この娘が主人や先輩女中の目を盗んでは仕事をサボりたがったので、彼はよほどの世話がない限りはほとんど放っておかれた。ある初夏の昼間、お滝が賄いの残り物を自分の身内に届けに帰ろうと、近くの畦道を歩いていたら、田の用水路の側にしゃがみ込んでじっとしている和彦を見つけた。
「 ぼん、こんなとこでどないしたんや。お守りはどこぞで用でもあるんやろか‥。あっついのに帽子もかむらんと。」
と、近付いて行くと、幼児はあどけない笑顔を上げて、
「 おみず、きれえ。」
と言って目の前の用水を指差した。彼女がその方向を見ても、ただ普通に水が流れていて、中にメダカが泳いでいるだけだったそうだ。和彦がたどたどしい言葉で説明したところによると、水の流れに合わせて水中の藻が揺れて変化する様子に、なんとも言えず気を惹かれたらしい。しかし、いつからそうしていたものか、彼は滝の目の前でそのまま気を失い慌てて連れ戻されて、往診した医者に日射病と診断された。弓は華からこっぴどく叱られ、すぐお守りは他の中堅女中に役代えされた。
それ以外にも、母の病室でずっとひとり遊びをしていて、床の間に飾られた大きな芍薬の花に見入ってしまい、目覚めた加代子が話しかけたら驚いて泣き出したことなど、エピソードは数知れない。
小学校に入ってから絵を描きはじめ、読み書き算術はそこそこの成績だったが、図工は飛び抜けてよかった。版画や粘土はまあまあで、普通の子供が「 うまい 」と認められる程度だったが、絵画に関しては、クレパスでも水彩でも、師範学校出の教員では論評しようがないくらい、遠近や陰影がしっかり描き込まれていて、子供の絵とは思えない出来だったらしい。実業の家の跡継ぎとして生まれて、芸術方面の能力が優れているからといって家族には褒めてもらえなかったが、若い担任教師は喜んだ。家庭訪問した時に四方山話のついでに、
「 もしご子息が絵画の方面に進まれるなら、市内で画塾を経営していて、京都の画学校にも伝手を持つ先生を知っていますので、及ばずながらご紹介なりとさせていただいても…。」
と言いかけたところ、加代子の横で孫の学校での報告を聞いていた祖母の華に一喝された。
「 せんせえ、この子がなんの勉強ででも優秀なのは喜ばしいことですが、絵ぇの道に進ませることはございませんので。この子は西澤の総領息子です。絵ぇなんぞに力入れてくださるよりも、役立つ学問をしっかりやらしていただかなんだら困ります。そこんとこはどうぞよろしゅうお願いしますんで。」
言葉は慇懃だが、有無を言わさない指令調だということは、控えて正座していた八歳の和彦にもよく分かった。その経験から、彼は、自分の美や芸術・絵画を愛する気持ちにどこか罪悪感が伴うようになり、以来、主要教科の学習は良好ながら、説明しようがない思いとともに、ひとりで画集など見て孤独を感じることも多かったのだ。
思春期の、大人への疑問や不信感ではなく、ただ自分の真実を家族や知人の誰にも理解してもらえない、また、そのことは決して表に出してはいけない心情が、彼を傷つけ続けていたのだ。だから、彼にとっては、初めて自分の絵の世界に共感を持ってくれたゆうに対して、その感性をこれ以上はないくらい肯定的に受け止めた。と同時に、自分を子供のように坊ちゃん呼ばわりした瞬間、少年の何とも言い難い自尊心が傷つけられ、彼女に対する男としての自負心が、素直に感情表現できないもどかしさを感じさせた。そして、それは、一年近くもゆうに対しての和彦のわだかまりとなって彼の胸につかえている。
ゆうは、二番刈りの済んだ藍畑に来ていた。ヒグラシの声が聞こえはじめる夕刻、清彦が母親の加代子に引っ付くと、彼女は一刻ほど自分の時間が持てる。その日によって、藍粉成しの作業所である「おぶた」や「寝床」を見に行ったりもする。数日間の喧騒が嘘のように落ち着いた、広々とした建物の伽藍洞の中で、じっと作業半ばの道具や乾燥した切り藍の葉っぱの山を見たり、スクモと呼ばれる染料のもとが保存される「藍蔵」を前に、考え事をしながら佇むこともあった。奉公に上がるため父親に連れられて西澤家に着いた時、屋敷の広大さはもちろんだが、実家の辺りではついぞ見たこともなかった「藍商」独特の家の造りに驚いた。今で言う家内工場にあたる建物やいくつも連なる蔵は、豪農の偉容を示しただけでなく、明治の近代産業の実態を見せていたのだ。ゆうは、他の使用人と違って、農繁期以外は内向きの仕事が多いので、こういう場所や物に対して特に興味を引かれる。自分は弟坊の相手や、彼が学校に行っている間の家事・針仕事をしていながら、おぶたを中心に展開される阿波藍産業の最後の光明を見ていた。ゆうが生まれた明治三十年頃をピークに、国内の染料生産としては最大の収益を誇った阿波藍は、安くて発色性が高いインド藍に取って代わられるようになった。大正になった今では、さらにドイツから人造藍と呼ばれる合成染料のインジゴが輸入されるようになり、かつて大規模な人手を投入して生産していた藍農家は、次々に野菜生産などに切り替えていき、西澤を始め最大手だった数軒に縮小されて斜陽時代を迎えている。しかしながら、今でも、京阪神の伝統的な紺屋からはやはり高級染料としての需要があった。
現在ではおぶたといわれる作業棟は一棟を残して、あとは養蚕用の蚕室として春秋に使用されるのみになり、もちろん蔵もかつてのように稼動してはいない。ひと頃の十分の一ほどの使用人が、長年培った技術を細々と継承しながら、それでも藍王国の誇りを伝え続けてていた。山育ちのゆうは、吉野川下流域に広がる豊かな藍畑の美しい景観と、そこに集って父祖伝来の高度な技術を持った専門職の人々や、それを仕切る大店の経営と人事の交錯に圧倒されると共に、えもいわれぬ憧れと自分を含めての集合体に誇りを感じずにはいられなかった。
ゆうの前には刈り入れの終わった空っぽの畑が広がっている。また秋に麦の種蒔きが行われるまでは、まもなく来る台風時の洪水期を過ぎて畑の準備がされるまで休作状態が続く。徳島の北方 が、藍作地帯として中世から繁栄したのは、じつは、この大河の定期的な氾濫に対したことに起因する。昭和前期に築堤が完成するまでは、稲作中心では、毎年の台風の直撃で多大な損害を受けていたからだ。だが、この氾濫はこの地方に定期的に肥沃な土壌を提供もする。そういう気候条件と相まって、藍はタデ科の育てやすい作物で、しかも成長が早く盆前には必ず収穫できるという利点があった。もちろん年明けの育苗から、畑の世話や刈り入れてからの藍玉生成まで、手間も技術もかかって重労働の連続だが、藍商の大手は有り余る資金力で、藍作奉公人の斡旋業組織を育てることや、肥欲な藍という植物の栽培のために、自らが「金肥」といわれるイワシ糟・ニシン糟の流通業者として仕入れ網を広げることによって、江戸時代の急激な発展を支えたのだ。そういう歴史の痕跡を残すこの辺りでは、西澤屋敷の偉大さを「御大尽」と形容する年寄りも多かった。
畑の畔にしゃがみ込んだゆうの手には、刈り残って風に揺れる数本の藍草があった。当時阿波でよく作られていた品種は「赤茎小千本」といわれ、茎や髭根が赤いの以外は見た目は雑草のタデとあまり変わらない。茎が広がらず世話しやすいのと葉が厚く良質だった。見た目大ぶりな葉と色彩の濃さがその効用を表している。それは地味ではあるが、ゆうは、初めて藍畑へ連れてきてもらった時の印象のまま、のびやかで美しい植物だと思っている。真夏の刈り入れは暑さとの闘いであると同時に、一番よく繁った時の葉藍だけを利用するための根からの刈り取りなので重労働だ。畑の殆どは蕾が付く前に刈り取られてしまっており、今、ゆうの手の中にあるのは大葉の先に可憐な花の群がる刈り残しだった。このまま放っておけば、やがて開花し小さな見を結ぶ植物の静かな一生を彷彿とさせる。慌ただしい土用の二度の刈り入れで膨大な藍葉が運ばれたが、そんな跡すら感じさせないほどの静けさだった。だが、今でも西澤屋敷の作業場では、毎夜戦争のように工程が続いている。刈り入れた藍葉を刻んで次の日に乾燥させ、炎天下で連棹という道具で叩いて砕く作業が行われていた。その「藍粉成し(あいこなし)」の仕事は天候が不安定になる台風シーズンまで連日続く。それからおぶたでの寝せ込みに入るのだが、勘じいのような熟練の「水師」によって、いい按配の水打ちと熟成が繰り返されるのだ。そして、高温とアンモニア臭の立ち込める大変な作業の中、藍葉は熟成してスクモへと変化し、つまり絶妙な色合いを出す染料に仕上がっていく。
まだ、ゆうはそれを使って布を染める場面には遭遇してはいない。だが、加代子が着ているお召しや、華が好んで使う布団のえもいわれぬ深いブルーが、どうやったらあの汚い植物の玉から醸出するのか、子供らしい疑問と驚きでいっぱいだった。最初に見たたおやかで生命力あふれる藍草と、作業場での切り藍から変化していく過程と、染めの様子は知らないが、出来上がった藍色の美しさとのギャップにだんだんと魅せられていく。ゆうは、かつて彩り豊かな和服の仕立てに関わっていた経験から、いつか自分もこの素晴らしい染め物の作業に携わってみたいと思い始めていた。
「ゆうさん、お使いだったんか。」
不意に後方から遠慮がちな声がかかり、振り向いたゆうは、それが学校の補習帰りの和彦だとわかった。二人が家の外で会うことは珍しく、あれ以来なかなか打ち解けて話す機会もなかった。たまたま通学路が「かみ」の畑の横を通っており、遠方からでも人気のない畦道に佇むゆうだと見て取れたのだ。彼女は微笑みながら、
「かずさん、今お帰りなんやな…。きよぼんが奥様のお部屋に行ったんで、私はしばらく自由時間なんです。」
と肩を竦めた。そして、
「かずさんは夏休みもお勉強で大変やなあ。」
と言葉を添えた。彼は、将来は大阪か神戸の商科大学を目指すということで、中学校の特進学級で市内の高校を受験することになっている。だが、このころは、事情がよくわからないゆうなどがが見ていても、どこか迷いと消沈の様子が気になっていた。彼は、
「大変なのは勉強でも進学することでもない。」
と夕焼けの赤にもごまかせない暗い表情になる。
「もう夕飯の時間やで…。僕腹ぺこや、はよう帰ろう。」
彼はガラッと雰囲気を変えて、茶目っ気を見せてゆうを促した。しばらく雑談で歩いたが、屋敷に近付い時ゆうは少し慌てて、
「ほな、うちはここで。裏の道から回りますんで、かずさんは一足先におうちに入ってください。」
そのままペコリと頭を下げて和彦から離れていった。彼はまだ何か言い足りなさそうだったが、塗り塀の向こうに消えていくゆうを見ながら、諦めたように踵を返す。まだ大正のこの頃は、男女が肩を並べて一緒に歩いたり、親しく語り合ったりする様子を見られでもしたら、近所でのどんな噂になって将来にまで影響するかもしれない。まして、それが主家の子息と使用人となれば、たとえ二人に特別な感情がなくても、世間体が悪く、小さな共同体の中ではこのうえない醜聞だった。はっきり言われてなくても、常々ご隠居に行儀を厳しく仕込まれているゆうにとって、大切な上の坊ちゃんにそのような汚名を着せるわけにはいかない…という暗黙の遠慮が働いた。しかし、そんな少女の気持ちなど、まだ十四歳の和彦に悟れるはずもない。
和彦は大仰な構えの正門から入り、そのまま真っすぐ正面玄関の三和土から家に上がった。十畳以上もありそうな玄関には、なんとかいう高名な日本画家の衝立が江戸時代から鎮座している。全体に煤ぼけて色合いも変化してしまっているが、保存がよければきっと重文にでもなっていそうな逸品だ。だが、彼は日本画にはあまり興味はないらしい。物心ついた時から見続けているので、玄関を通る時も、いまさら気にも止めない様子だった。少しも歩を緩めることなく、まず華の部屋の前で帰宅した挨拶と学校の報告をする。当主が留守がちな西澤のルールで、家族も使用人もいったん母屋のはずれまで行って、ご隠居に挨拶するのが家風となっていたのだ。そうすることで、華は、いながらにして家人の出入りも来客も的確に把握していた。この家では彼女の判断が全ての基準なのである。和彦は、祖母の慈愛に満ちた笑顔と質問から解放されて、次は勝手の横に位置する母親の部屋に行った。そこは、両親の寝室として「奥の間」と呼ばれているが、父がいないことが多いので、今は加代子の私室になっている。今日は昼過ぎまでゆうと二人で子供達の秋の衣服を仕立てていたとのことで、まだ裁縫道具が出しっ放しになっていた。母の愚痴から判断すると、清彦がいつになく甘えてきてちっとも捗らなかったらしい。
「かず、もう夕飯やよって、お部屋行ってもぐずぐずせんとすぐ座敷にきいや。おばあさまがいっつも『かずはまだか。』って言わはるんで。」
毎日の補習から帰っても、しばらく自室でスケッチブックや画集に見入ってしまい、女中が呼びに行かないと食事に揃わない惣領孫に、華がやかましく言うのを母親として気に病んでいるのだ。和彦は少々気分を害されて、
「ほんなん、ようわかってる。僕かてわざと遅れたりはせん。学校の道具やら宿題やら出したり確認しよるだけや。お母さんがうまく執り成してくれたらええんで。」
とむくれた。他の人間には大人っぽく振る舞うが、やはり母親には本音も甘えも出るらしい。
「あっつうてよう汗かいたよって、ちょっと井戸端寄ってからすぐに行くけん…。」
弁解がましく中途半端に言い置いて、長男は廊下に消えた。次はお豊達にかまけつきに行った
次男の番だ。加代子は溜息をつきながら部屋を出て行った。
勝手そばの井戸端で、和彦は水を汲むゆうに会った。藍屋敷の造りは家によって少しずつ違いがあるが、当家のように大規模になると、万事が繁忙期の家内の労働に合わせて造られている。勝手がおぶたや藍蔵の方に向いていて、大勢の使用人の出入りは正門からは一切見えない。おぶたへの通路には外壁にいくつか作り付けの棚もあり、そこに、女衆が食事のあと急いで仕事場へ戻る時に、立ち様で化粧直しができるように鏡や道具を置いていた。また、井戸も三ヶ所設置されていて、勝手内の炊事用・すぐ外の風呂と掃除用・作業場横の藍粉成し用ときっちり使い分けられていて、それぞれの作業に支障が生じないように設計されている。ゆうは家人の夕食の給仕につく前に、風呂に水を溜めて火を付ける仕事を任されていた。和彦が何の気もなく玄関からの角を曲がってサンショの枝をくぐった途端、さっき別れたままの姿で水桶を持った少女にぶつかりそうになって、彼は慌てた。
「あ、堪忍…。水こぼしたかな。」
よろめいた相手の身体を支えるように手を差し出して言った。大丈夫やけん…という相手の言葉に安心すると同時に、和彦から視線を避けるようにするゆうの表情をうかがう。彼女は桶を持ち直して、微かに微笑んだ。
「かずさん、汗流したらはよう座敷においでな。今日のお献立はかずさんの好物ばかりやで。」
明らかに自分をからかって子供扱いしていることは読めたが、それが引っ掛かったのではなく、彼女がなるべく自分との接触を避けているのが気になった。意を決して、彼は後ろ姿のゆうにはっきりと声を掛けた。
「ゆうさん、御飯の片付けやら終わったら僕の部屋に来てほしい。絵ぇのことで話があるんや。」
その日の夜半、すべての仕事を終え、家人の誰かに見咎められないように、ゆうはおずおずと和彦の部屋の障子を開けた。一応問われたら答えられるようにと、夜食の菓子と麦茶の茶碗を乗せた盆を持っていた。ぎこちなく開けた障子を後ろ手に閉めると、緊張して立ちすくんでいる。机に向かって英語の宿題と辞書に取り組んでいた和彦が顔を上げて笑う。
「そんな鬼にでも食われそうな怖い顔せんでもええよ。」
立ち上がって部屋の中央の座卓に来るように促し、自分もその向かい側に胡座をかいた。ゆうが言い訳に持ってきた菓子だが、夜食として嬉しかったようで、すぐ頬張りながら、
「あんな、ゆうさんやから見て、長男の俺が家の跡を継がんと清彦が継いだらおかしいんかな。」
と真顔で質問した。ゆうはまず和彦が「俺」と自称するのを初めて聞いて驚いた。今までの彼の印象は、時々気難しい時はあってもあくまでも穏やかで優しいイメージの坊ちゃんで、彼女の兄弟やこの近所の男の子とはまったく違うと思っていたからだ。
「かずさん、言葉悪いんやなあ…。不良みたいじゃ。」
年上らしく窘めながら、横目で軽く睨んだ。それには敢えて答えず、彼は言葉を続けた。
「ゆうさん、俺、やっぱり絵描きになりたい。そのためには、商科やのうて美科に進まなあかんのやが、みんな認めてくれんと思う。」
自分のような大学のこともわからない小娘に相談もないだろうとは思ったが、ゆうは悪い気がしなかった。
「お父様はどうおっしゃってますん。」
と聞いた。和彦の話では、恒介はかつて自分も行きたかった文科に行かせてもらえなかった経験があり、息子二人のうち跡を継ぐのはどちらでもいいと言ったことがあったそうだ。
「ほんなら、きちんとお父様に相談なさって、旦那様から奥様やご隠居様にお話していただいたら、いっときはもめるかもしれんけど、そのうちには、かずさんの気持ちをわかってもらえるんと違いますやろか。」
たいして参考にもならなかっただろうが、将来のことを真剣に相談していることが、二人にとって大人の証のように思えた。最初の会話からほんのときたまであるが、絵画を通じては、この二人は、今までにも心情が一致することがあった。和彦が登下校の際手に持っているスケッチブックなど見せてもらい、彼の写生や素描の感想を伝えると、ゆうの前では自分の思いの長けを語れた。ゆうは自分の知らない上級学校のことや、ヨーロッパなど遠い外国の芸術のことを知った。それは数えるほどしか機会がなく、家人の前ではできない話だった。それからは、彼女が庭掃除をしていて彼が帰った時や、ごくたまに廊下の外れなどですれ違うような時でも、短い話が弾み、互いの頬が笑みで緩む。
「ほな、今度また、それ見せてぇなあ。」
ゆうの軽やかな忍び声で終わることが多いが、彼女がわざわざ和彦の部屋を訪れて絵を見ることはなかった。広大で人目の隙も多い家ではあるが、時代性と家風から、ここの使用人が気軽に他人の部屋に行くようなことはない。その日、彼がゆうに自分の将来の希望と悩みを相談するにしても、どこか後ろめたい、人を気にするような心情が働いたことも事実だ。しかし、二人の間に芽生えた感情はあくまでも純粋な互いへの理解であって、男女の初期の意識はあっても、恋愛感情までには至らない原初的でごく未分化な友情が進化しかけたものに過ぎなかった。
「ゆうさん、話聞いてくれてありがとうな。俺、なんか自信持ててきたような気ぃがする。隠れてこそこそ絵を描いたりせんと、ちゃんと考えてみるわ。」
ゆうが部屋を出る時の和彦の表情は明るかった。
八月の終わりに、珍しく大型で雨量の多い台風が直撃した。その年は異様に蒸し暑くて、その割に梅雨の雨も台風も少なく、徳島は干害になる寸前だった。普段なら吉野川の豊富な水を引き込んだ水路から、どの田も畑も適度に配水を受けて潤うはずが、極端に水位が下がり水路のポンプが稼動できなくなった。それで、余程でないと使わない農業用水の井戸から足踏み式の水揚げ機で配水していた。西澤家の各農地も、小作人たちの弛まぬ努力でやっと持ちこたえていたのだ。藍の方はすでに藍粉成しの作業に入っていて、切り葉打ちや小まめな乾燥の作業が続いていたので、盆の間使用人たちはフル活動せざるをえなかった。月の終わりが来て、やっとゆうは里帰りができた。他の者は地付き者が多く、讃岐などから来ていた季節労働者はもう殆ど帰っていた。ゆうは、陸蒸気の鉄道を使っても半日以上かかる西方 ( にしがた ) の井川の実家へ、ようやく三日ほど帰ることができたのだ。明治三十一年に営業を開始した「徳島鉄道」は、三十三年に船戸 ( 後の川田 ) まで延長され、四十年には国有化された。この頃、まだ終点の池田まで路線化されてはいず、藍薗からは、最寄りの板野の馬車駅から乗車して徳島駅に向かうか、当時は一番よく利用されていた水路を利用して市の中心へ向かい、市内で上陸して本線に乗り込む。そしてさらに終着駅から三好まで、運送用の馬車に乗らないとゆうの実家には帰り着かない。間の待ち時間や歩きを入れると、子供には大した一日仕事になった。だが、正月は主家の来客が多くとても帰省の願いはできず、代わりに父親の良蔵が三人の弟を連れて挨拶がてら娘に会いに来ただけで、他の家族に会うのは一年ぶりになる。華が持たせてくれた弟妹への小遣いと、土産の上物の菓子を持参して、久し振りに母親の料理を味わいゆっくりと羽根を伸ばした。
その帰参の日が、例の大型台風が襲来した日だったのだ。藍薗の方は、朝から家人総出で防災の備えをし、午後にはもう早々と屋敷中の雨戸や板戸は閉ざされている。和彦と清彦もまだ夏休み中のことで、外に遊びに行けない不自由はあったが、母親の加代子や、その日は帰宅していた父親の恒介にしかられないよう、だいたいは部屋でおとなしくしていた。華がお滝に確認して、ゆうが帰る予定の日ではあったが、まさかこの天候で実家の親もとどめておくだろうと、彼女の帰参は翌日と判断された。
しかし、四国は狭い土地に高い山間部が覆った地形で、阿波の「西方(内陸部)」と「北方(吉野河畔下流地帯)」と「南方(海岸沿い)」とでは気候が大きく違う。台風も西では四国山地に阻まれて進路を変えるが、南方から紀伊水道沿いにせり上がるコースは強力でまともに来る。気象予報も情報も未発達な時代ではあったが、地付きの勘と長年の経験で地域ごとにそれぞれ判断して備えられていた。だから、その日、井川のゆうの実家では「たいしたことはないだろう…」との判断で、娘を予定通りに奉公先に帰すために早めに汽車に乗せた。昼前の徳島駅でゆうは下車したが、風雨が激しくなる中、吉野川や運河を利用した河川交通はもちろん、乗り継ぎの馬車も無くなってしまった後だった。その後、まだ年端もいかない少女は、嵐の中を二里ほどもある道を西澤家を目指して歩いていた。彼女はどちらかというと小柄で、年齢よりも幼く見えるので中年の駅員は心配したが、はきはきと受け答えし、以前にも歩いた道だからと気丈にも大降りの中へ出ていった。
和彦は少年らしい敏感さで、ゆうがここへ戻ろうとして路頭に難儀するのではないかと、密かに心配していた。家の大人たちは皆口をそろえて「帰参は翌日」と言うので、たぶん明日だろうとは思いながら、自分の部屋の激しく打ちつける外の音を聞いていた。
「もし、ゆうさんがこんな中を家に向こうていたら、雨風だけでなく途中の川が危ないやないか。正坊寺川と旧川の合流する辺りは一番水量が増すと聞いた。もう潜水橋も通れんのとちがうやろか。」
まだ小さい頃から近辺の状況や危険については、華だけでなく勘じいたちにも噛んで含めるように教えられていたので、見たことはなくてもよく了解していた。しかし、大河の扇状地で細かい支流が多い土地柄、当地の者は判っていても、他所から来ているゆうには不明なことも多いだろうということは少年にも推測できた。
「まだ、降りが本格的に成る前やったら、川の辺りまで見に行ってもいけるやろ…。」
とうとう彼は決心して外へ出た。誰かに言えば止められるのはわかっていたから、黙って番傘を持って豪雨の中に飛び出した。和彦は華奢で、ひとり静かに絵を描くような子供だったが、好奇心や行動力は旺盛で、今までも画材を求めて山地に入ることなどあり、怪我をしたことはないが、両親から注意されることが多々ある。怖くないかと言えばなくはないが、それよりも困難しているかもしれないゆうのことが頭から離れなかったのだ。
「・・・。」
ものを言うどころか息もしにくい暴風が吹く一瞬もあり、彼は一歩一歩用心深く歩いた。質の悪い活動写真の画面のような視界で、見慣れているはずの風景も認められない中、やっと着いた川べりで向こう岸に佇む少女を見つけた。風と雨の音響で聞こえにくいことなど頓着せず、
「ゆうさーん、ゆうさ―ん!」
と片手を振って叫んだ。なぜか自分の推測が当たっていて、彼女を介助できることが嬉しかったのだ。ゆうは三時間以上もかかってやっとここまでたどり着いた。雨はだんだん土砂降りになってきて風も激しくなり、途中で傘を差して歩くこと自体が難しく、親に持たされた荷物を身体にくくりつけて、すぼめた傘を杖代わりに風に揺すられないよう支えていた。びしょ濡れの着物は重く疲れが押し寄せてきて、目の前の増水した川を渡り始める決断ができずに逡巡していたのだ。この辺りにいくつも架かっている木製の橋は、幅が狭く桁の間を水が通りやすいように広めに取っていて、大水の時にはよく流れた。潜水橋とは文字通り「水に潜らせる橋」のことで、水圧を少しでも和らげて橋上に奔流を流すので、安全のための欄干すら付けられていない。普段、川が穏やかな時は広い水上をおおらかに架け渡る水郷の象徴の風景が、今は暴れ竜に飲まれかけた一本の心許ない道筋と化していた。ゆうは決意して、すでに水が覆っている橋の上に踏み出そうとした。その時、騒音の中に自分の名前をかすかに聞き取った。
「かずさん、どしたんや。迎えに来てくれたんやろか。」
何を言っているのかまでは判らないが、とにかく少年の方が体力も決断力もあった。見ていると彼はゆっくり自分の方へ歩を進めている。強い流れがきた時はハッとするような動作もあったが、まもなく着実にゆうの側に来た。
「ゆうさん、見に来てよかった。みんな、明日帰るって言いよったが、俺、なんや胸騒ぎがしてゆうさんが川に飲まれでもしたらと思うて来たんや。」
大雨の音に消されそうで怒鳴るように説明した和彦は、そのまま元の方向へ彼女を誘なった。狭いが少しでも安全そうな所をしっかり踏みしめながら、彼は片手でゆうを抱え込むようにして歩いた。一歩一歩、二人の足は機械仕掛けのように動き、いつもなら五分もあれば渡れるところを二十分以上かけて慎重に渡りきった。
「かずさん、おおきに。うち、ほんま怖かった。あそこで帰れんようになったらどないしょ、ほんでも渡りよって流されたら、って思うたら怖かった。」
そのまま抱き合うように家の方角に歩き、ゆうは震えながら和彦に訴えた。
「だいじょうぶや、もう大丈夫・・・。辛かったやろ、もう帰れるで・・・。」
彼も大任を果たした大人のような気持ちではあったが、無事に帰途につけたことにホッとしている。その小さな一つの塊は、激しくなる一方の風雨の中を少しずつ西澤の大門に向かった。
しかし、二人がやっとの思いでたどり着いた大門は中から閂がかかっていた。夕刻を迎え、和彦がゆうを心配して出て行ったことなど思いも寄らなくて、もはや人が訪ねてくることもないと判断した誰かが用心したのだろう。御大尽の偉容を誇るこの屋敷は、全体にわざわざ五尺ほど青石の石組みで土盛りして作ってある。塀を支える高い石垣が特に重厚な雰囲気を醸しているが、それは堤防が決壊しても洪水から大事な藍玉やスクモを守るためでもあった。かつてゆうがおぶたで見て驚いたが、水害が発生した時用に、何艘もの舟が天井から吊るされていた。それほど藍製品を守ることが重要なのだ。だから台風などで被害が大きくなりそうな時は、必ずと言っていいくらい東西南北の門はかっちりと閉められ、水害から屋敷全体を守るようになっていた。だが、この日の和彦はそこまで思い巡らす余裕がなかった。とにかくゆうの帰還が心配だったのと、時間の観念はどこかへ飛んでしまっていたのだ。二人はとうてい声が届きそうもない門前でしばらく家人を呼んだが、もちろん誰かに聞こえるはずもなく、ずぶぬれで長い時間戸惑っていた。そのうち門の横のくぼみに架けられた梯子に気がついた彼は、ゆうの手を引いてその途中までなんとか上った。梯子はおぶたの天窓の開け閉め用に常備されていたものだ。あわてて防災の諸事を行なっていたので、門外の物まで手が回らなかったのだろう。和彦は風であおられそうな梯子の踏み板から天窓の一つに取り付き、やっとずらせた隙間から中に滑り込んだ。屋内の梁に足を掛けてゆうを引っ張り込み、そして用心深く床に降り立つことができた。この作業所には、外から南京錠がかかっていて出られないことはわかっていたが、それでもまだ戸外の嵐よりはましだ。それにあと一刻もすれば夕飯で皆がそろい、いない自分に誰かが気付いてくれるという期待もある。家内を捜していればここも見つけてもらえる可能性があるからだ。
だだっ広く天井が高い寝床用の建物の中は、草いきれのような藍の切り葉特有のにおいが充満していた。間の空間は取りながら、数カ所に固められた藍俵が適度な温度と湿り気を保っている。有り合わせのボロ布で身体を拭いて、やっと息がつけた。くたるように座り込んだ二人は、なぜか互いの必死さが可笑しくて笑った。生命の危機を共に乗り切った安堵と、満たされた冒険心のようなものが気持ちを明るくさせたのだ。ゆうはいつにない笑顔を和彦に向けた。
「かずさん、ほんまにほんまにおおきに。うちやらのためにあんな怖い思いして助けてくれて、うち、なんとお礼をゆうたらええか・・・。」
和彦はまだ自分の着物から水分を取りながら振り返った。何か返事しようとしたが、ついと目を背ける。ゆうのずぶ濡れの単衣が彼女の身体に貼り付いていて、胸や腰の線があらわにいつにない見えていた。
「いや、ほんな大仰なことないで。あのままやったらゆうさんが危なかったんやもしれん。当たり前のことや。」
視線を外したまま、自分の布を彼女に掛けるように渡した。
「ほんでも、今思えば、もしかずさんの身に何かあったら、と怖ぁなる。うちのために怪我でもなさったら申し訳がたちません。すんません。」
和彦はくどく謝り続ける彼女に、やや苛立っていた。
「ええんや、身の危険に坊も使用人もないやろ。俺やって男やから困った時はもっと頼りにしてほしいと思うとる。」
けっこうきつく言い放ってぷいと顔を振る。その時のゆうの反応は彼には意外だった。
「はい、これからはそないします。さっきのかずさんはものすごう強うて頼りになりました。うち、初めてわかったような気ぃがしました。」
自分を芯から頼っているような微笑みだった。和彦は照れながらも彼女の方に向き直った。外は轟音が響いていたが、二人は穏やかな気持ちに満たされた。
「ここは藍俵のおかげで温いなあ、かずさん。」
二人がもたれている大きな塊が、今自分たちの体力を回復させて疲れを癒している実感があった。和彦は納得できなさそうに苦笑いしながら言った。
「そうか、俺は藍葉やスクモはあんまり好かん。ここも草臭うて嫌や。全然知らんとこで育ったゆうさんが、反対にこんなん好きやなんておもろいな。」
彼は家業を肯定的に見てこなかったので、それが本心なのだ。そしてゆうは自分が好む着物や模様のことなどを夢のように話した。話し合っているうちに、身体が寄り添っていつのまにか寝てしまった。